体育の授業の前に、ジャージに着替えて教室を後にする。
女生徒しかいない学校であれば、こういう時にわざわざ更衣室に移動しなくていいのは楽だと感じる。
窓と入口のカーテンさえ閉めてしまえば、教室がそのまま簡易更衣室となるからだ。
教室を出たところで、壁際にユリが佇んでいた。
一週間前くらいに見た構図だけど、今日の彼女はいつものセーラー服姿だった。
「決着をつけるときが来たようだ、トモよ。あ、この場合のトモって言うのは――」
「わかったけど、何か用?」
「おっと、白々しい返事! 忘れたとは言わせないからね、勝負のこと」
この導入のされかたをしたら、嫌でも思い出す。
良い感じに煙に巻けたと思っていたけど、覚えていたらしい。
「この間、長距離走やってたでしょ。じゃあ今日が決戦のシャトルランだね」
「ユリはもう終わったの?」
「持久走は四分半で七点! シャトルランは五〇回で六点!」
「シャトルラン何があったの」
五〇回と言ったら高校女子の平均程度じゃないか。
ユリならもう少しやれそうなものだけど。
「靴ひも踏んづけて盛大に転んじゃった」
「それは……なんだろう、ご愁傷様」
なんともユリらしい理由だった。
よく見たら、手に打撲らしい青あざがあった。
どんな転び方をしたんだろう。
その瞬間だけ見てみたくなった。
私の持久走はギリギリ平均越えの六点。
確か先週の測定会は二点差で終わっていたはずだから……一〇点とれば、一応勝てる計算になるのか。
シャトルランで一〇点……それは……すごく、面倒だ。
「あたしはもうお願い事決めてるから、心して掛かって来るがよいぞ。ぐふふ」
ユリは悪代官みたいな笑顔を浮かべて、颯爽と自分の教室に帰っていった。
体育館のライン上に、クラスメイトが一列に並ぶ。
念入りに足の筋を伸ばす生徒もいれば、めんどくさそうにあくびをする生徒もいる。
「うちの部、合計六〇点以上取らないと基礎練のメニュー倍になるんだよね」
「あんた、吹部じゃないの?」
「吹部は名誉運動部だよ」
そんな会話をよそに、私は念入りに靴ひもを結び直す。
万が一にも、ユリと同じ惨事を起こすわけにはいかない。
ふと顔を上げると、毒島さんが不思議そうに眺めていた。
「ずいぶん気合が入ってますね。目標は何点ですか?」
「一〇点」
「また……ずいぶんと頑張るんですね」
「貞操がかかってるからね」
「はあ」
毒島さんは、たぶん理解してないんだろう頭で、怪訝な表情をうかべた。
貞操というのはもののたとえだけれど、それくらいの気持ちで臨んでいる。
今のところは。
「それじゃあ始めるぞー!」
体育教師の掛け声で、流暢なアナウンスボイスが再生される。
定番のシャトルランの指示音声。
それまでめんどくさそうにしていたクラスメイトたちも、ピリッとした空気を纏い始める。
やがて五秒前のアナウンスが流れて、計測がスタートする。
はじめの数分間のゆったりとした音階。
シャトルランをするうえでは、個人的に、この序盤がどうにも苦手だ。
歩いて間に合うような、でも微妙に間に合わないような。
普通に走って、計測ラインの上で空き時間を休憩に使ったほうが良いような、ぴったりの時間で往復した方がいいような。
普段、どんなスポーツをやっていても経験しない、真綿で締め付けられるような時間に、軽いトラウマティックストレスすら感じる。
私は今、走ることを強いられている。
シャトルランの高校生女子の平均は五〇回程度。
これは女子高生の体力の限界を示しているわけではなく、心の折れ具合を示していると言った方が正しい。
限界までやるというなら、もう少し頑張れるような気もするけれど、キリのいいところまできたし、息もあがってきたし、このくらいで終わっても良いかな。
その境目が五〇回という記録。体力測定に限らず、えてして、平均とは諦めの数字だと私は思っている。
対して女子の最大得点である一〇点は九〇回弱。
これって確か、男子の平均くらい。
世の中の男子どもが「もうそろそろ良いかな……」と思うくらいまで堪えれば、私の勝ちだ。
そう、耐えることができれば。
ラン五〇回。
シャトルランはアナウンス音声が回数が告げてくれるので、自分で数える必要はない。
というより、数えている余裕なんてない。
頭の中は三〇数回目くらいからすっかりランナーズハイで、だいぶテンポの上がった音階と、憎たらしいとすら思えてくるアナウンス音声だけが、頭の中で繰り返し響いていた。
正直、もうやめたい。
勝負さえなければ、ここが私の諦め分水嶺だ。
目標の九〇を目指すとなれば、まだまだ半分を過ぎたぐらいということだ。
なにそれ。
しんどすぎる。
そもそも、別に勝つ必要なんてないんじゃないだろうか。
そりゃ勝てるなら勝った方がいいけれど、苦しい思いをするくらいなら引き分けで手を打っても良い。
引き分けなら九点さえ取れば……あれ、九点って何回以上?
七〇回くらい?
こんなことならドロー試合のラインも調べておけばよかった。
ドロー試合……泥試合……ふふっ。
「狩谷ぁ、余裕だなー。へばるんじゃねえぞー」
思わず笑いが零れてしまい、それを見たクラスメイトから檄を受ける。
五〇回の平均点くらいでアーリーリタイアした彼女たちは、壁際にたむろして、競馬観戦中のオッサンたちみたいにゲラゲラと野次を飛ばしていた。
私が言うのもなんだけど品がない。
でも女子校って所詮はこんなもん。
気づいたら七〇回目に到達していた。
流石にもう限界。呼吸は荒いを通り越して、フエラムネみたいな音をあげているし。
脚だって、もはやどうやって動かしているのかも分からないくらい。
七〇って終わって良いラインだっけ。
勝手にそう思ってるだけだっけ。
もうなにがなんだかわかんないけど、ひとつだけわかることはある。
九〇はムリ。
ほんと大口叩いてすいませんでした。
もうゴールしてもいいよね。
諦めが足を鈍らせた。
あ、これ間に合わないやつだ。
一度マイナスの感情が頭をよぎると、芋づる式に「できない理由」が積み上がっていく。
どんな計算問題よりも、諦めロジックの構築は早い。
「会長、ファイト!」
意識の端で、毒島さんの声援が聞こえたような気がした。
もしかしたら聞き間違いか幻聴かもしれないけど。
どうせ幻聴なら、ユリの声の方が良かったなんて、あんぽんたんになっていた思考が多少なり整った。
こんなまともな応援、いつ以来だろう。
ありがちな声援も、久しぶりに受けてみると、思ったより元気が湧いてくるものだ。
あとちょっとだけ頑張ってみてもいいかな。
乳酸漬けになった脚に鞭を打ってスパートをかける。
ギリギリ間に合うか間に合わないかの瀬戸際。
シャトルランにおいては、こうなってからが長いという人もいる。
下りの音階が終わりへ向かう。
計測ラインが目先に迫る。
あと三歩。
あと二歩。
あと一歩――
「よーし、計測おわりだ。お前ら、残りの時間は好きにしていいぞ。バスケやるなら先生がみっちり仕込んでやる」
何人か血の気の多い運動部員たちが、本当にバスケのスリーオンスリーを始めたけれど、大半のクラスメイトはもっぱらグループごとに車座になって談笑タイムだ。
私はというと、精根使い果たして、力石に負けた後のジョーみたいにうなだれていた。
「残念でしたね。一〇点とれなくて」
毒島さんの声が右の耳から入って、左の耳から出ていく。
返事をするような気力もない。
あと、この後のことが怖い。
「七五回で八点なら十分じゃないですか。最後の線を踏めてたら、九点でしたけど」
容赦のない評価がぐさりと心に突き刺さった。
燃え尽きたい……真っ白に……なんならそのまま、そよ風に吹かれて飛んで行ってしまいたかった。