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3月31日 京都③:彼女の名前を呼ぶたびに

 まさか、二日連続で山に登るはめになるとは思わなかった。

 昨日の大吉山でもへとへとだと言うのに、今日のはさらに一〇〇メートルは高いところ。

 京都旅行の定番のひとつ、幻想的に立ち並ぶ赤鳥居で有名な伏見稲荷神社こと稲荷山だ。


 道中は息も絶え絶えに、どうしてまた悟りを開きそうな真似をしなければならないのかと文句しか思い浮かばなかったけれど、山頂の一ノ峰に到着して景色を眺めたころには、そんな不満はどこかに吹き飛んでしまっていた。

 私、チョロい。


 ユリの計画によれば、今日はここだけでテーマは完遂とのこと。

 温泉宿へのチェックインもあるので、陽の高いうちに市内へ戻る。

 そうしてお土産を見て回ったり、今度こそ抹茶をいただいたりしてたっぷり京の都を堪能した後に、私たちは二度目の嵐山へと至っていた。


 春休みや歓送迎会シーズンということもあり、この時期の京都の旅館は高い。

 とはいえ、いろいろ調べてみると様々なサービスがあるもので。

 その中から私はリゾ-ト系ホテルが提案していた卒業学割プランに目をつけた。

 卒業と銘打ってはあるが、学生グループでさえあれば適用だというし、万が一にも卒業生の存在が必要なら、おあつらえ向きの姉がいる。

 ここは仕方なく、彼女もシステムの一部と割り切って組み込んで、三名一室で予約を済ませた。


 ここまでの二日間は宿代をかなり安く抑えることができたので、最終日くらいは奮発しても予算の範囲内。

 温泉と美味しいごはんで、ゆっくりと三日間の旅の疲れを癒そうというのが私の目論見だった。

 思えば嵐山弾丸ツアーに、行き当たりばったりの宇治観光、二日連続の登山。

 本当に疲れた。


 先に宿についたので、とりあえず予約者である私の名前でチェックインだけ済ましてしまう。

 それから邪魔者がいないうちに、ユリとふたりきりで温泉を堪能することにした。


「楽しかったなあ、京都」


 露天風呂に浸っていると、肩を並べて座るユリが、うんと背伸びをしながら言う。

 そののほほんとした顔に、私は両手を組んで作った水鉄砲で、温泉をぶっかけてやった。


「ちょっ……なにするの、もー!」


 誰のせいでこんなに疲れたと思ってるんだ。

 ユリは目に顔にかかった温泉をぬぐいながら、でも楽しそうに笑った。


「どうせ明日もギリギリまで観光するんでしょ?」

「うん! と言っても清水寺周辺を回って終わりだよ。飛行機の時間は守らないとね」


 流石の彼女でも、それくらいの常識はあるようで安心した。

 帰りの便は夕方ごろに大阪伊丹を出発するから、どんなに遅くてもお昼ご飯を食べ終えたころには京都を出なければならない。

 そう考えたら今日と同じように、観光地ひとつの近辺を見て回るくらいが限界だろう。


「最後は定番どころで締めるんだね」

「それでも、ちゃんとテーマはあるんだよ」


 ユリは得意げに語った。

 結局、テーマって何だったんだろう。

 ユリはなんだかんだで教えてくれないし、帰ったらお土産を渡すついでにアヤセにでも聞いてみよう。

 私は、両手で掬った温泉を化粧水みたいに顔にまぶしてから、陽の落ちていく空を見上げた。


「それで、旅行の目的はちゃんと果たせそう?」

「目的? なんだっけ?」

「あんたの傷心旅行でしょうが」

「おー」


 ユリの気の抜けた返事が返ってくる。

 なんのために文句も言わずに振り回されて、二回も山に登ったと思ってるんだ。

 また水鉄砲をお見舞いしてやろうかと思って彼女を見ると、彼女は堪えていた笑いが噴き出したみたいに、けらけらと笑っていた。


「楽しくって、そんなの忘れてたよ」

「そう、ならいいけど」


 私は組んだ手を解いて、代わりにもう一度自分の顔に温泉をかける。

 それからまた、視線を空に彷徨わせた。


「ユリならきっと、もっといい相手が見つかるよ」


 それは、ちょっとした期待も込めた希望。良い相手が見つかるていうのが希望。

 そして、それが私だったらいいなというのが期待。

 期待は過ぎると良いことがないから、自分の気持ちはいつもそこで通行止め。

 いつまでたっても終わらない地下道工事みたいに、全容を明らかにすることはない。


「ユリ」


 だから代わりに、私はその名前を口にする。


「なに?」


 視界には入らないけれど、彼女がこちらを向いたのが気配で分かった。

 なんだかおかしくなって、たまらず笑いがこみ上げた。


「えっ、なに? あたし、なんか変なことになってる?」


 ばしゃばしゃとお湯が跳ねる音。

 きっと、慌てた様子で自分の身体を隅々まで見渡しているんだろう。

 だから私は、騒々しい水しぶきの音に溶け込むように、もう一度だけ口にする。


「ユリ」


 唇が紡ぐふたつの音に、心の中で別の音を重ねた。

 この時間が、この関係が壊れてしまうのが怖いから、私は彼女に自分の気持ちを伝えるつもりはない。

 だから代わりに、その唇の動きに、音に想いを乗せる。

 彼女の名前をひとつ呼ぶたび、私はこっそりと、彼女に想いを伝えている。


 部屋に戻ると、遅れて宿に到着したらしい姉が、大荷物を抱えて座敷にへたり込んでいた。

 彼女は、揃いのパジャマに着替えて湯上りたまご肌な私たちの姿を見つけると、抗議のもろ手を上げる。


「もー! チェックインしたならしたって言ってよー! 連絡もつかないし、ロビーでしばらく待っちゃったじゃん!」


 そう言えば、何の連絡もしてなかったな。

 メッセージのひとつでも入れておくべきだったかもしれない。


「ごめん。こっちも稲荷山に登ってへとへとだったから、一も二もなく温泉だって感じで。てか鍵ないでしょ。どうやって入ったの」


 二つ貰った部屋の鍵なら、両方ともチェックインの時に預かっている。

 それを片方フロントに預けておく手もあったなと、今になってみればいろいろと対策が思いつくものだ。

 後の祭りだけれど。


「フロントでなんとか星の血縁者だって証明して、予約してる三名のうちの一人だって信じて貰って、マスターキーで入れて貰ったの。ほんと予期せぬ苦労だよ」

「まあまあ明ちゃんや、お茶でも飲んでゆっくりおし」

「ありがとうユリちゃーん!」


 ユリが備え付けの煎茶セットでお茶をいれてやると、姉は涙ながらにそれを啜った。


「うう……外で飲んだヤツの方が美味しい」

「がーん!」


 ものすごく失礼な感想を溢しやがったけど、今は大目に見ておこう。

 私は傍らで入浴セットの整理にいそしむ。


「それ飲んだら風呂でも行って来たら。良い温泉だったよ」

「そうやってまたお姉ちゃんをのけ者にしようとするー! パジャマだってふたりだけお揃いだしー! 最後くらいお姉ちゃんに構ってよー!」

「子供かっ」


 私はそう吐き捨てて、押し入れにあった彼女の分の浴衣とお風呂セットを顔面目掛けてぶんなげてやった。

 クリーンヒットした姉は、そのまま仰け反るように畳に倒れ込む。

 ユリが慌てて傍に駆け寄った。


「星ってば、それじゃ明ちゃんがかわいそうだよー。よーし、明ちゃんはあたしが一緒にお風呂に行ってあげるからねー」

「うわーん、ありがとうユリちゃーん!」


 ひしり、抱き合う女ふたり。

 ほんと三文芝居が大好きだなこいつら。


「てかユリ、たったいま入って来たとこでしょ」

「大丈夫! あたし、温泉宿に来たら一泊で最低四回はお風呂入るから!」


 ユリは、得意げに胸を張った。

 そういえば、修学旅行の時もやたら何回も風呂に入ってたな。

 流石の私も、そのすべてに付き合うことはしなかった。

 そうこうしている間に、いつの間にか浴衣に着替えていた姉が、ユリとがっちり腕を組んで立ち上がる。


「そういうことでユリちゃん借りてくから。アデュー!」


 そのまますたすたと部屋を出て行ってしまった。

 ひとり取り残された私は、急に静かになった部屋の中で、ただ呆然と立ち尽くす。

 それから、たった今片付けたばかりのお風呂セットを慌てて準備しなおして、ふたりを追いかけた。


「私も行くんだけど!」


 そんなたいそう慌ただしい教徒三日目の夜。

 そして今日は、この日記をつけ始めてちょうど一ヶ月の記念日だった。

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