部屋で勉強をしていたら、ドアがノックされた。
声だけで返事を返すと、母親がスマホ片手に部屋に入ってくる。
「星ちゃん、お姉ちゃんに送る荷物まとめるの、手伝ってくれる?」
「荷物なら、この間送ったでしょ」
姉が東京に出立する何日か前、衣服やら必要な荷物は全部、宅配便で送ったはずだ。
私も車に積むのを手伝わされたし、はっきりと覚えている。
「そうじゃなくて、お米とか送ってあげようかなって。ふたり暮らしなら、いくらあっても足りないってことはないでしょう」
「それって私の手伝いいるの?」
「星ちゃん、お姉ちゃんからのメール見てないでしょう。お姉ちゃん『寂しい』って、今さっき電話がきたんだけど」
メールじゃなくてメッセージなんだけど。
それは良いとして、スマホのメッセージアプリを立ち上げる。
すると、姉のアカウントの横に十数件の着信バッジがついていた。
いつの間にこんなに。
流石に気づきそうなものだけど……と思ったら、非通知設定にしていたのを忘れていた。
流石に外しておいてやるか。
気を取り直して、届いたメッセージを古い順に辿っていく。
新居の写真。
自分の部屋の写真。
近所にあったらしい変なオブジェの写真。
少し飛んで、赤門が眩しい入学式らしい写真。
それらに雑多なメッセージが挟まって、やがて今日の履歴へと行きついた。
――お姉ちゃんの高校の教科書をまとめて送ってくれる?
「なんで教科書?」
素直な疑問が口をついて出てきた。
ついこの間、だるいだるいと口癖のように連呼していた受験が終わったばかりだと言うのに。
私が既読すらつけないことに、いい加減諦めを覚えたのか、それ以上のことは書かれていなかった。
「落ち着いたら、大学ブランド使って家庭教師でも始めよかなって言ってたけれど。あんた、メールくらい返してあげなさいよ。姉妹なんだから」
そんな姉の愚痴を聞かされたのか、母親が代わりに答えてくれた。
あとメールじゃなくてメッセー……これはもういいか。
「家庭教師ねえ」
まだ入学したばかりなのに、気が早いんじゃないの。
それとも、珍しく新生活の開放感とやらで浮かれているんだろうか。
「お母さん、どれが教科書とかよく分からないから、星ちゃんよろしくね」
「わかったよ。面倒だな……」
私は、キリの良いところまで終わった問題集と参考書を閉じて、姉の部屋へと向かった。
さて、教科書は――と探し始めようとしたところで、スマホが震える。
メッセージではなく、通話着信のそれだった。
姉なら無視しようと思ったけれど、表示名を見て受話ボタンを押す。
『おい、星! バイト辞めるってマジかよ!』
耳にスマホを当てる前に、スピーカーからアヤセの声が届いた。
ハンズフリーにはしてないんだけどな。
私は改めてハンズフリーボタンを押して、スマホを勉強机の上に置いた。
「聞いたんだ。今日バイトだもんね」
『辞めるなら言ってくれよー! てか、ちょっと前にその話したばっかりだろうがよー!』
アヤセの文句をBGM代わりに、傍の本棚から姉の教科書を探す。
てか、どの教科が必要なんだ。
その辺は何も書いてなかったし。
かといって、わざわざ確認のために連絡するのも面倒だし。
この際、新居の置き場に困るくらいに、参考書から何から全部送りつけてやろうか。
『おーい、星、ちゃんと聞いてんの?』
「聞いてるけど。ハンズフリーにしてるだけ」
『絶対に聞いてないだろ』
「そんなことないって」
ちゃんと聞いてはいる。
聞いては。
私は本棚の中から、見慣れた背表紙を追って指を滑らせる。
古典と、数学と……そうか、理系だから数学はⅢとCまであるのか。
社会科選択は世界史B。
理科選択は化学と生物。
基礎物理と基礎化学は一年次の必修なので、この場合の化学は、受験科目として内容を踏み込んだ方の化学だ。
私はチンプンカンプン。
こうしてみると、姉の教科選択なんて気にしたこともなかった。
そして科目が多い。
私は文系で良かった。
比較的、被っているような気がするのは、興味の方向は似ているということだろうか。
それはそれでなんかヤだな。
『決めたことに何か言うつもりはないけどよ、せめて直接聞きたかったっていうかさ。私もいつ辞めるか考えてたところだし』
「先に言ったら、アヤセも同じタイミングで辞めた?」
『それは……うーん……私はもうちょい働きたいかな』
「でしょ」
そう言えば、教科書の類は出てくるのに、ノートの類はひとつも出てこない。
あいつ、ルーズリーフ派だったっけ。
それとも、部屋を整理する時に全部捨てた?
そんなことを考えていたら、手元の教科書に妙な違和感を覚えた。
何というか、三年使ったにしても、やけに使用感があるというか……ボロすぎる。
しわくちゃで、よれよれで、洗濯機にでもかけてしまったみたいな。
思わずばっちいものを触るように指先でつまんで、いくつかページを開いてみる。
「あっ」
『ん、どした?』
「いや、こっちの話」
教科書の余白いっぱいに、細かいメモがびっしりと書かれていた。
無駄に見やすく色分けしてあったり、妙な小ネタTipsが書かれていたり。
どうやら姉は、教科書を直接ノート代わりにするタイプの人間だったようだ。
『さっきから何やってんの』
「姉の遺品整理」
『遺品て……いや、遺した品って意味では間違ってないのか。明先輩は元気でやってんの?』
「あっちでも平常運転みたいよ。新生活もたぶん順調みたい」
『たぶん、て何さ』
「今の今まで連絡見てなかったから」
『相変わらず身内にも薄情だな』
アヤセとの会話に耳を貸しつつ、指先はぺらぺらと姉のノートをめくる。
すると、一番最後の奥付のところに、芸能人みたいな直筆サインと一緒にコメントが記されていた。
――このページを見たあなたは、自分の教科書と、この「ニガテ解体・真アルティメットマニュアルの書」を交換してよいものとする。ただし「お姉ちゃん大好き」と、愛を込めたボイスメッセ―ジを録音し、私のもとへ送付すること。
『どうした、いきなり黙り込んで』
事情を知らないアヤセの、能天気な声が響く。
「あまりにくだらねえ話に、笑えば良いのか怒れば良いのか迷ってたとこ」
『おいおいおい……これ、今日は私が言っていいよな。喧嘩売ってる?』
「いや、アヤセじゃなくて」
他の教科書も、奥付に同様のサインと走り書があった。
ただ全部というわけではなく、文系――というか私が使う科目のものばかり。
数ⅢCや化学も同じような勉強メモの跡はあったけれど、奥付のメッセージまではなかった。
これはこれで、欲しい人がいるかもしれないのは置いておく。
「星ちゃん、教科書あったー?」
階段の下から母親の声が聞こえる。
『悪い。なんか邪魔しちゃった?』
「いや、そんなことない」
私は本棚から教科書を全て引っ張り出すと、自分に必要なものとそうでないものを、別の山に分けて置いた。
「アヤセ」
『今度はどした』
「ごめんね。辞めること言わなくて」
スピーカーの先で、アヤセが息を飲んだ。
それから「へあっ」だの「あへっ」だの擬音語で表せないような呼吸をひとつして、しどろもどろに返事をくれた。
『改めて言われちゃうと、なんか、アレじゃん。そこはもう、適当になんか、アレしとけよな』
「そのアレは、どのアレ?」
『お前が思いついたアレがソレだ! とにかく、もう休憩終わるから、じゃあな!』
捨て台詞みたいに言い切って、彼女の方から通話を切られた。
画面が待ち受けに戻って、恋占いの石の前で笑うユリの姿が表示される。
その姿を見ると、なんだか元気が湧いてきた。
見透かされてるみたいなのは好きじゃないのだけれど、藁にも縋る思いというのはこういうのを言うのかもしれない。
ボイスメッセージだけは絶対に送ってやらないけど。
その件で何かを言われたら、最後までしらを切ってやるんだ。