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5月23日 ちょっと本気でやってみる

 体育の授業の前に、ジャージに着替えた私は、ひとりのクラスメイトの前に歩み寄る。


「今日、付き合ってもらえるよね」


 尋ねると、彼女――レスリング部の部長さんは、真っ白い歯を見せて笑った。


「もちろん。力いっぱい取り組もう」


 そのさわやかな笑顔とともに、パツパツの半そでから覗く彼女の太い腕が、ミチミチにバンプアップする。

 私、これ、練習の時点で死んでしまうんじゃないだろうか。


 今週の体育の時間は、まるっとクラスマッチの練習ということになった。

 校内であればどこで練習しても自由ということなので、相棒のホームである第二体育館のレスリング場を間借りすることにした。


「本番は広い柔道場だけど、今回はここでいいよね?」

「うん。練習できるならどこでも」


 頷きながら、私は軽く辺りを見渡す。

 第二体育館は部活で使うような施設が押し込まれているが、そのひとつひとつに足を踏み入れることはそうそうない。

 レスリング場もまた独特の空気と香りを持つ、一般には見えない学校の顔だ。


 今日は練習なので、まわしの代わりに腰に適当なタオルを巻く。

 ちなみに本番ではまわしが用意されるけど、それもTシャツとジャージの上から装着することになる。

 女子しかいない校とはいえ、男の先生もいるし、さすがに上裸はマズイ。

 やがて準備を終えた私たちは、軽い準備運動を済ませてからリングの中に躍り出た。


「とりあえず組み合ってみようか」

「わかった」


 向かい合って、どちらからともなく腰を下ろす。

 相撲には勝負開始の合図はない――というのは、とりあえず調べたルールで知ったことだ。

 行事の「はっけよい」は、「よーいドン」の「よーい」みたいなもので、じゃあ「ドン」のタイミングはどうやって決めるのかというと、競技者ふたりの暗黙の了解ということらしい。

 どちらからともなく立ち上がった瞬間。

 それが開始の合図。

 どちらかが早くても遅くても仕切り直し。

 そう言葉で説明されると、ものすごく高度なことをやっているように感じる。


 だけど実際にこうして向かい合ってみると、自然と呼吸が合う瞬間というものがある。

 別に示し合わせたわけじゃなくても、そういうタイミングで自然と身体は動くものだった。


 立ち合いを経て、どんと部長さんの胸にぶつかる。

 胸の脂肪の上からでもわかる強靭な胸板が、機動隊のシールドみたいに私の行く手を遮った。

 小学校のころを思い出して、見よう見まねでまわしをとる。

 掴む位置だってわからない。

 とにかく、掴んだところが私のセットポジションだ。

 そのまま力いっぱい押してみようとするけれど、これがまたてこでも動かない。

 単純に体重の差だろうか。

 部長さんの体は、足の裏から地面に根を張っているかのようだった。


「よいしょお!」


 一息ついて、もう一度押し出そうとしてみた、その呼吸の隙に、自分の体が軽くなるのを感じた。

 実際には軽くなったんじゃなくって、宙を浮いたというだけ。

 次の瞬間、私はリングの上に転がっていた。


「うーん……さすがに無謀な勝負だったか」


 率直な感想を口にして、私はゆっくりと起き上がる。

 部長さんが手を差し伸べて、起きるのを手伝ってくれた。


「レスリングや柔道もそうだけれど、本質を見れば、体格を覆す方法はいくらでもある……けど、それは長い練習の成果として身に着けるものだから。今回それをやってのけようってのは難しいだろうね」

「相撲は詳しいの?」

「いいや、ぜんぜん。だからほとんどレスリングの応用でやってるよ」


 その応用ができるというのが、十分な強みだと私は思う。

 なかなかこの、一対一で文字通りに闘うスポーツというのは、現代人の感覚で見れば珍しいものだ。

 そういう私も、それ系の経験があるわけだけど、実際に着の身着のまま体ひとつで闘うのとは、どうしても気持ちが違う。


 部長さんは、軽く屈伸運動をして体をほぐしてから、こちらに向き直った。


「レスリングと違って相撲は一度転んだら終わりだよね。だからまずは、どうにか転ばない方法を考えてみるのはどうだろうか」

「転ばない方法?」

「相手にしがみつくことだよ。しがみついてさえいれば、狩谷さんが転ぶことは、相手も転ぶことになるからね。相手もそう簡単に押し倒せなくなる」

「しがみつく……なるほど」


 彼女が伝えようとしていることは、なんとなく理解できる。

 しがみついて、互いにバランスを取り合っている状態になれば、相手も下手な動きはできない。

 ちょっとのバランス変化が、相手の転倒にもつながってしまうから。

 そうしたら純粋な押し合いの勝負になって、部長さんと私みたいな極端な体格差さえなければ、案外いい勝負ができるような気がする。


「狩谷さん、ちょっと握手しようか」

「うん?」


 よくわからなかったけど、私は差し出された彼女の手を取った。

 そのままにぎにぎと手を握られたので、私も同じように握り返してみる。


「うん、やっぱり」

「やっぱりって何が?」

「狩谷さん、全体的な握力は並みだけど、小指のピンチ力が強いね。昔、何かやってたのかな?」

「ああ……まあ、多少なり。中学校まで剣道を」

「なるほど。剣道って小指を使うんだね」


 ひとしきり確認した彼女は、「ありがとう」と言って手を離した。


「ピンチ力があるなら、最悪、その指さえ残ってれば何とかなる――という状況も多々あると思う。だから狩谷さんは、とにかく何があっても小指だけは相手のまわしから離さない。それを意識してみたら、何か変わるかもしれないよ」

「そういうものかな」


 この小指にそれだけの力があるようには思えないので、ちょっと眉唾だけど。

 でも小指で戦うというのは、私にとっては多少なり飲み込みやすい言葉ではあった。

 「竹刀というものは小指で振るんだ」というのは、小学校のころに通ってた道場で教えられたこと。

 新品のスポンジみたいになんでも素直に吸収していた幼ない日の私は、言われるがままに竹刀を振り続けてきた。

 それが正しいかどうか疑うこともなく。

 子供にとって大人の言葉というのは、それくらいに絶対的な価値を持っている。


 何を意識すべきか分かったところで、もう一番、部長さんと立ち会ってみる。

 結果は今度もまた豪快に投げ飛ばされてしまったが、それでも最初の一回目よりは、長く持ったような気がする。


「心なしか、さっきよりまわしをしっかり持てた気がする」

「心なしか、じゃないさ。投げた後も、左手はまわしを掴んだままだったしね。その意気その意気!」


 部長さんはまた真っ白な歯を見せて、サムズアップで答えてくれた。

 これ、もしかして、本当に、頑張ったらどうにかなるのかな……?


「もう一番お願い」

「よしきた」


 三度目は、私のほうからリングの上に腰を下ろしていた。

 私という人間は、どうにもわかりやすく、レベルアップという言葉に弱いんだ。

 どんな分野であったとしても、上手くなる過程はとても楽しい。

 私は今、おそらく、楽しんでいる。

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