昨日の轍を踏まないためにも、今日は計画性のある行動を心掛けたい。
計画自体は昨日もちゃんとあったのだろうけど、なんていうか、私たちには無理のない計画が必要だ。
念のため昨日のうちに旅程を確認したところ、二日目の行動は宇治で完結するらしい。
昨日のTHE修学旅行コースに比べればいくらか地味に感じるけれど、それもテーマというやつに関係あるんだろうか。
どっちにしろ姉との約束で、どんなに遅くても夜の九時までには帰ってこいと言われている。
今日は朝から動けるし、時間内には余裕で収まるだろう。
「宇治って何見るの。平等院?」
京阪の宇治線に揺られながら、スマホでざっくりと宇治について調べてみる。
出て来たのはお茶、平等院、宇治上神社、あと源氏物語。
スマホの地図アプリを眺めていたユリは、顔を上げて目を丸くした。
「あー、十円玉? そっか、それも宇治なんだね」
「知らないで来たの?」
「知らなかったー。時間あったらそれも見たいね!」
そう言ってニコリと笑う。
じゃあ、むしろ何を見るつもりだったんだ。
「そもそも、あのまんま奈良線でJRの宇治駅についたでしょ。なんでわざわざ宇治線に乗り換えたの?」
京都駅から乗った奈良線の途中で、思い出したように電車を乗り換えることになった私たち。
確か六地蔵だっけ。
仰々しい名前の駅だったから、何となく覚えている。
そっから京阪宇治線に乗り換えて、その宇治駅へ。
調べてみたら奈良線のすぐ隣を同じルートで走っているじゃないか。
あの乗り換えは何だったんだろう。
「ということで、きたー! うじー!」
宇治駅にたどりついて、ユリがうんと背伸びをする。
やや雲がかかっているけれど、天気自体は悪くはない。
地元の東北よりは温かい西の地であることを考えると、散策するにはちょうどいいくらいだ。
「とりあえず喉乾いたから、ちょっと自販機行ってくるね。星も何かいる?」
「私は昨日買った水があるからいい」
そう言って、半分ほどだけ飲んだペットボトルを鞄からチラ見せする。
ユリは親指と人差し指でOKを作ってから駆けていくと、しばらくして、やたら良い笑顔で帰って来た。
「見て見て! 加賀ほうじ茶だって! 宇治なのに!」
ユリは、今買って来たらしいペットボトルを掲げる。
ラベルは確かに加賀のほうじ茶。
いや、加賀て。
しかもほうじ茶て。
「そこは緑茶買いなさいよ」
「えー、それはそうだけどお。あたしの中で今、宇治と言えばほうじ茶がアツい」
「何べんでもいうけど緑茶にしなさいよ」
すでに旅行の趣旨を見失っていないだろうか。
大丈夫か?
駅すぐ横には大きな宇治橋が掛けられている。
それを渡ればメインストリートであろう宇治橋通りや、宇治川中洲の宇治公園を通って平等院の正門に向かえる観光茶屋街に足を踏み入れることができる。
でもその前に、橋の途中で歩道にテラスのような広場があったので、そこで自撮りツーショットをこなしながらぼんやりと川を眺めていた。
流石の一級河川宇治川は、思ったよりも広く、大きく、そして澄んだ色をしていた。
それこそ大昔から経済の要点として使われていた川だそうで、この宇治橋自体も日本三大古橋のひとつとして重要な文化財であるらしい。
今掛っているのは流石に、近年に建て直したものだけれど、橋の歴史自体は飛鳥時代、大化の改新のころまで遡る……というのはユリの受け売りだ。
「何見てるの?」
橋の柵にもたれかかって、ぼーっと川を見おろしているユリに声をかける。
「とーりー」
「……いないけど?」
鴨かなんかでも居たんだろうか。
私が彼女の視線を追った時には、ただ川の流れがそこにあるだけだった。
「よーし、満足! 次いこ次!」
ユリは、それまでのアンニュイな雰囲気なんてなかったかのように歩き出した。
どうした。
情緒が不安定すぎる。
背中を追いかける間際、もう一度だけ川を見下ろしてみた。
やっぱり鳥はいなかった。
橋のたもとの紫式部像を横目に、宇治の中心街に足を踏み入れる。
さて、ここから宇治橋通りに行くのか、それとも茶屋街を突っ切って平等院に向かうのか。
選択を委ねられたユリは、なんとそのどちらでもなく、ふたつの通りの間に伸びているあがた通りを選んだ。
ほかの通りに比べれば彩り豊かなお店は少なく、なんというか、地元民が利用するアットホームな通りという印象だった。
「これ、どこに繋がってるの?」
「この先にねー、縣神社っていう神社があるの」
「それはなに。知る人ぞ知るパワースポット的な?」
「えー、どうだろ? その道で有名なところではあるかな?」
その道とはどの道?
でもユリが言うその道なら、たぶん歴史関係がアニメかどっちかだろう。
いまいち要領は得ないけど、行く先はちゃんと観光地っぽい雰囲気がしたので安心した。
「あー! 星、見て!」
突然、ユリが道の傍らに駆け寄って、そこにある看板を指差した。
そこには可愛い西洋ティーポットのイラストと共に、モダンな書体で店名らしきものが書かれていた。
「紅茶館だって! 宇治で紅茶だよ! これは行くっきゃないっしょ!」
「再三のことだけど緑茶にしなさいよ」
看板が示す店の場所は、どうやら通りから路地の方へと入っていったところのようだった。
そりゃ宇治の街並みで、こんなお茶屋街のど真ん中に、でかでかと紅茶の店を出すわけにはいくまい。
それでもなんとか看板だけでも設置しているところに企業の努力を感じる。
「あたしの中で今、紅茶がアツい」
「もう何も言うまい」
ちょうどお昼時だし、そろそろお腹も減って来た。
どこかでご飯を食べるか、お茶をするくらいはしたいなと思っていたところだ。
宇治に来てこのかた、まだ緑茶を一度も口にしていないのはなんだかなと思うけれど、ここは反骨精神で王道から外れてみるのも悪くはない。
「ちゃんとお土産のお茶っ葉を買わせてくれるならいいよ」
「おっけーおっけー。ようし、ヱゲレスに殴り込みじゃー」
勇み足で向かった紅茶館で、名物だというやたらぶ厚いホットケーキを昼食代わりにしながら、宇治の紅茶とやらをいただいてみる。
これが思いのほか美味しくて、結局お土産用の茶葉まで買ってしまった自分の意志の弱さにはうんざりする。
ちゃんとどっかで緑茶も買ってくから、宇治観光協会の皆さんは許して欲しい。
それから小一時間後。
無事に目的の縣神社に参拝を済ませ、その並びでおまけのように平等院鳳凰堂の見物も済ませた私たちは、なぜか小高い山を登っていた。
ちなみにユリの推しの縣神社は、ごくごく普通の住宅街にある神社という感じだった。
ところで、今登っているのは宇治橋を渡って対岸に戻り、ほとんど川沿いにあると言っていい仏徳山。
またの名を大吉山。
どっちの呼び方にしても、すごくご利益のありそうな山だった。
「それじゃ、そろそろ大吉山登ろ!」
ユリのその一言で始まった予想外の登山遊行。
たった百数十メートルの高さだというし、地元の人からすれば散歩コースレベルのものだともいうので安請け合いをしたのだが、曲がりくねった砂利の坂道は、なけなしの体力を根こそぎ奪い去っていった。
中学三年間の運動部生活で体力の自信はあったのだけど、自堕落な高校二年間ですっかり空っけつになってしまったようだ。
「頑張れ星! 展望台まであと少し!」
「うん……がんばる……」
そもそも本来の登山というのは、疲れることで脳みそを空っぽにして雑念を取り払って、目の前の景色や神仏の教えを素直に受け入れ、悟りを開くためのものだという。
そういう意味では、今の私はまさに無我の境地に至っている。
悟り、開けそう。
やがて小さな木造屋根のついた東屋が見えてきて、その先に、眼下いっぱいの宇治の街並みが広がっていた。
「展望台とうちゃーく!」
向かい合ったユリに両手を掴まれて、何度も万歳をさせられる。
抵抗する力も残っていない私は、なすがまま、操り人形みたいにへろへろの万歳を繰り返していた。
「まあ……なんか……よくわからないけど……来て良かった……かも」
「でしょ! 宇治来たらここは外せないよねー」
東屋のベンチに腰掛けて、一息つきながら街を見下ろす。
存在感のある宇治川を境に、向こう岸に茶屋街が広がる。
さっきまであの辺をぶらぶらしていたということだ。
「うーん、でもここを楽器持って登るのは大変そうだね」
「それは何の苦行なの?」
そんなことしたら、本当に悟りが開けてしまいそう。
むしろ開きたかったら挑戦してみてもいいのかもしれない。
でも楽器って何を持って来るんだろう。アコギとか?
「そう言えば知ってる? 宇治って源氏物語が終わる場所なんだよ」
「ああ……やたら紫式部推してたね。最後って確か『夢浮橋』だっけ」
「そうそう。それだけじゃなくって、最後の数編のシリーズがこの辺の話なんだけど」
確か光源氏が死んでから、息子の代に変わってからの話だっけ。
源氏物語は教科書に載ってる部分くらいしか読んだことはないから、そこまで詳しいわけではないけれど。
「源氏物語の最後ってさ、なんていうかこう、終わったーって感じの終わり方じゃないんだよね。日常のほんの一幕っていうか、こっからまだ盛り上がりがあるんだぜってところで終わるっていうか」
「書くのに飽きたんじゃないの」
「そう言う話も確かにある」
私の適当な返しに、ユリは深く頷きかえす。
「でも、それが本当に最後のつもりで書いてたらいいなって思う。誰も語る人がいないところでも、登場人物たちは生きていて、お話は続いていくの」
「私は、ちゃんと投げた伏線を回収して終わってくれないと、悔しくって地団太踏んじゃいそうだけど」
「えー、なにそれ。見てみたい」
「たとえ話なんだけど」
本気にされても困る。
放り投げた物語は、ちゃんと区切りをつけて終わってくれないと、もやもやするのは確かだけど。
「あたしさ、昔から漫画とかアニメとかの最終回が苦手だったんだよね。終わっちゃうんだ。好きだったあのキャラにもこのキャラにも、もう会えなくなっちゃうんだって思うと、すっごく悲しくなっちゃうの」
「それだけ作品のこと愛してくれてるなら作者だって本望でしょ」
「そうかな? だったらいいな」
ユリが笑う。
それはいつもと変わらない、彼女の笑顔。
でもどことなくなんだか寂しそうに見えて、私は口にしかけた返事を飲み込んでしまった。
どうしても繰り返し重なるのは、卒業式のあの日の姿。
失恋したのはユリなのに、まるで忘れられずに記憶にこびりついているのは、私自身のほうだった。
「そんなに好きなら古文研究者か歴史学者でも目指したらいいのに」
無理にでも話題を変えようとして、代わりにそんなことを口にする。
ユリは唸りながら顔をしかめた。
「うーん、でも趣味を仕事にってあんまりしたくないかなあ。自己満足だから楽しめるっていうか」
好きなことがない私からしたら、好きなことを仕事にできるならそれ以上のことはないと思うのだけど。
モチベーションだって違うだろうし、それこそ情熱とかいうものだって。
でも、ユリの感覚的としては違うというのなら、私はただ頷くほかない。
「さっきのあがた通りね、六月にはお祭りがあるんだよ。それをここの展望台から見ると、一本の光の道があるみたいで、すっごく綺麗なんだって」
向こう岸を指さしながらユリが言う。
釣られるようにその視線の先を追うと、山肌を吹き抜けた春の風が、ふたりの間を足元から駆け抜けていった。
「それじゃあまたいつか、六月になったら来ないとね」
私が口にすると、ユリはぴょんと飛び上がって腕に抱き着いた。
「ほんと!? 一緒に来てくれるの!?」
「今年は無理だけど、大学に行ってからとか、大人になってから有給取ってとか……とにかく、そのうちね」
「うん! うん! 約束ね!」
そのまま腕ごと絡み合うように結ぶ、指切りげんまん。
これだけご利益がありそうな山のうえで交わした約束だ。
それは夢物語なんかじゃなくって、いつかきっと叶うものだと信じている。