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3月26日 我が心、泰然自若にして空なり

 この土日はユリも合宿ということもあって、ガッツリとバイトを入れておくことにした。

 京都旅行で貯金をいくらか崩すことになるし、少しでも補っておかないといけない。


「ありがとうございます。受け取りカウンターの方でお待ちください」


 お昼前のピークタイムが終わって、お客の列がようやく途切れた。

 スーパーマーケットが近いウチの店舗では、主婦層が食材を買いに出かけるお昼前と、学生たちの活動時間である夕方が一番のかき入れ時だった。

 とはいえ大学も高校も春休みに入ったということもあって、夕方の方はしばらく落ち着きがあるだろう。


「お疲れ様。今日は誰もお友達が来ないんだね」


 いつものバリスタの同僚が、今のお客のオーダーを作り終えて話しかけてくる。

 私は乱雑になってしまったレジ周りの整頓をしながら、口先だけで返事をする。


「いつも来られたらたまったものじゃないです」

「そう? 友達が来てるときの狩谷さん、楽しそうだけれど」

「まさか」


 乾いた笑みをこぼしながらメニューの整頓を終えた私は、ダスターを手にカウンター周りの拭き掃除に取り掛かった。

 アルコールを吹きかけて、拭く。

 またアルコールを吹きかけて、拭く。

 飲み物のこぼれた水滴があったら、紙ナプキンで軽く吸い取ってから、またダスターで拭く。

 最初のころに比べれば、ずいぶんとこなれたものだと自分で自分に感心する。


「狩谷さんって四月から三年生だよね。バイトはいつまで続けるの?」

「できるだけ続けたいとは思っていますが、どんなに遅くても夏前くらいまでですね」

「じゃあ、夏休み始まるくらいにはもういないのか。寂しくなるなあ」


 そうは言っても、まだまだ先の話ではないだろうか。

 あと三ヶ月か四ヶ月は先の話だ。

 とは言え学生と社会人の一ヶ月の感覚には大きな差があると言うし、彼女の身からすればあっという間のことなのかもしれない。

 そう思ってみると、この一年半というバイトの期間も一瞬のできごとのような気がしてくる。


「入社からこっち、いろいろとお世話になりました。ありがとうございました」


 光陰矢の如し。

 時間の流れが水平線の彼方に消え去ってしまう前に、私は感謝の言葉を述べておいた。


「えー、ちょっと、やめてよ。すぐ辞めるわけじゃないのに、泣けてきちゃう」

「それは大げさじゃないですか?」


 だけど彼女は本当に感極まってしまったみたいで、目じりにじんわりと浮かんだ涙を指先でぬぐい取っていた。


「入社した時はあんなに不愛想だった狩谷さんも今では……そんなに変わらなかったけれど、最低限の営業スマイルは浮かべられるようになったし。人ってやっぱり、成長するものなんだね」

「最初の私のイメージどんなんですか」

「えー? そうだなあ……最愛のペットが行方不明になって傷心中のOLって感じ」


 またなんとも返しに困る発言を。

 最愛のペットが行方不明で傷心……ううん、当たらずとも遠からず。

 そういうところの洞察力が利くのは、仮にも接客のプロということなのかもしれない。

 ただし、こういうチェーン店のカフェよりは、繁華街の地下のバーとかの方が活かされそうだけれど。


「それじゃあ、今の私はどんなんですか」


 尋ねると、彼女はちょっぴり間をおいてから、何かに思い当って手を打った。


「もう死んでるかもって諦めてたペットがひょっこり帰ってきて、嬉しくて嬉しくて有給まで取っちゃったOLって感じ」

「結局OLなんですね」

「なんか狩谷さんって、独特のくたびれ感があるから」


 それは華の女子校生に向かって、結構な悪口じゃないだろうか。

 私ってそんなにやさぐれてるかな。


「何にしても、明るくはなったよね。狼森さんが働き始めてから特に」

「まあ、彼女は親友ですから」


 私が働き始めたのは一年の秋で、アヤセが働き始めたのはその年の年末。

 私がバイトを始めていたということを伝えたら、自分もやりたいと言うので、紹介したのがきっかけだった。

 彼女はもともと人当たりがいいし、接客業自体は私なんかよりも向いている。

 部活と両立するのは大変そうだったけど、あれはあれで楽しくやっていたように思える。


「いいね、いいね、青春だねえ」

「前から思ってましたけど、ほんと青春に飢えてますね」

「飢えてるんじゃなくて、青春を浴びたいの。女子高生のキラキラ青春エキスを間近で浴びれば、身も心も若いつもりでいられるんだから」

「そもそもおいくつでしたっけ」

「今年で二十……ごょにょごにょ歳です」


 一番大事なところを濁された。特別興味があるわけでもないので良いけれど。


「私としては、ユリちゃんだっけ。あの子も働いてくれたらよかったんだけど」


 彼女はどこか名残惜しむようにその名前を口にする。


「彼女は無理ですよ。チア部が忙しいですし」

「あー、南高のチア部ってすごいんだもんね。全国大会の中継見たことあるよ。思えばユリちゃんもテレビで見たことあるかも」

「この間の全日本選手権だったらレギュラーメンバーでしたよ」

「そうなんだ。どうりでアイドルみたいにキラキラしてると思った」

「それは流石に言い過ぎです」


 本当に言い過ぎ。確かにユリはキラキラしているけれど、アイドルと比べちゃ流石に失礼だ。

 彼女の魅力はもっと身近で、触れられる存在で、そういう実在性によるものだと私は思う。

 そう言うのをウリにしているアイドルグループもあるけれど。


「ユリちゃんのことも大好きなんだね」


 不意打ちのように言われて、ぎょっとして彼女を見る。


「なんでですか……?」

「ううん、なんとなく――あっ、いらっしゃいませー」

「い、いらっしゃいませ」


 私はどぎまぎしながら、慌ててレジに戻った。

 同僚もいつの間にか自分の定位置に戻って、オーダーを待つ体制に入っていた。

 姉以外にそんなこと言われたのは初めてで、心底びっくりしてしまった。

 彼女の言う通り、表情が柔らかくなったせいだろうか。

 それはいけない。

 関係ない人間相手だからいいけれど、身近な人に悟られるわけにはいかない。

 近頃疲れ気味だったし、気持ちが緩んでいるのかもしれない。

 旅行もあるし、この機会に気持ちを引き締めなければ。無だ。無になろう。


 観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時――うん。

 我が心、泰然自若にして空なり。


「ご注文をどうぞ」

「……殺し屋の方ですか?」


 お客にそんなことを言われて、私は眉間に深い皺を刻んでいたことに気づく。

 やりすぎた。

 眉間を指先でこねるようにして、接客は無常でこなす。

 オーダーを通し終わってから取り繕うように咳ばらいをすると、作業台の方で同僚が笑っていた。

 誰のせいだと思ってるんだ。

 こんな職場、夏までなんて言わずにさっさと辞めてやる。

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