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5月4日 ひとりの夜

 最近は、家が静かなのにもだいぶ慣れてきた。

 そりゃ、家の中で一番うるさい奴が出ていったわけだから、慣れが必要なのは当然なのだけど。

 夏祭りが終わって、屋台どころか人っ子ひとりいなくなった商店街は、哀愁を通り越してどこか不気味に感じる。

 これは、そんな感覚に近いような気がした。


 ユリのこと、昨日の毒島さんのこと。

 心配ごとは沢山あるのに、私というやつはここいちばん勉強に身が入っている。

 胸の内のもやもやを追い出すみたいに、頭を空っぽにして、偉人の名前や英単語を詰め込む。

 先月の集中力のなさが嘘みたいにはかどって、昨日の偽勉強会のおかげもあってか、学校から与えられた課題に関してはすべてこなしきってしまっていた。


 それでも気持ち的には飽き足らず、アネノートを開いて数学の要点をⅠAの段階からざっとおさらいしていく。

 学期はじめの実力テストが思ったより振るわなかった私は、すべての分野において、基礎から叩き直す必要性を感じていた。基礎なくして応用なし。

 私は基本的に、一歩ずつ積み上げていくタイプだ。


 ユリからはまだ、宍戸さんたちとの顔合わせについて、何の返事もない。

 スマホを届けに行った時の彼女の父親の話では、合宿は明日までの日程になっているらしい。

 ずいぶん長いなと思ったけど、炊事や洗濯も含めて生活のすべてを共同作業で行うタイプのチームワーク訓練を行っているらしい。

 チア部もチア部で、チームの基礎を固めているということだろう。


 アヤセは相変わらず忙しそうにしている。

 昨日の夜にメッセージで軽くやり取りした時には、小遣いを上げてくれないと割に合わないと嘆いていた。

 毒島さんのことを相談したいなと思いもしたけれど、そんな彼女の姿を見たら、するにできなかった。


 そして毒島さん。

 彼女はどうして、あんなことをしたんだろう。

 私のことを考えてくれて、というのはわかる。

 分かるけど、そういう関係を今まで築いていたっけ。


 思い返せば、彼女とちゃんと言葉を交わしたのは生徒会選挙の顔合わせのとき。

 その時は互いの顔どころか名前すらも知らないで、完全なる「はじめまして」だった。


「毒島心炉です。よろしくお願いします」


 そう言って彼女は、握手を求めるでもなく、ただただ冷ややかな目線を私へ送ってきた。

 何か悪いことをしただろうか。

 選挙に出馬したこと自体が、生徒会長を目指す彼女にとっては悪いことなのだろうけれど。

 それとは別の、なんというか、敵愾心みたいなものを、視線の中からひしひしと感じ取った。


「狩谷星です。よろしく」

「知ってます。明さんの妹さんですよね」

「その、誰かさんの妹って呼び方、好きじゃないんだけど」


 敵対意識丸出しで来た相手に優しく接する義理はなく、私もぶっきらぼうに答えた。


「それはすみませんでした。私としては、お姉さんの方が印象が強かったものですから」


 彼女は一年生のころからずっと生徒会に所属している、というのはたった今、立候補の表明挨拶で聞いたばかりの話だ。

 だったら、同じ生徒会に属する姉と面識があるのは当然のこと。

 当然のことだけど、それを話に持ち出されるのは御免被りたい。


 表明会は終わったのだし、特に彼女と話すこともない。

 選挙で戦う者同士仲良くするというのもおかしな話だし、私は早々に立ち去るつもりだった。

 それをわざわざ呼び止めたのは、彼女の方からだった。


「なかなか、姑息な手段を使うんですね。まさか推薦人を現生徒会長に頼むだなんて」


 振り返って彼女を見ると、射貫くような視線が一層とげとげしく私に突き刺さる。

 なるほど、それで敵意むき出しだったわけだ。

 私は胸を張って答える。


「推薦人は本校の生徒であることが唯一の条件。だったら、上級生でも、現生徒会長でも問題はないわけでしょ」

「それでも通例としては、現生徒会の幹部役員は避けられるものでした。お墨付きと見えるようなイメージの格差を生まないようにと」

「通例であってルールじゃないでしょ。それに私が頼んで立ってもらったわけじゃないし」


 すると毒島さんは目に見えてうろたえて、それまでの虚勢が大きく揺らいでいた。


「じ、じゃあ、会長自ら立候補したということですか? どうして?」

「いや、知らないけど」


 そんなの私の方が知りたいくらい。

 ただ事実だけをかいつまむなら、選挙に立候補した私に、現会長が推薦人を名乗り出た。

 それだけのことだ。

 毒島さんは怒ってるんだか悔しいんだか、よく分からない調子で表情をゆがめて、そのまま地団太でも踏みそうな勢いだった。


「そうまでして生徒会長の肩書が欲しいですか?」

「会長の座は別にいらないけど……ただ私は、選挙に勝たなきゃいけないだけ」

「それって……ごめんなさい、どういうことですか?」

「言葉のまんまのつもりだけど」


 私は生徒会長にならなきゃいけない。

 いや、この選挙で勝たなければならない。

 毒島さんにはわからないだろうけど、私にとってそれは大事なこと。

 残り少ない高校生活を、面倒な肩書を背負って生活することになっても、果たさないといけない約束がある。

 そのためなら手段は選んでいられない。


「長い役員実績がある毒島さんでも、生徒会長が推薦人についただけの馬の骨は脅威なんだね。だったら、勝ち目が見えて来たかも」


 虚勢と大口は戦いの基本。

 剣道の試合だって、気合で相手をびびらせた方が勝つ。

 それで戦意喪失してくれれば儲けものだったけど、彼女はどうやら、逆に燃え上がるタイプの人間だったようだ。


「あなたにだけは、会長の座は渡すことができません。私はあくまで正々堂々、ルールに則って、あなたを打ち負かしてみせます」

「だから、ルールは別に破ってないんだけど……」


 私の主張は彼女の耳には届いていないようだった。

 それから毒島さんは、高校生という身で考えられるあらゆる手段を使って、選挙期間の宣伝戦略を繰り広げた。

 私はと言えば、選挙演説に向けた原稿を一行で仕上げると、残りの時間はユリやアヤセと遊んだり、勉強したりして過ごしていた。

 推薦人についたあの人も、そんな私に特に何か言うでもなく、いつもと変わらない学校生活を送っていただろう。

 何か推薦活動をしていたという話も、私は聞いていない。


 そうして行われた公開選挙当日。

 ある意味で学校史に名を刻んだらしい演説会を経て、結果はご覧の通りとなった。


「そんなバカな……」


 まんま夢でも見ているかのような毒島さんの表情は、今でも覚えている。

 寝ても覚めても、開票結果の数値が変わることはないけれど。


「どんな手を使ったんですか?」


 尋ねる彼女に、私は相変わらずの調子で答える。


「別になにも」


 本当に何も。

 強いて言えば私の方が少し、この学校の生徒のノリというものを理解していたのかもしれない。

 私の方がより、この学校のルールに則っていたということ。

 ルールを重んじていた彼女にとっては皮肉になるだろうけど、結果を左右したのはそういうところだと思う。


「結果は受け入れましょう……でも通例として、選挙を戦った人間は幹部役員に配属されることになってます」

「また通例?」

「あなたには関係ないことかもしれませんけど。通例として、私の意思を表明しておきます。私を副会長に任命してください」


 毒島さんは、ただ真っすぐに私の目を見つめて、そう言った。

 曇りひとつない、清廉潔白な瞳。

 思えば私はあの時すでに、彼女の中のルールに則った信用というものを、欠片でも感じ取っていたのかもしれない。

 だから私は約束した。


「わかった。よろしく、毒島副会長」

「はい」


 そんな――誰よりもルールと正々堂々を重んじる彼女が、嘘をついてまで私に歩み寄ろうとしてくれた。

 けれど私はそれを突き放すことしかできなかった。

 どうしたらもう一度、彼女に誠意を見せることができるだろう。

 どうしたら、次にまた同じ顔で彼女に会うことができるだろう。


 毒島さんは、私が誰かに助けてほしそうな顔をしていたと言った。

 私にはその自覚はなかった。

 だけど今ははっきりと分かる。

 私は今、誰かの助けを欲している。


 そうして更けるひとりの夜。

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