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4月16日 二度と言わないでください

 バイト先のマネージャーに一礼して事務所を出る。

 それから従業員用の勝手口に向かおうとしたところで、背後からバタバタと足音が迫った。


「狩谷さん、まってまって!」


 声をかけてきたのは、いつものバリスタの同僚。

 そう言えば、終わりの時間は一緒だったっけ。

 急いで支度を整えたのか、制服から着替えたブラウスも、羽織っている春コートも、若干やぼったい着こなしになっていた。


「どうしたんですか」

「この後、時間ある?」


 尋ねられて、スマホの時計を見る。

 家に帰って夕飯を食べて、お風呂に入って、勉強して……というようないつもの予定しかないけれど。

 そんなことを尋ねられたのは始めてのことだったので、ちょっと警戒してしまう。


「大丈夫大丈夫、とって食おうって言うんじゃないから」


 そんな胸の内を見透かされたのか、何か言う前から彼女は全力で否定してくる。

 それから思い出したように衣服を整えて、がっしりと私の腕を掴んだ。


「ごはん行こう、ごはん。奢ったげるからっ」

「はあ……」


 私が返事をする間もなく、ぐいぐいと引きずられて、彼女の車の後部座席に詰め込まれた。

 これって、控えめに行って拉致じゃないだろうか。

 訴えたら勝てるかな。

 勝てそうだな。


 なし崩しとは言え、食事を奢ってもらうことになってしまったので、家に一報メッセージを入れておく。

 親からは「お気をつけて」とだけ返事が返ってきた。

 高校生の娘に対して、ご無体な仕打ちじゃないだろうか。

 京都旅行の時は渋ったクセに。

 もっとも言葉の通りにご無体なのは、鼻歌交じりに運転する目の前の彼女の方だけれど。

 名前は天野さん。

 流石の私でも、一年半も一緒に働いていたらそれくらいは覚えている。


 そうして連れてこられたのは、バイト先から国道バイパス方面に車を走らせたところにある、ちょっぴり古びた佇まいの焼き肉屋だった。


「上タンとロースを塩! カルビとハラミはタレで! ライスは中がひとつと、狩谷さんは?」

「えっと……小で」

「中がひとつと、小がひとつで! あと、何か食べたいのある?」

「……じゃあ、レバーお願いします」

「レバーもひとつお願いします! お歳のわりにコアなとこいくね」

「小さい頃からよく食べてたので」


 やがて注文の品がずらずらとテーブルに並んで、中央の網に次々と肉が投下されていく。

 それまで気まずさしかなかったけれど、肉の焼ける音と匂いで、お腹は正直に音をあげた。


「はい、食べて食べて。奢りの肉は食べなきゃ損だよ」


 焼けた端から、天野さんはトングで私の皿に肉を置いてくれる。

 そんなに一度に置かれても、消費しきれないのだけれど。

 そんな文句を言えるような場でもないので、私は言われるがまま肉を頬張った。


 噛みしめるたびに、肉の間に閉じ込められていた脂が、じゅわっと溶け出す。

 タレは最初からコチュジャンか何か混ぜてあるのか、ピリッと辛子がきいた辛口仕様だ。

 これは完全にご飯のお供。

 何も考えずに小を頼んでしまったけれど、足りないかもしれない。


「ごはん、足りなかったら追加してね。お肉もね」

「ありがとうございます。でも、どっちも足りると思います」


 頭の中に健康診断の結果がよぎった。

 無念のツーポイントをカバーするには、一時も気を抜いてはいけない。

 必要以上の炭水化物は控えよう。


「そう? じゃあ、私は追加でホルモンと……あっ、期間限定で羊もあるって! ジンギスカン、焼いちゃう?」

「お任せします。あと、ナムルだけ頼んでいいですか」

「いいよいいよー。じゃあこの三点盛りにしちゃおう」


 天野さんは、嬉々として追加注文をする。

 さっきから何度かお酒のメニューに視線が泳いでいるけれど、車があるし、そこは我慢しているようだった。


「それで……何で急に、ご飯なんて誘ってくれたんですか?」


 お腹もひと心地してきたところで、さっくりと本題を放ってみる。

 人が普段しないことをする時、そこに思惑がないわけがない。


「特に理由があるわけじゃないんだけど、あえて言えば門出祝いかな。辞めちゃうんでしょ、お店」

「ああ、なるほど」


 どうやら、マネージャーと話していたのを聞かれていたようだ。

 この間のテストの結果が悪かった私は、流石にバイトにかまけている余裕はないと判断した。

 そうして、ぼんやりと考えていた夏までという予定を早めて、学期中にバイトを辞めることにしたのだ。


「すぐじゃないですよ。五月いっぱいまでということで、マネージャーとも話をつけてます」

「そっかあ。前も話したかもだけど、寂しくなるねえ」

「私のことは引き止めないんですね」


 以前のことを思い出して、私は意地悪っぽく言ってみる。

 すると天野さんは、ちょっぴり驚いたような顔をしてから、困ったような笑みを浮かべた。


「なんか、狩谷さんは引き止めたら悪いような気がして」

「アヤセは違うんですか?」

「狼森さんは、なんかワンチャン許されるかなって」


 その感覚は、何となくわかる。

 試しに言ってみて、もしかしたら受け入れてくれるかもしれないし、駄目でも後腐れなさそう。

 そんな感じ。

 あいつ、男がいる学校に入らなくて良かったな。

 ほんと。


「狩谷さんは、なんていうかな。邪魔しちゃ悪いかなあっていうか、応援してあげたいなあっていうか、娘の成長を見守ってる感じ?」

「女子高生の娘がいる歳じゃないでしょ」

「それを言われたらそうなんだけどさあ。推しっていうかさあ。やっぱりこの感じは、若い子には分かって貰えないよねえ。いや、私もまだまだ若いんだけどさあ」

「もしかしなくても酔ってますか?」

「失礼な。一滴も飲んでませんっ」


 そう言って、彼女は手で大きなバッテンを作ってみせた。

 飲まれても困るので、それは分かっているんだけど、なんだか不安になってきた。

 彼女が飲んでいるウーロン茶も、実はウーロンハイか何かなんじゃないだろうか。


「狩谷さんは、進路はもう考えてるの?」

「進学希望ですけど」

「もう、それは知ってるよ。そうじゃなくって、大学とか学部とか」

「……大学はまだ検討中ですけど、学部は法学部を考えてます」


 私はちょっとためらってから、素直にそう答えた。


「へえー。じゃあ、将来は弁護士さんとか?」

「どうなんでしょうね。弁護士でも、検事でも、その他でも、面白そうだなと思った方に進めば良いかなと」

「私が何かやっちゃった時には助けてね。なんて、そんなことないけどね」


 今まさに、事案になっても仕方ない状況なのは良いんだろうか。

 流石に、知り合いをパトライトに突き出すようなことはしないけど。

 そんなことを考えていたら、天野さんはいつからそうしていたのか、じっと私の顔を見つめていた。


「学校は楽しめてる?」


 見つめられたら、顔は逸らすもの。

 私は、残り少なくなったごはん茶わんを見つめて答える。


「まあ、ぼちぼちですかね」

「部活……はやってないんだっけ? 悩み事とかない? お姉さん、恋の悩みだって聞くよ?」

「なんか、学校の先生みたいですね」

「あれ、言ってなかったっけ? 私、音楽の教師免許持ってるんだよ」


 なんだって?


「それが何でバリスタに?」


 そうだと言われても、全く教鞭をとる姿が想像がつかない。

 てか音楽って。

 冗談でしょ。


「何か失礼なこと考えてるでしょ? 確かに、免許あるだけで実務経験はないけどさあ」


 天野さんは、焼けたホルモンと米をわしわしと口の中に放り込む。

 なんだかストレスを発散しているようにも見える、豪快な食べっぷりだ。

 トドメとばかりに、それをジョッキのウーロン茶で胃に流し込んで、大きく息をつく。


「要するに……人生いろいろあるってことだよね。今、楽しくやれてるからいいんだけど」

「ほんとに酔ってないですよね?」

「酔ってないってばあ」


 つくづく心配になってきた。

 彼女はタクシーなりなんなり手段はあるんだろうけど、私はこんなところで放り出されたらたまったもんじゃない。

 最悪、歩いて帰れる距離かな。

 スマホのバッテリー、まだ残ってたっけ。


「でも、今日は良かった。狩谷さんとは一回、腹を割って話してみたいなって思ってたんだよね」

「そうですか」


 私は、思ったこともなかったけれど。


「また、ごはん誘っても良いかな? あ、彼氏とか彼女とかいたら、気にしないで断ってくれてもいいからね……って、そう言うともっと怪しく聞こえるね。女子高生と話すって難しいなあ……」

「いや、いないですけど……まあ、忙しい時でなければ」

「ほんとお? やったあ! 狩谷さんはママ活くらいに思ってくれたらいいからねっ」

「洒落にならないんで、それ二度と言わないでください」


 それで、分かってくれたのかどうか。

 天野さんはやや不満げながらも、頷いてくれた。


 悪い人じゃないのは分かっているのだけど、妙に苦手な気がするのは、いったい「どれ」に似ているからなんだろう。

 脳裏でいろんな顔がモンタージュされていく中で、めんどくさい同僚は、めんどくさい知人にランクアップしていた。

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