バイト先のマネージャーに一礼して事務所を出る。
それから従業員用の勝手口に向かおうとしたところで、背後からバタバタと足音が迫った。
「狩谷さん、まってまって!」
声をかけてきたのは、いつものバリスタの同僚。
そう言えば、終わりの時間は一緒だったっけ。
急いで支度を整えたのか、制服から着替えたブラウスも、羽織っている春コートも、若干やぼったい着こなしになっていた。
「どうしたんですか」
「この後、時間ある?」
尋ねられて、スマホの時計を見る。
家に帰って夕飯を食べて、お風呂に入って、勉強して……というようないつもの予定しかないけれど。
そんなことを尋ねられたのは始めてのことだったので、ちょっと警戒してしまう。
「大丈夫大丈夫、とって食おうって言うんじゃないから」
そんな胸の内を見透かされたのか、何か言う前から彼女は全力で否定してくる。
それから思い出したように衣服を整えて、がっしりと私の腕を掴んだ。
「ごはん行こう、ごはん。奢ったげるからっ」
「はあ……」
私が返事をする間もなく、ぐいぐいと引きずられて、彼女の車の後部座席に詰め込まれた。
これって、控えめに行って拉致じゃないだろうか。
訴えたら勝てるかな。
勝てそうだな。
なし崩しとは言え、食事を奢ってもらうことになってしまったので、家に一報メッセージを入れておく。
親からは「お気をつけて」とだけ返事が返ってきた。
高校生の娘に対して、ご無体な仕打ちじゃないだろうか。
京都旅行の時は渋ったクセに。
もっとも言葉の通りにご無体なのは、鼻歌交じりに運転する目の前の彼女の方だけれど。
名前は天野さん。
流石の私でも、一年半も一緒に働いていたらそれくらいは覚えている。
そうして連れてこられたのは、バイト先から国道バイパス方面に車を走らせたところにある、ちょっぴり古びた佇まいの焼き肉屋だった。
「上タンとロースを塩! カルビとハラミはタレで! ライスは中がひとつと、狩谷さんは?」
「えっと……小で」
「中がひとつと、小がひとつで! あと、何か食べたいのある?」
「……じゃあ、レバーお願いします」
「レバーもひとつお願いします! お歳のわりにコアなとこいくね」
「小さい頃からよく食べてたので」
やがて注文の品がずらずらとテーブルに並んで、中央の網に次々と肉が投下されていく。
それまで気まずさしかなかったけれど、肉の焼ける音と匂いで、お腹は正直に音をあげた。
「はい、食べて食べて。奢りの肉は食べなきゃ損だよ」
焼けた端から、天野さんはトングで私の皿に肉を置いてくれる。
そんなに一度に置かれても、消費しきれないのだけれど。
そんな文句を言えるような場でもないので、私は言われるがまま肉を頬張った。
噛みしめるたびに、肉の間に閉じ込められていた脂が、じゅわっと溶け出す。
タレは最初からコチュジャンか何か混ぜてあるのか、ピリッと辛子がきいた辛口仕様だ。
これは完全にご飯のお供。
何も考えずに小を頼んでしまったけれど、足りないかもしれない。
「ごはん、足りなかったら追加してね。お肉もね」
「ありがとうございます。でも、どっちも足りると思います」
頭の中に健康診断の結果がよぎった。
無念のツーポイントをカバーするには、一時も気を抜いてはいけない。
必要以上の炭水化物は控えよう。
「そう? じゃあ、私は追加でホルモンと……あっ、期間限定で羊もあるって! ジンギスカン、焼いちゃう?」
「お任せします。あと、ナムルだけ頼んでいいですか」
「いいよいいよー。じゃあこの三点盛りにしちゃおう」
天野さんは、嬉々として追加注文をする。
さっきから何度かお酒のメニューに視線が泳いでいるけれど、車があるし、そこは我慢しているようだった。
「それで……何で急に、ご飯なんて誘ってくれたんですか?」
お腹もひと心地してきたところで、さっくりと本題を放ってみる。
人が普段しないことをする時、そこに思惑がないわけがない。
「特に理由があるわけじゃないんだけど、あえて言えば門出祝いかな。辞めちゃうんでしょ、お店」
「ああ、なるほど」
どうやら、マネージャーと話していたのを聞かれていたようだ。
この間のテストの結果が悪かった私は、流石にバイトにかまけている余裕はないと判断した。
そうして、ぼんやりと考えていた夏までという予定を早めて、学期中にバイトを辞めることにしたのだ。
「すぐじゃないですよ。五月いっぱいまでということで、マネージャーとも話をつけてます」
「そっかあ。前も話したかもだけど、寂しくなるねえ」
「私のことは引き止めないんですね」
以前のことを思い出して、私は意地悪っぽく言ってみる。
すると天野さんは、ちょっぴり驚いたような顔をしてから、困ったような笑みを浮かべた。
「なんか、狩谷さんは引き止めたら悪いような気がして」
「アヤセは違うんですか?」
「狼森さんは、なんかワンチャン許されるかなって」
その感覚は、何となくわかる。
試しに言ってみて、もしかしたら受け入れてくれるかもしれないし、駄目でも後腐れなさそう。
そんな感じ。
あいつ、男がいる学校に入らなくて良かったな。
ほんと。
「狩谷さんは、なんていうかな。邪魔しちゃ悪いかなあっていうか、応援してあげたいなあっていうか、娘の成長を見守ってる感じ?」
「女子高生の娘がいる歳じゃないでしょ」
「それを言われたらそうなんだけどさあ。推しっていうかさあ。やっぱりこの感じは、若い子には分かって貰えないよねえ。いや、私もまだまだ若いんだけどさあ」
「もしかしなくても酔ってますか?」
「失礼な。一滴も飲んでませんっ」
そう言って、彼女は手で大きなバッテンを作ってみせた。
飲まれても困るので、それは分かっているんだけど、なんだか不安になってきた。
彼女が飲んでいるウーロン茶も、実はウーロンハイか何かなんじゃないだろうか。
「狩谷さんは、進路はもう考えてるの?」
「進学希望ですけど」
「もう、それは知ってるよ。そうじゃなくって、大学とか学部とか」
「……大学はまだ検討中ですけど、学部は法学部を考えてます」
私はちょっとためらってから、素直にそう答えた。
「へえー。じゃあ、将来は弁護士さんとか?」
「どうなんでしょうね。弁護士でも、検事でも、その他でも、面白そうだなと思った方に進めば良いかなと」
「私が何かやっちゃった時には助けてね。なんて、そんなことないけどね」
今まさに、事案になっても仕方ない状況なのは良いんだろうか。
流石に、知り合いをパトライトに突き出すようなことはしないけど。
そんなことを考えていたら、天野さんはいつからそうしていたのか、じっと私の顔を見つめていた。
「学校は楽しめてる?」
見つめられたら、顔は逸らすもの。
私は、残り少なくなったごはん茶わんを見つめて答える。
「まあ、ぼちぼちですかね」
「部活……はやってないんだっけ? 悩み事とかない? お姉さん、恋の悩みだって聞くよ?」
「なんか、学校の先生みたいですね」
「あれ、言ってなかったっけ? 私、音楽の教師免許持ってるんだよ」
なんだって?
「それが何でバリスタに?」
そうだと言われても、全く教鞭をとる姿が想像がつかない。
てか音楽って。
冗談でしょ。
「何か失礼なこと考えてるでしょ? 確かに、免許あるだけで実務経験はないけどさあ」
天野さんは、焼けたホルモンと米をわしわしと口の中に放り込む。
なんだかストレスを発散しているようにも見える、豪快な食べっぷりだ。
トドメとばかりに、それをジョッキのウーロン茶で胃に流し込んで、大きく息をつく。
「要するに……人生いろいろあるってことだよね。今、楽しくやれてるからいいんだけど」
「ほんとに酔ってないですよね?」
「酔ってないってばあ」
つくづく心配になってきた。
彼女はタクシーなりなんなり手段はあるんだろうけど、私はこんなところで放り出されたらたまったもんじゃない。
最悪、歩いて帰れる距離かな。
スマホのバッテリー、まだ残ってたっけ。
「でも、今日は良かった。狩谷さんとは一回、腹を割って話してみたいなって思ってたんだよね」
「そうですか」
私は、思ったこともなかったけれど。
「また、ごはん誘っても良いかな? あ、彼氏とか彼女とかいたら、気にしないで断ってくれてもいいからね……って、そう言うともっと怪しく聞こえるね。女子高生と話すって難しいなあ……」
「いや、いないですけど……まあ、忙しい時でなければ」
「ほんとお? やったあ! 狩谷さんはママ活くらいに思ってくれたらいいからねっ」
「洒落にならないんで、それ二度と言わないでください」
それで、分かってくれたのかどうか。
天野さんはやや不満げながらも、頷いてくれた。
悪い人じゃないのは分かっているのだけど、妙に苦手な気がするのは、いったい「どれ」に似ているからなんだろう。
脳裏でいろんな顔がモンタージュされていく中で、めんどくさい同僚は、めんどくさい知人にランクアップしていた。