「たすけて、カリやもーん!」
清々しい休日の朝、ユリが家を訪ねて来たと思ったら、どこかで聞いたことのあるお決まりのセリフを口走りながら泣きついてきた。
「何事なの」
「春休みの宿題が終わってないんだよお! 助けてよお!」
漫画じゃあるまいし、今時こんな分かりやすいネタに走るやついるんだ。
そんなことを思いながら、ひとまず足元にへばりつく彼女を引っぺがす。
「で、アヤセも宿題終わってないの?」
私が視線を向けると、アヤセはユリの後ろで「えへへ」と笑いながら頭をかいた。
「終わってはいるんだけどさ、昨日の夜にユリと電話してたら星に泣きつきに行くって言うじゃん。だったら私もわかんないとこあったし、ついでに教えて貰おうかなあって」
「なるほど、それは許そう」
「サンキューソーマッチ!」
アヤセは、満面の笑みで両手の親指を立てた。
それにしても、ユリと電話か。
なるほど。
私の知らないところで、彼女は着々と文明を身に宿しているらしい。
でも、なんで私にはかけてこないんだ。
それはちょっと納得いかない。
これ以上玄関先で子芝居を打たれるのも迷惑なので、ふたりを家にあげて部屋まで通す。
それから、母親が気を利かせて持ってきてくれた水出しのジャスミンティーを飲みつつ、それぞれの惨状というものを確認し合った。
「とりあえず、アヤセから聞こうか」
「数学と英語と世界史がサッパリです!」
彼女は、口走った三教科の問題集を机に並べて胸を張る。
「数学は受験で使わないなら落としてもいいんじゃないの。てか、あんた推薦貰うんでしょ」
「推薦ったって必ず受かるわけじゃねーしさ。そしたら普通に受験しないといけないし……ってかさ、受験に使うとか使わないとかあんの?」
「私大でしょ? だったら全教科勉強する必要はないはず」
「まじかよ初耳だわ」
私の志望は国公立なので、ある程度まんべんなく勉強する必要があるけれど。
私大なら確か、三教科くらいで受験できるはず。
ある程度決め打ちになるぶん、他でカバーすることはできなくなるけれど。
その教科選択も、大学によってはある程度絞られた中から選ばなければならなかったりするけれど。
いきなり方向転換して理系を受けるなんてことをしなければ、たいていの場合、理数科目は捨てることができるはずだ。
というか書道進学なら間違いなく文系か芸術系だろう。
「じゃあなに、私、数学から解放されていいの? もうサインコサインタンジェントしなくていいの?」
「推薦の最低評定さえ確保できてれば、いいんじゃない」
「今年最大級のハッピーニュース! 英語と世界史だけ教えてくださーい!」
アヤセは嬉々として数学のテキストを鞄に放り込むと、残ったふたつの教科を自分の前に立て置いた。
「で、ユリは?」
アヤセは課題自体は終わっているとして、問題はこっちだ。
ユリもアヤセと同じように、鞄から取り出した問題集の束を机の上に置いた。
効果音をつけるなら「ズドンッ」か「デデーン」という感じ。
「あたしも数学と英語と世界史と、あと生物が終わってないかな!」
「むしろ何が終わってるの」
「現文と古文!」
「帰れ」
「がーん!」
私の無慈悲な鉄槌に、ユリは涙目で飛び上がる。
「前から思ってたんだけどさ、なんで日本史Bじゃなくて世界史B取ってんの。あんた日本史の方が得意でしょ」
「えー、だってそしたらさ、わかんないとこあったとき星に泣きつけないじゃん」
「むしろ、日本史ならわかんないとこないでしょ」
私の指摘にユリはしばし脳みそをこねくり回した後に、徐々に、そして大きく大きく目を見開いた。
「たーしーかーにー? どうやって赤点を回避しようかってだけ考えて、それは気づかなかった!」
「流石にアホすぎるでしょ」
「アホだな」
「ががーん!」
私とアヤセのダブルアタックに、ユリのショックも二倍に膨れ上がった。
「とりあえずユリは答えを埋めなさい。課題範囲だけならそんなに多くないから」
「あのう……ちょちょっとカリやもんの答えをコピー&ペーストは?」
「私が許すと思う? てかコピー&ぺーストなんてよく知ってるね」
「うん、それはちょっぴり失礼だよ?」
ユリはちょっと不満げだったけど、圧倒的なアドバンテージが私の方にある以上は、しぶしぶ従うほかない様子だった。
くすんくすんと鼻を鳴らしながら、問題集とノートを開いて課題を開始する。
「旅行の時も持ってくれば、こうして手伝ってあげたのに」
「それじゃあ京の夜を満喫できないでしょ!?」
「前日に泣きついて来ない者だけ石を投げなさい」
「すいませんでした」
それっきりでユリは、大人しく目の前の課題に立ち向かっていった。
「そういや、結局ユリは進路どうすんだ?」
アヤセのなんともなしの問いかけに、ユリは話半分に首を傾げながら答える。
「うーん、未定かなあ」
「月末に二者面あんだろ。どうすんだよ」
「えー、また知ってる大学上から順に書いてこうかな?」
「んな担任泣かせなことを……」
そう。
そうだよね。
いいぞ、もっと言ってやれ。
でも二者面だの、担任だのいう話を聞いていたら、私の頭の中にはもっと別の、かつ大事な問題が首をもたげていった。
「ところでさ……なんで私だけクラス違うの?」
「おっ、今ここでその話題出す?」
アヤセが軽く馬鹿にしたような笑みを浮かべながら、煽るみたいに聞き返してくる。
私はいつかカラオケでやったみたいに、指先に浸したジャスミン汁を彼女の顔に振りかけて、全身全霊での抗議の意を示した。
「うわっ、それヤメロって!」
「自業自得でしょ」
「んなこと言われたって、クラス替えは私らのせいじゃないし……なあ?」
「うんうん、あたしらのせいじゃないない」
ユリがアヤセを援護して、うんうんと頷く。
何が許せないって、私「だけ」ということは、このふたりはちゃっかり同じクラスなのである。
そりゃ女子ばっかだし、文理で言えば文系クラスの方が数が多いわけで、むしろ二年間も三人同じクラスという方が奇跡と言ってよかったのかもしれない。
でもそんな奇跡を体験すると、三度目を期待するのが人間というものだ。
これがきっと、世の中のギャンブラーの思考。
私は絶対にギャンブルには手を出さないと、こんなクラス替え程度で心に固く誓った。
「でも、心炉が一緒じゃん」
「それ、何かメリットある?」
「いや、知らんけど」
自分で言っておいて、アヤセは盛大に首をかしげた。
仲良しをバラしておいて、水と油を一緒にするだなんて、流石の私も陰謀論に目覚めそうだ。
卵がなければマヨネーズにすらなりゃしないというのに、あいにく、私の交友関係はそれほど広くない。
あと私は、マヨネーズはそんなに好きじゃない。
そのくせ担任なんて「会長と副会長が同じクラスだなんて、卒業学年だけど楽ができそうだわ~」なんて、ご機嫌な挨拶をかましてくれた。
心炉から――じゃなかった。
心から遺憾の意を表する。
「この際だから仲良くなっとけよ。傍から見てりゃ、ちょっとかわいそうだぞ」
「そんなの言われなくても分かってるけど」
タイミングを掴めないのは今に始まったことじゃない。
この間なんて家に遊びにまでいったのに、なんかそういう雰囲気にならないんだよなあ。
だからこその水と油。
真水のような私なんて、さらさらーっと最上川の濁流にのまれて、そのまま日本海に放流されそうなほど流されやすいのに。
「星、心炉ちゃんと仲悪いの? そういうの、よくないと思うなあ」
「ユリは黙って宿題してて」
「なんか今日、当たり強くない? 気のせい?」
とにもかくにも、大事な三年生という期間の立ち上がりは、どうにも良くないのは確かだった。
私は前途多難な一年を嫌でも覚悟しつつ、せめて学力考査くらいは十二分な結果でスタートしようと、自分に気合を入れなおすのだった。