今日の日程は、午前中に健康診断。そして午後からは体力測定。
生徒たちには「行ってこーい」と各種検診に向かわせて、その間に教師陣は、テストの採点に勤しんでいるのだろう。
女でこの年になれば、健康診断はそれほど変わり映えのするところはなく、気になるとしたら体重が増えただの減っただの、そういう話だけ。
ちなみに私は、体重に関してだけ無念のツーポイントアップ。
ストレスを感じると食い気が増えるのは、あんまり良くない。
間食を少し見なおそう。
そんなこんなで迎えた午後の体力測定だったけれど、ジャージに着替えて教室を出るなり、ユリが私のことを待っていた。
壁に背を預けて立つ彼女は、私の存在に気づくと、ニヤリと不敵な笑みを浮かべる。
「まってたぜ、トモよ。あ、このトモは、好敵手と書いてトモと呼ぶ的なね」
「それ、説明したら台無しじゃない?」
ツッコミは無視して、彼女は小脇に挟んでいたクリアファイルを、私の目の前に突き出す。
なんてことはない、体力測定の記録用紙だった。
「さあ、勝負の時が来たよ」
「やらないけど」
「勝った方が何でも命令できるルール!」
「どれから回る?」
一瞬で陥落した私は、彼女の口車に乗せられて、無謀なる勝負に出ることを決めた。
「あ、会長。もしよかったら、一緒に――」
遅れて教室を出てきた毒島さんが声をかけてくるが、その肩をアヤセが掴んで引きとめる。
「経験上、あれには関わらない方がいい。心炉は私と回っとこう」
「はあ、そうなんですか?」
半信半疑の毒島さんに、アヤセは困り顔で頷いた。
危険物扱いをされるのは心外だけれど、勝負する以上は私だって全力だ。
生徒会として散々煮え湯を呑まされているチアリーディング部に、ひと泡吹かせてやる。
そう意気込んだのは今は昔のことで、私は地面にへばりつくみたいにしゃがみ込んで、己の無力さを実感する。
「うふふ、もうすぐ半分がおわっちゃうぞー。あとがなくなるぞー」
ユリは仁王立ちのまま、記録用紙が入ったクリアファイルで左うちわをする。
ユリの実力を侮っていたわけではない。
スポーツ面での彼女の規格外さは、十二分に理解しているつもりだし。
それでも、こういった細かな身体技能ひとつひとつを切り分ければ、いい勝負ができるのではないだろうかと。
こちらだって、中学三年間は運動部でしごかれていた経験があるのだからと。
そうやって自分の技量を過信していた愚かさを正したい。
「立幅跳びすら勝てないなんて……」
自分の中では、比較的自信があったはずの科目なのに。
僅差で負けてしまった。
「あきらめないで! 体力測定はポイント制だから!」
「え?」
言われて、そう言えばと思い出す。
これって数値も記録はするけれど、基本的には結果をランク分けして、ポイント化するものだ。
改めてそっちのほうで計算してみると、現在のユリとの差は四ポイントだった。
「どっちにしろ負けてるじゃない」
「たった四ポイントだよ!」
「それ覆すにはどういう状況じゃなきゃいけないと思う?」
現在のところ、ユリとの実力差は大負けか、僅差負けのどちらか。
残りの科目数も絞られてきているとなれば、数回の大勝ちが必要というわけだ。
しかもそれは、ユリの結果がヘコむのが前提。
「絶望的すぎる」
完全に意気消沈した私に対して、ユリは肩に手を回して、空の向こうを指さした。
「何があるか分からないのが勝負だよ! 次はいざ、室内競技!」
その宣言のとおりに、ずるずると引きずられるようにして体育館へと向かう。
私はと言えば、ユリにいったいどんなお願いをされるのかと、不安と期待が入り混じった心の整理をつけるばかりだ。
「はい! 長座体前くーつ!」
謎の掛け声とともに、滑車のついたテーブル状の器具が押し出されていく。
ぺったりと折りたたまれたユリの上半身は、完全に胸と脚の隙間がなくなっていて、鼻先まで膝に押し付ける形になっていた。
「もっといけるのに、ヒザが邪魔! これ、脚もっと開いても良いですか?」
「駄目です」
ユリの申し出は、監督の保体教諭にスッパリと切り捨てられた。
それでも余裕の評定「十」。
最高評定を出されてしまっては、これ以上はどうしようもない。
「あら、狩谷さんも結構柔らかいのね」
「チア部やら新体操部には負けますけど」
子供のころからやっている風呂上がりの柔軟体操は、今でも続けている。
数値的にはユリにちょっと負けるけれど、しっかり最大評定を獲得できた。
勝てないにしても、引き分けには持ち込まなければ、本当に先がなくなる。
「そんなに身長は変わらないし、あたしのほうが柔らかいのに、結果はほとんど同じくらい……つまり、あたしの方が脚が――」
「違うから」
「ええー、でもやっぱりあたしの方が脚なが――」
ユリが隣に並んで脚の長さを比べようとしてきたので、私はさっと立ち上がって次の科目の場所へと向かう。
実際に比べなければ無効試合だ。
……モデル体型とは言わないけど、別に短くはないと思うんだけど。
その後の上体起こしは、お互いにそんなに得意じゃなくてほどほどの点数でタイ。
握力もタイ。
単純な筋肉量は、互いにそれほど差はないらしい。
チア部が鬼のように鍛えてるのは体幹の方だし、こういう場で直接発揮されるものではないのかもしれない。
そういうことで、望みは反復横跳びに繋がれた。
「すみません、靴、脱いでもいいですか」
「え? ああ、まあ、良いですよ」
監督の教員にぽかんとされながらも、私は内履きと、靴下も脱いで畳む。
素足で冷たい床の感触を確かめながら、指先ひとつひとつの接地を確認する。
「おおう……星が本気になったよ」
「悪いけど、これだけは敗けられないから」
ここで大勝できなければ、負けがほぼ確定するというのもある。
だがそんな机上の空論を差し引いても、この科目だけは、プライドとして負けるわけにはいかない。
「これは体幹の勝負でもあるんだなあ」
ぐっと身体を伸ばしながら、ユリが笑う。
確かに、いかに上半身をブレさせないかは大事な要素だろう。
それでも地の利は我にあり。
バスケの試合で使われるタイマー付きブザーが、電子音でスタートの合図する。
私もユリも、やや前傾姿勢でバランスを取りながら、左右への跳躍を始めた。
とにかく大事なのは、できるだけ頭の位置をずらさないこと。
特に上下のズレは、二〇秒という限りある時間の中では、大きなタイムロスになる。
視線はしっかりと左右に振り、線の踏み残しがないように意識を巡らせる。
もし踏み残しても、踏み残した事実だけを認識して、無理にカバーをしようとしない。
それさえ意識すれば、あとは脊髄反射の域まで刷り込まれた、左右のすり足・送り足。
ブレない重心。
相手の正中を捉え続ける切っ先。
裸足で指先の感覚まで手に入れれば、ここは剣道の間合いだ。
競技での総合力は並でも、足さばきだけは自信がある。
残り時間は気にしない。
ブザーが鳴るなら、その時まで線を踏み続けるだけ。
やがてけたたましい電子音が響く中で、私は最後のポイントを踏み越えた。
息が上がる。
京都の山を登ったのの比じゃないくらい。
脚の筋も張った感じだし、完全に普段の運動不足が祟っている。
教員が、カウント係をやっていた生徒たちの数取器を回収する。
それからひとりずつ、記録用紙に記入を行ってくれた。
「記録、犬童さん四九! 惜しい! あと一回で九評定だったね!」
「ああー! 何回か線に届かなかったのが響いたあ!」
ユリは頭を抱えて心底悔しがった。
せっかちな性分が影響したのか、何度か無効扱いのポイントがあったようだ。
「狩谷さんは……五四? すご。え、すご。狩谷さんって動けたんだね」
教師は何度か数取器と、記録表とを見比べつつ狼狽えた。
私は額の汗をぬぐって、ほっと息をつく。
流石に全盛期の、中学の時の記録には届かなかった。
ほんとうに、ただ唯一の私の取り柄。
気分がいいので、教諭の失礼な言葉も汗と一緒に流してしまおう。
「まさかここで二点も追い上げられるなんて……ぐぬぬ」
ユリは、返してもらった記録表と私の記録表を見比べて、ぐっと奥歯をかみしめる。
「でも、ほら! 反復横跳びって、脚が長い方が不利って――」
「変わらないから」
あがった息も押し殺して、ピシャリと言い放つ。
こういうのは結局、慣れてるかどうかの差だ。長さが関係してたまるもんか。
厳密にどうなのかは知らんけど。
ユリも結果は結果として受け入れた様子で頷くと、さっと前髪をかきわけて、肩に寄り掛かるみたいに腕を乗せる。
「これで勝負は、シャトルランと持久走にもつれ込んだね」
この余裕の笑み、完全に私のスタミナのなさを煽っている。
そりゃたかだか一〇〇メートルそこらの登山であれだけへとへとになってるんだから、そうも思うだろうよ。
しかもたった今、なけなしのスタミナも使い切ったところだ。
すると、隣でそれを聞いていたらしい教師が、きょとんとした顔で口を開いた。
「シャトルランと持久走なら、時間かかるし、体育の授業でやるわよ」
「あれ、そうだっけ!?」
そんなこと、一切頭になかったらしい。
ユリはがくっと肩透かしを食らって、前につんのめった。
「つまり、決着は先延ばし……あ、しばし、またれぇよ!」
おっとっと、と何歩か前に飛び出した後に、そのままくるりと振り返って、歌舞伎の見栄の真似をする。
そっか、決着はつかないのか。
それはほっとしたような、残念なような……いや、ほっとする方が強いな。
私は自分の記録用紙を見下ろして、願わくはそのころにはユリが勝負のことなんて忘れていますように、と願掛けをしておいた。