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4月19日 きっとうまくいく

 授業が始まって二日目。

 三年生にとっては変わらない日常が来ただけなので、それほど感慨深いものはない。

 私はつくづく、あたりさわりがないことを望む人間なんだなと思う。


 放課後の生徒会室に、お茶を啜る音がふたつ、やまびこみたいに響き合う。

 ほんとにまた来たよ。

 温かいお茶で完全に緩み切った顔――見た目は無表情だけども――の穂波ちゃんを横目に、私は読書代わりのアネノート――真アルティメットなんちゃらは長すぎるので勝手にそう呼ぶことにした――を開いていた。


 まさか、昨日の今日でほんとに来るとは思わなかったわけで。

 既に遣える気を使い果たした私は、堂々の放置プレイを決めていた。

 来て良いって言ったのは私だけどさ。


 穂波ちゃんは、基本的にはゆっくりまったりと放課後の生徒会室を満喫しているようだったが、時おりちらりと私の方に視線を向けてくる。

 単純に何をしてるのか気になっている、もしくは仕事があるなら振ってくださいのアピールなんだろう。

 分かりづらいけど。

 しかし、例に漏れず特に仕事がないので、こんな放送事故みたいな時間が流れているというわけだ。


「今日の学校はどうだった?」


 流石に私の心臓の方が持たなくて声を上げる。

 なんだか、夕食時に必死に家族団らんの会話を探すお父さんみたいだなと、言った傍から恥ずかしさがこみ上げた。

 こういうの向いてないんだってば。


「いまのところ、授業はついていけそうです。物理……は、ちょっと苦手かもしれないですけど」

「穂波ちゃんは文系志望?」

「まだ決めてないです。でも部活を頑張るなら、文系の方がいいと思うとは言われました」

「誰に?」

「インスタのひとに」

「インスタやるんだ……」


 ちょっと意外だった。

 そりゃこの間まで中学生でも、やる子はやってるだろうけどさ。

 そういうのと、穂波ちゃんとのイメージが、私の中では重ならない。


「あ……私のアカウントじゃなくって。ウチの? 親の? とにかく、そういうアカウントで」


 彼女は取り繕うように付け加えた。

 子育てアカウントみたいなやつかな。

 そういう文化があることくらいは知っている。

 私が腑に落ちた様子を見て安心したのか、彼女は宙を泳いでいた手を止めて、お茶を一口飲んだ。


「私自身は、あんまりです。スマートフォンも高校になって、寮に入るからってやっと買ってもらえて。あ……良かったら連絡先交換してもらってもいいですか」

「別にいいけど」


 QRを使って、互いの連絡先を交換する。

 言った通りにまだスマホやアプリの使い方に慣れていないのか、どこからどうやって友達登録するのか四苦八苦していたので、簡単にレクチャーもするはめになった。

 無事に私のIDが追加されて、彼女は賞状でも貰ったみたいにスマホを自分の目の前に掲げた。


「ありがとうございます。これでクラスメイトとも交換できそうです」

「クラスに友達はできたの?」

「はい。みんな優しくて面白い人たちです」


 穂波ちゃんも例に漏れず面白い子だと思うけど。

 その言葉は心の中にとどめておく。


「でもひとり、まだ話したことがないひとがいて……」


 彼女の声のトーンが僅かに落ちた。


「そりゃ、まだ一週間かそこらだし、話したことない子くらいいるでしょ」


 私だって、事務的な会話以外したことない子がいたし。

 学年全体で言えば、そもそも一度も会話したことない子だっている。


「そんなに気にしなくていいよ」

「でも、そのひとはまだ友達ができてないみたいで……クラスでもちょっと浮いてるというか」


 ああ、なるほど。

 核心はそっちの方だったか。

 私は「見つけて貰う側」だったので、その手の話題は専門外なのだけど。


「うーん……それ、どんな子なの?」


 私の質問に、穂波ちゃんは天井を見上げて、指先で唇をなぞる。

 昨日もそうしていたけど、考え事をしているときの癖のようだ。

 瑞々しい唇を、細い指先が往復する様子は、妙に色っぽい。

 もしくは、いっそ子供っぽい。


「大人しいひと……ですね」


 そりゃその手の子は、たいてい大人しい子だろう。


「ほかには?」

「自己紹介の時の話ですけど、私と同じでかなり遠くから来てるみたいでした。あ、でも電車は繋がってるそうなので、寮じゃなくって通いみたいで」

「ほかには?」

「えっと……大人しいひと、ですね」


 そう締めくくって、彼女はしゅんと肩を落としてしまった。

 つまるところ、自己紹介以外に話したことはないということか。

 参ったな。


 そもそも学校生活の相談なんてガラじゃないんだけど。

 無い知恵を絞って、気の利いた答えを探す。


「ようは、穂波ちゃんはその子の友達になってあげたいんだ」


 私の言葉に、穂波ちゃんははっと顔を上げる。

 それから、ぶるぶると水浴びした後の犬みたいに顔を振った。


「あげるだなんて、そんなんじゃなくて。単純に私が、友達になりたいんだと思います」


 その真っすぐな瞳と言葉の輝きに、日陰の者である私は、思わず顔を手で覆った。

 今のは自分でもはっきりわかった。

 こういうのが「間違ってる」ってやつなんだ。

 そっか……へこむ。


 激しい自己嫌悪に苛まれていたら、部屋がノックされて、そのままガチャリと扉が開いた。

 現れたのは、この状況で最も待ち望んでいた救世主の姿だった。


「おー、星まだ残ってたか。良かった」

「これが、神ってるってやつ?」

「大丈夫かそれ。もう死語じゃね? てかこっちの子は? 新入生? こんにちわ。生徒会書記の狼森です。皆にはアヤセって呼ばせてます」


 悪態から始まり、押しつけがましくない興味の移動、そして流れるように挨拶と自己紹介へ続く。

 世界よ、これが日向の者のコミュ力だ。


「あ……一年の八乙女穂波です。八つの乙女に、稲穂の穂に、海の波」


 穂波ちゃんは、そんなアヤセにさらりと自己紹介を返す。

 うねるようなアヤセの会話の流れに飲まれず、ここぞとばかりのマイペース。

 あとそれ、必ず言うんだ。


「八つの乙女に、穂と波ね……綺麗な字だな。うん、覚えた!」


 アヤセの方も、空中に指先でさらさらと字を書くと、頷いて笑顔を浮かべる。

 実際に交したわけではないけれど、私にははっきりと、ふたりが固い握手を交したイメージが思い浮かんだ。


「で、新入生の穂波はどうしてここに? 部活の見学は?」

「私、もう入るは決まってるので……今日は生徒会室に遊びに来ました。入学式の時に、いつでも来ていいって聞いたので」

「あー、なるほどな。星も発言の責任をとってるわけか。感心だ感心だ。実際のとこ、遊びに来るのはいつでも大歓迎だから」

「はい、ありがとうございます。アヤセ先輩」


 たった数回の会話でこれだよ。

 むしろ恐ろしいとすら感じるよ。

 私がじっと見ているのに気付いたのか、穂波ちゃんは視線を合わせて、それから小さく首をかしげた。


「星先輩って呼んだ方が良いですか?」


 そういうつもりで見ていたわけじゃないんだけれど。

 邪険にするのもなんなので、私は当たり障りのない答えを返しておいた。


「好きに呼んでいいよ」

「そうですか……じゃあ、呼びたい方で呼びます」


 それだけを口にして、結局どうすることにしたのか教えてくれないまま、会話は終わった。


「で、何の話してたん?」


 アヤセが傍にやってきて聞くので、私は一度穂波ちゃんに目配せをして、彼女が頷くのを待ってから、かいつまんでその悩みを伝えた。


「そんなん、ただ話しかけりゃ良いんだよ。話題なんて唐突でもなんでも。最初はびっくりされて、なんなら警戒されるかもしんないけどさ。なあ、星?」

「なんで私に振った?」


 穂波ちゃんは、どこか煮え切らない様子で小さく唸る。


「迷惑じゃないですかね……?」

「聞いてる感じ、そういう子じゃなさそうだけどな。友達なんていらないです。孤高の女王様です――って感じでもなさそうだし。なあ、星?」

「だから、なんで私に振った?」


 私がひとりもやもやとする中で、当事者である穂波ちゃんは、小さく、だけどもはっきりと頷く。


「分かりました。明日、話しかけてみます」

「おう、きっとうまくいく!」


 アヤセのサムズアップに背中を押される中で、彼女はもう一度頷いてみせた。


「それで、アヤセは何の用事で来たの?」

「あー、そうだ、忘れることだった。これ、書道部の予算の修正案な。外部の先生の指導料の値上げ交渉あったみたいでさ。例年のままだと足が出そうで」

「わかった。数値はこっちで入れとくから、嘆願書だけ書いといて」

「おっけー。じゃ、頼むわ」


 嘆願書と言うと物々しいけれど、ようは修正を加える理由を説明する文章というだけだ。

 こういう事前の申請であれば、筋が通っていて、生徒会のトータル予算の範囲内に収まってさえいれば、学校からはそうそう突っぱねられることはない。


 手書きの資料を置くだけ置いて、アヤセは颯爽と部屋を出ていった。

 彼女も例に漏れず、今週は部活で忙しいようだ。

 とりあえず資料を失くさないように、草案を入れたファイルに一緒に挟んでいると、穂波ちゃんがぽかんと目と口をあけて私のことを見ていた。


「どうかした?」


 彼女は、ぱちぱちと何度か瞬きをしてから答える。


「生徒会って、ほんとに生徒会やってるんですね」

「……今はね」


 言葉に脈絡はないけれど、言わんとしていることは伝わった。

 まったく華々しくはないけれど、ちゃんと仕事はしてるんだ。

 私だって。

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