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5月14日 自分のペースで歩いていこう

 世界が揺れる。

 ぼんやりとした視界の中で、武骨な白塗りの壁が、ぐにゃぐにゃとピカソの絵画みたいに歪んで見えた。

 自分が今、座っているのか寝ているのかもわからなかった。

 でもたぶん、寝ている。

 背中に感じるひんやりとした固い感触は、壁じゃなくって床だと思う。


 不意に、誰かが顔を覗き込んだ。

 ペットボトルを手に、心配そうな顔で私を見ている。


「ユリ……?」

「私です、星先輩」


 抑揚のない声に、意識が現実に引き戻される。

 ぼやけた視界の中に、今はくっきりと穂波ちゃんのちんまい姿が見えていた。

 ユリの姿に見えたのは、身体的に弱った私のダダもれの感情のせい。

 そう言えば、しばらくちゃんと会えてないからな……会いたい。

 ひどい頭痛に襲われる中で、心もすっかり弱り切っていた。


「スポーツドリンクを薄めたやつです」

「ありがとう……たぶん、無理してでも飲んだ方いいんだよね」

「そうですね。無理してでも飲んでください」

「わかった」


 穂波ちゃんに手伝って貰って、仰向けになっていたらしい身体を横に向ける。

 そうして、少しだけ上半身を起こして、舐めるようにペットボトルの飲み物を含んだ。

 薄めたと言ってたスポーツドリンクは、それでも強い塩気と酸味を感じた。


 水分と塩分が入ったからか、少しだけ気分も落ち着いた気がする。

 回復してくると、今の自分の状況が、何となく思い返せるようにもなった。


 今日は延期になっていた東高とのソフトボール定期戦の日。

 あいにくの雨天ではあったけど土砂降りではないので、雨足が落ち着くのを待って、予定よりも少し遅れて開催されることになった。

 定期戦は、両校共に全校応援がしかれる。

 新入生の地獄の応援練習が最初に活かされるのがここというわけだ。

 もっとも、運動部が大きな大会で全国にでも行かないと、これ以外の機会は稀だけど。


 そんな雨天と体感的な涼しさですっかり気が緩んでしまったのか。

 通気性が悪いカッパを着ての応援ですっかり蒸れたらしい私の身体は、情けないことに、熱中症でぶっ倒れてしまったというわけだ。


「今、保険の先生が保冷剤貰いに行ってるので、それが届いたらもっと楽になると思います」

「うん……そっか」

「熱中症は、曇りとか天気が悪い日の方が気をつけないといけないんですよ」

「うん……肝にめいじとく」


 そんな私の看病をしてくれていたのが穂波ちゃんだった。

 応援席は特に決まった席順はなく、好き好きに並んでいたものだけど、私の周りは基本的に文化部が多い。

 ユリもチア部の本領発揮と言わんばかりに応援に精を出している。

 そんな中で、ちゃんと熱中症とその対応を熟視している人間が傍にいたことは、これいじょうない幸運だと言える。


「ごめんね、迷惑かけちゃって」

「いいんです。困ったときはお互い様ですから」


 そう言って、穂波ちゃんは自分の分らしいスポーツドリンクを飲む。

 それから、ぽつりと思い出したように口を開いた。


「ユリさんって、歌尾さんの恩人さんのことですか?」


 頭痛もありつつ、思いがけない名前が出てきて、僅かに思考が遅れる。

 でも、そう言えばさっき自分で言い間違えたんだっけ……と数分前の自分の痴態を思い出して、多少は下がったはずの体温が少し上がった。


「そう……明日約束してるヤツね。今日はチア部で元気に脚開いてる」

「それ、言い方がなんかえっちくないですか?」


 えっちいですけど。

 ユリのチア衣装なんて下手したら見納めなので、しっかり目に焼き付けるつもりが、こうなってしまってはご破算だ。

 自然とため息もこぼれる。


「宍戸さんも明日、大丈夫なんだよね……?」

「はい。今日もその話をしました」


 穂波ちゃんの返事に、胸の内にあった僅かな不安がほどけていく。

 宍戸さん、今週はいろいろあったからな。

 昨日の今日だし、ちゃんと心の整理ができているか心配はあったけど、彼女は見かけよりも強いひとなのかもしれない。


「昨日の話も、ざっくりとですけど聞きました。結局、須和先輩とちゃんと話はできなかったけど、自分のペースで向き合ってみるって。星先輩が、力になってくれたんですよね?」

「力になれたかは分からないけどね……結局、問題は先延ばしだし」

「でも昨日の夜、久しぶりに楽器を自分で磨いたって言ってました。吹くのは……怖くてできなかったみたいですけど」

「そっか」


 今は彼女のペースでいい。

 次に力を貸すことがあるとしたら、今度こそ彼女が決断したとき。

 もしくは、決めることができずに、また迷ってしまったとき。

 なにかきっかけを与えてあげられればいいのだけれど、私も今は、いい方法が思いつかなかった。


「星先輩は、いつもこうやって人助けをしてるんですか?」

「ぜんぜん……たまたまだよ」


 今回のことだって、たまたま宍戸さんと似た気持ちを私が抱いていたというだけ。

 だから彼女の気持ちがよく分かったし、彼女の求める言葉も分かった。

 裏返せば、私が欲しかった言葉だと思うから。

 もっとも一年生の時の反骨心まんまんの自分が、同じ言葉を投げかけられて、素直に頷いたとは思えないけど。


「それでもすごいです。私、結局なんの役にも立てなかった」


 穂波ちゃんがしゅんと肩を落とす。


「そんなことないよ。穂波ちゃんの言葉があったから、宍戸さんも須和さんのこと冷静に受け入れられたんだから」


 そうじゃなきゃ、きっと「好き」って言葉は出てこなかった。

 私たちみたいな人間が使う「好き」は重みが違うから。

 宍戸さんがどれだけの気持ち――この場合は敬意かな――を持ってその言葉を口にしたのか。

 どうでも良いひとには決して使わない、ふたつの音。


「ありがとうございます。だったら、いいんですが」


 昨日は無理に部活に行かせたから、やっぱり心配だったんだろう。

 相談に乗ってくれた彼女とアヤセには、何かお礼をしなきゃな。

 そもそもこうして、看病までしてもらっているんだから。


 やがて、保険の養護教諭が保冷剤を持ってやってきてくれた。

 水分をとってだいぶ良くなったのもあり、気になるほどの具合の悪さがなければ病院には行かなくても大丈夫だろうということだった。

 初夏で気温も高すぎなかったことが幸いしたようだ。

 むしろそんな状況でぶっ倒れてしまった、自分の体力のなさを責めよう。

 少しは運動した方がいいのかもしれない。

 でも走るのは嫌いだから、散歩くらいがいいところかな。


「元気になって良かったです。明日、楽しみにしてます」


 最後に穂波ちゃんがほんのりと笑う。

 私は手を振って、それに応えた。


 明日は久しぶりにユリとちゃんと話せる。

 その時は私は、ちゃんといい先輩を演じることができるんだろうか。

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