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5月10日 震えた

 昼休み。いつものアヤセたちの誘いを断って、私は三年七組の教室を訪れていた。

 現在の三年生は、二年の時の文理選択の結果、一組から四組までが文系。

 五組から七組までが理系というクラス分けになっている。

 つまりこれから向かうのは理系の教室ということで、文系の私にとってはちょっとした越境行為だ。

 その中でも最奥、廊下の突き当りにある教室の前で、私はその辺にいた生徒を呼び止めた。


「七組の人?」

「あれ、会長じゃん。ついにここまで上ってきた?」

「ついにってどういうこと?」


 女生徒は「冗談冗談」と笑って、私の背中をバシバシ叩いた。

 うーん、なれなれしい。

 文系はアホの吹き溜まりだけど、理系のこういうところもどうかと思う。

 あと「上ってきた」とか、ナチュラルに見下されたし。

 これだから理系は……というのは、きっとあっちも思っていることだろう。


「須和さん、いる? 須和白羽さん」

「いるいる。ちょっと待って。おーい、スワンちゃーん!」


 彼女は教室の奥に向かって声を張り上げた。

 すると、窓際に座ってサンドイッチをついばんでいた須和さんが、こちらを振り返る。


「スワンちゃん?」

「須和ちゃんだからスワンちゃん。白い羽だし」

「ああ、そう」


 何となく聞いてみたけど、大した理由じゃなかった。

 というより理由にもなってないような気がする。

 単純な親父ギャグってことでいいんだろうか。

 そうこうしている間に、彼女が廊下までやってくる。


「何?」


 須和さんは挨拶もなしに小首をかしげて尋ねる。

 昨日の今日だし察しがつきそうなものだけど。


「勧誘の件」


 つられて端的に要件を伝えると、彼女は小さく頷いてから、自分の席へと振り返る。


「ちょっと待って」


 須和さんは、そう言い残して自分の席に向かう。

 手早くランチボックスを包みなおして、それを手に私のもとへと戻ってきた。


「行こうか」

「どこに?」

「ごはん」


 やっぱり話は交わらない。

 それでも先に歩き出した彼女の後について、私も歩き出していた。


 連れてこられたのは音楽室だった。

 中に入ると、吹奏楽部らしき生徒が数人肩を寄せ合って、スマホで動画か何かを見ていた。


「あれ、スワンじゃん。あと会長? え、なに、どういう組み合わせ?」


 吹部でもスワンなんだ。

 そんなどうでも良いことで気を紛らわせていると、須和さんは奥の防音扉を指さす。


「空いてる?」

「空いてる空いてる。見張っとこうか?」


 部員のひとりがそんなことを言う。

 見張るって何さ。

 須和さんは首を横に振るだけでそれに答えて、私を扉の向こうへ誘った。


 防音扉の先は、六畳もないような小さな個室だった。

 縦型のピアノが一台置いてあるだけで、他には何もない、殺風景な部屋。

 芸術選択は書道を取っているので、この部屋はもとより、音楽室に来るの自体が初めてのことだ。

 でも、音楽教室の個人レッスンルームに似ているなと思った。


「見張りって……私、何されるのかな?」


 防音の密室に閉じ込められて不安しかなかった私は、苦笑しながら冗談めかしていう。

 須和さんは、壁に立てかけられていたパイプ椅子をふたつ組み立てて、向かい合うように置いた。


「今日はいらない」

「普段はいるの?」

「私の後輩指導、厳しいらしいから」

「はあ」

「外で誰かに説明しててもらわないと、イジメみたいに思われるから」


 彼女はパイプ椅子のひとつに腰かけて、持ってきたランチボックスを開いた。

 今、さらっと、結構すごいこと言わなかった?

 イジメと思われるくらいの指導って、いったいどんなだろう。

 私は、いくらか身構えながら向かいの椅子に腰かけた。


「ごはんは?」

「大丈夫。食べてきた」


 そう答えたはずなのに、彼女は私と、自分のランチボックスとを見比べて、そっとそれを差し出す。


「いる?」

「大丈夫。食べてきた」


 もう一度同じ言葉を繰り返すことになったけど、それでようやく彼女も分かってくれたようだった。

 ひとりで黙々と、昼食の続きを摂り始める。

 それはいいんだけど、なんで私はここに連れてこられたんだろう。

 宍戸さんのことを伝える用事はあったけど、別に廊下で話すだけでも十分だったのに。


 居心地の悪さを感じながら何となくピアノを眺めていると、ようやく須和さんが口を開いた。


「何て言ってた?」

「え?」

「宍戸さん」

「ああ」


 虚を突かれて、狼狽えたみたいになってしまった。

 私は咳ばらいをして取り繕うと、昨日聞いたことをそのまま彼女に伝えた。


「吹部に入るつもりはないって」

「そう」


 それだけ答えて、彼女は再び手元のサンドイッチに視線を落とした。

 それはどういう反応なんだろう。

 納得してるのか、してないのか。

 本心が見えないところは、ちょっと穂波ちゃんに似ている。


「その気がないのに勧誘を続けるのは迷惑じゃないかな」


 それだけだと私の座りが悪いので、本題を口添えておく。

 ここは先輩らしく、後輩の望みはちゃんと伝えておかないといけない。

 須和さんは、睨むような鋭い視線で私を見つめ返す。


「ゼロをイチにするには、行動するしかないから」


 有無を言わさないすごみに当てられて、思わず息をのむ。

 気を抜いたら殺されるんじゃないだろうか。

 そんな気迫を目の当たりにすると、見張りが必要という話も頷ける。

 彼女の指導を受ける人は、ちょっと可哀そうだ。


「なんでそんなに彼女が欲しいの?」


 何か言い返さなきゃと思って、そんな問いを投げかける。

 須和さんは、いつの間にか食べ終えたランチボックスを閉じて、弁当包みにしまい込んだ。


「中三の夏」


 須和さんがぽつりと、溢すように口にする。


「彼女の演奏を初めて聞いた」

「中三って言うと……宍戸さんはまだ中一?」

「後輩だってのは後で知った」

「そんなにすごかったの?」

「震えた」


 恥ずかしげもなく、彼女はそう言った。

 たぶん恥ずかしいなんてこと微塵も思ってなくって、本当に、文字通り震えたんだろうなってことが、その短い言葉で伝わった。


「彼女の中学、演奏は全然だったけど。彼女の演奏だけは群を抜いて上手かった」

「そうなんだ」

「でも、窮屈そうだった。たぶん抑えてたんだと思う」

「抑える? 大会なのに?」

「吹奏楽は、ひとりだけ上手くても駄目だから。上手すぎるひとは、周りに合わせて抑えることも必要」

「それって、なんかヤだね」


 口から出た素直な感想に、須和さんは驚いたように目を丸くした。

 それから力強く頷き返す。


「全力を出した彼女と一緒に演奏してみたいって、そう思った」


 そう言えば宍戸さんって、めちゃくちゃ遠いところから通ってるんだっけ。

 聞いた話だと電車だけで一時間以上。

 乗り換えや、駅から歩く時間も含めたら片道で二時間近く通学にかけていると聞いてる。

 そこまでしてウチに通ってるのって、もしかして――


「須和さんが宍戸さんをウチの学校に誘ったの?」

「違う。偶然」

「あ、そうなんだ」


 と思ったら、全力で否定された。

 感動のアオハルストーリーは無かったようだ。

 珍しく前のめりになったぶん、ちょっと肩透かしを喰らった気分になる。


「応援練習の時に見かけて驚いた」

「須和さんも驚くことあるんだ」

「運命ってやつがあるなら信じる気持ちにもなった」


 またそういう恥ずかしいワードを……でも彼女が言うとなんだか様になっているのがずるい。

 なんなんだろう、この有無を言わさないオーラみたいなのは。


「それでも、やっぱり無理矢理は良くないと思う」


 私はあくまで宍戸さんの味方をする。生徒会の後輩だからというのもある。

 でもそれ以上に、「今まで、やったことがないことをやってみようと思った」と言った彼女の気持ちが痛いほどによく分かって、後押ししたかった。

 須和さんも、折れてくれたらよかったのだけど。その程度の正論で折れるくらいなら、私を通してまで勧誘をしようとは思わなかっただろう。


「『Sing, Sing, Sing』」

「シング……なに?」

「ローテーションで決まってる今年のウチの自由曲。知らない?」

「ごめん、吹奏楽とかそっち方面は詳しくないから」

「聞けばわかる」


 須和さんは、膝の上のランチボックスを足元に置いた。

 そのままスマホで動画でも見せてくれるのかと思っていたけど、彼女は立ち上がって、傍らのピアノの前に腰かけた。

 蓋を開いて、白と黒の鍵盤が露になる。

 そして楽譜も開かずに、しなやかな指先を走らせた。


 聞けばわかる。

 そう言った彼女の言葉は確かだった。

 軽快なリズムで刻まれる、ジャズナンバー。

 何で聞いたかと言われたら、たぶん映画だ。

 ウチの県が舞台になった昔の青春フィルム。

 冴えない女子高生がジャズを頑張るとか、そんな感じの映画だった。


 そんな事よりも、私は目の前で繰り広げられている即席の演奏に目と耳を奪われていた。

 観客たったひとりのコンサートは、確実に私の心を彼女にくぎ付けにした。


「……知ってる?」


 最後まで演ったのか、それともちょうど曲の節目なのか、とにかく演奏を終えた彼女が振り返って、小首をかしげた。

 まるで大したことないと言わんばかりの様子に、返す言葉も見つからなかった。


「聞いてた?」


 念を押すように彼女が言う。

 私はようやく呼吸というものを思い出して、細く長い息を吐いた。


「驚いてた」

「大したことなくて?」

「まさか」


 冗談でしょ。

 こんなの見せられたら、私は下手に口を挟むこともできない。

 音楽のことなんて全然よく分からないけど、そんな人間でも言葉を失う。

 須和さんの言葉を借りて言えば「震えた」。

 たぶんこれが、そういうこと。

 それよか、須和さんってトランペットのひとだよね?


「彼女が加わったら、間違いなくすごい演奏になる。私はそれが聞きたい」

「そんなにすごいの」


 彼女にそこまで言わせる演奏なんて、気になるじゃないか。

 でも「理解ある先輩」としては、宍戸さん本人の意思も尊重したい。

 私が説得するのは、なんだか違うような気がする。


「夏いっぱいは待てる」


 そんな私の迷いを掬い取るように、彼女は言う。


「宍戸さんに伝えて」

「気長だね。その間に須和さんも引退しちゃうんじゃないの」

「吹奏楽の全国大会は秋だから」

「全国、行けるの?」

「私が連れてく」


 そう口にした彼女には、一切の迷いも妥協もなかった。

 ああ、そうか。

 彼女もそういう人間か。

 力があって、それを発揮できる場所を心得てるひと。

 自分の好きを知っていて、それに一直線に走って行けるひと。


 キラキラまぶしい、青春真っ盛りなひと。

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