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4月9日 ライ麦畑はほど遠い

 勉強をする時は、誰にも邪魔されず、自由でなければならない。

 ひとりで、静かで、豊かな実りを目指して。

 でもそこに救いはない。

 しなくて良いのなら、勉強なんてしないに越したことはない。


 週明けの学力考査に向けて、この土日はバイトの休みを貰っていた。

 二年次までは、春休みの課題の到達度チェックが学力考査の主な焦点となるが、これが三年ともなれば趣旨が変わってくる。

 それは、さながら校内模試。

 テストの結果から現在の学力と、これからの伸びしろが把握される。

 それが月末にある二者面談の指針になって、学期末に控える三者面談までの間の、仮の進路目標が定められることになるわけだ。


 もちろん、落としてしまったからといって上位の大学を狙えなくなるわけではないけれど、印象と自信という意味では、目標大学はちゃんと射程圏に――せめてぼんやりと輪郭が見える位置には置いておきたい。


 各教科担当の教員側でもそれは分かっているはずで、春休みの課題に関してはこれまでの授業の中で特に押さえておくべきところや、テストの得点率が低かったところがお手製のプリントとしてまとめられている。

 こういう努力を見ていると、高校教師にはなりたくないなと思ってしまう。


 そして両親が働いている姿を見ていることもあって、小学校の教師にもなりたくないなと思う。

 学期末なんて毎日のように家に仕事を持ち帰り、休日だって返上で、夜中まで通知表の作成を行っているのを見てきた。

 もちろん残業代なんて出ていない。

 最近は個人情報がどうたらで仕事の持ち帰りが制限されているらしく、代わりに学校で遅くまで残業してくるようになったけれど。

 プライバシーを語るなら、仕事用のPCを教師に自前で用意させないで、教育委員会から支給しろという話だ。


 そして中学生は……単純に嫌いなのでムリ。

 私、教師は向かない。


 話がズレたけど。

 一方で、そういう平均値を取った課題というのは、個人の苦手とはうまく噛み合わなかったりもするものだ。

 それは塾に行っても同じことで。

 個人指導とか、家庭教師ならまた違うのだろうけど、身近な先駆者がそういうのを使わなかった手前、今のところ選択肢にはなかった。


 だけど、どうにも最近は勉強に身が入らない。

 というより集中力が続かない。

 ちょっとヤバいなという気持ちはあるのだけれど、それで集中できたらわけはない。


 お昼ごはんでも食べに行こうと思った。

 こういう時は、とりあえず腹を満たすに限る。

 今日は母親は、週明けからの授業準備のために出勤。

 父親も地域の集まりに行ってしまったので家にはひとりきり。

 姉がいるなら何か作るかなというとこだけれど、それも先日旅立ったとなれば、ひとりぶんの飯を作ることほど面倒なことはない。


 風よけのスタジャンだけ羽織って家を出る。

 散歩もかねて、ちょっと学校の方まで。

 あの辺に、学生料金を設定してるラーメン屋があったはずだ。

 どちらかといえば近くの大学生向けの店なんだろうけど、私服でひとりで行くぶんにはあまり気にはならない。

 ひとりカラオケも、ひとり焼肉も、なんならひとりゲーセンも無理な私だけど、ラーメンだけはひとりで食べたい。

 麺をすするところを誰かに見られるのが、どうにも恥ずかしい。


「あっ」

「えっ」


 だというのに、カウンターで学生ラーメン(という名のただの醤油ラーメン)が出来あがるのを待っていたら、いつか見た光景にでくわした。

 もちろん「あっ」が彼女で「えっ」が私。

 あの日の剣道少女が、店の入り口に立っていた。


「いらっしゃいませえ!」

「あっ、どうも」


 その「どうも」は、威勢のいい店員に対してのものなのか、それとも先客である私に対してのものなのか。

 曖昧な会釈をひとつして、彼女は当たり前のように私の隣に腰を下ろした。

 流石にひと席ぶんの間は空いていたけれど、それでもそこは友達の間合いだ。


 彼女はカウンターに置かれた簡素なメニューをざっと眺めてから、すぐに厨房の店員を見上げる。


「学生ラーメンの炒飯餃子セットでお願いします」

「ありがとうございまあす!」

「……よく食べるんだね」


 何も声を掛けないのも悪いと思い、そんな当たり障りのない質問をする。

 実際、よく食べるな。

 女子高生というよりは男子高校生の注文だ。

 彼女は不思議そうに、その実は何を考えてるのか分からない無表情で首をかしげた。


「ちゃんと食べないと夜まで持たないので」

「何かあるの?」

「この辺の地図を頭に入れつつ、ちょっと走ろうかと思いまして」

「はい、学生ラーメンおまちい!」


 会話を遮るように私の前にラーメンどんぶりが置かれる。

 私は胡椒を追加で少し振ってから「いただきます」と手を合わせる。


「むしろ、それで足りますか?」


 今度は彼女がどんぶりを見ながら、そんなことを口にする。


「女子高生だからね」

「私、女子高生じゃなかったんだ……」


 私の返答に、彼女はどこか寂しそうにしゅんと肩を落とした。

 別にそういう意味ではなかったんだけど、なんだか悪いことをしてしまった。


 割り箸で麺を何本かつまみ上げて、レンゲの上でちょっと冷ましてから、口元でいっきに啜る。

 混ざり気のない醤油味と、追い胡椒のピリッとした辛み。

 それからもっちりした歯ごたえのある麺の甘味が、すきっ腹に流れ込んでいく。


「……見られてると食べづらいんだけど」

「あっ……ごめんなさい」


 そんな私の一挙手一投足を、隣の彼女はじっと見つめていた。

 よっぽどお腹がすいていたのか、小さく下げた頭と一緒に、お腹が悲鳴をあげていた。


「はい、学生ラーメンの炒飯餃子セットねえ!」

「ありがとうございます」


 そうこうしている間に彼女の注文の品も出そろって、私と同じように手を合わせて「いただきます」を口にする。

 外食だろうと家だろうと、いただきますを言える子に悪い子はいない。


 指摘しといて自分がまじまじと見つめるのも気が引けて、しばらくはどちらも、黙々と目の前の食事と向き合う。

 でも、気にはなってしまうもので。たまにちらりと横目で見ると、ものすごい勢いでラーメンと炒飯と餃子を平らげていく様子が目に入った。

 先に食べ始めた私よりも、彼女の方がはやく食べ終わってしまいそう。


 案の定、私がラストスパートをかけるころには、彼女は最後にとっておいたらしいチャーシューを美味し噛みしめ、飲み込んでから、「ごちそうさま」と手を合わせた。


「そう言えば」


 自前らしいウェットティッシュで口元をぬぐって、彼女は思い出したように声をあげる。


「生徒会長さんだったんですね」

「え?」


 振り向きながら聞き返すと、彼女はまっすぐに私の目を見ていた。


「生徒会長のカリヤセイさん。南高の」

「なんでそれを?」

「昨日、入学式で挨拶してたのを見たので」

「ああ……」


 この間は聞きそびれたというくらいにしか思っていなかったけれど、よりにもよってウチの新入生だったのか。

 寮がどうこうっては言っていたし、この辺りが生活圏になるのも頷ける。


「アホみたいな学校だと思ったでしょ」

「そんなことないですよ。楽しそうで、大人の香りがしました。あれがパリピってやつなんですね」


 うん、それはどうなんだろうか。

 むしろクソガキの集まりだからこそのような気がするけれど。

 それでも、何やら目を輝かせている彼女の夢を壊すことはせず、私は曖昧に頷き返した。


「私も生徒会室に遊びに行ってもいいですか?」

「剣道部に入るんでしょ」

「もちろんです。でも私、この辺りに友達いないですし、新しい友達もちゃんとできるか分からないので」


 相変わらずの無表情で、彼女が何を考えてそう口にしているのか全く分からない。

 この手のタイプの子は初めてだから、理解力が追いつかなかった。


 本当に心配してるのか、それとも年上をからかってるのか。

 どっちにしても、来るものを拒む権利は私にはない。


「ヤオトメホナミです」

「なんだって?」

「私の名前。八つの乙女に、稲穂の穂に、海の波。それで八乙女穂波です」

「ああ、名前」


 なるほど自己紹介をしていたのか。

 頭の中にバラバラに飛び散ったイメージが、かっちりとひとつに合わさる。


「ほんとは麦畑のイメージだったらしいんですが。ライ麦畑を駆け回ってるような可憐な子になって欲しいって」


 なんか、そんなタイトルの海外小説があったな。

 読んだことはないけれど、ワンピースとか麦わら帽子とかかぶってそうなイメージがある。


「それが今では剣道一筋の武士道シクスティーンと」

「あと、どっちかというとお米の方が好きなので、稲穂ということにしています」


 ご両親、不憫だな。


「八乙女さんね。私の名前……は、知ってるみたいだけど」

「穂波でいいですよ」

「じゃあ穂波さん」

「呼び捨てでいいですよ」

「……穂波ちゃん」


 竹刀で間合いを計りあうみたいに、互いの思惑がぶつかり合う。

 相手は後輩ということを差し引いても、私には私の距離感というものがある。

 一方で、彼女には彼女の距離感というものがあるんだろう。

 むしろその、気づくと懐に潜り込んでるような距離感なら、友達づくりの心配なんていらないと思うけれど。


 思惑は拮抗し、こう着状態。

 やがて根負けした彼女の方から刃を引いて、ため息まじりに頷いた。


「では、それでお願いします」


 そう言うと彼女は小銭入れを取り出して、一〇〇円玉を五枚カウンターの上に置く。

 ラーメン炒飯餃子セットで五〇〇円。

 安い。


「ごちそうさまでした。それでは狩谷先輩、お先に失礼します」

「うん。また学校で、穂波ちゃん」


 さっぱりした挨拶を交わして、彼女は意気揚々と店を出ていった。

 あれだけ食べて全く胃もたれしている様子がない。

 若いな……昨日あんな祝辞を言っておきながら、乙女にとって二年間の差は大きいと私自身が実感する。


 後からちょっと気になって小説のタイトルと内容を調べてみたら、先ほどイメージしたようなキャッキャウフフとしたやつではなく、もっと「九死に一生を得た」みたいな感じの作品らしい。

 もし私と同じイメージで名付けたのだとしたら、彼女のお父さんとお母さん、それ間違ってますよ。

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