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3月25日 姉の甲斐性、妹の反抗期

 本日もお日柄だけはよく。

 例によって一日中受験勉強に身が入る、THE平穏な日常をお届けした。

 今日は英語のリスニングを集中的に。

 聞き逃しさえしなければ得意な分野ではあるけれど、自宅学習ではその集中力が一番の問題だなということを再確認した。

 大事な構文や慣用句の聞き逃しが多く、いまいちパッとした成果が得られなかった。


 今日はこのくらいにしておこう。

 夕食後の集中力が持たずに、風呂に入ったのがついさっきのこと。

 ほてった身体ではもう机に向かう気にもなれず、今日も今日とて美容オイルを塗りながら、せめてもの時間の活用にと傍らに英単語帳を開いていた。


「愛する妹よー! お姉さまだぞー?」


 そんな入浴後のほっと一息とか、そういうのを全部ぶち壊して、部屋の扉が開け放たれる。


「わーお、予期せぬセクシーショット」


 姉は自宅用のリムレス眼鏡をくいっと持ち上げると、頭のてっぺんからつま先までをじろじろと嘗め回すように見つめて来た。


「死ね。いや、いっそ生きろ。生きて永遠の苦しみを味わえ」


 妹がキャミとショーツ姿で脚にオイルを塗っていたから何だって言うんだ。

 私はたったいま思いつく限りで一番の軽蔑の言葉を吐き捨てて、単語帳に視線を戻した。


「そこは『きゃっ、お姉ちゃんのえっち!』とか返してよ。できれば恥じらいと、でもホントは見て欲しいの――的な期待を込めて。姉甲斐がないじゃない」

「姉甲斐のあること今まで一度でもしたことある?」

「えー、なんだろう。ちびかわ幼稚園編辺りから語ったらいい?」

「ごめん、私が悪かったから、お口チャックで」


 名状しがたきおぞましい何かがやって来る前に、私は無条件で降伏した。

 ポツダム宣言。

 一九四五年七月二六日。

 うん。

 日本史はずいぶん得意になったもんだ。


「それなら、裏を返して一番最近の話をしようか」

「最近? 何かした?」


 含みのある笑顔を浮かべる姉に、私はだいぶマジトーンで聞き返す。

 本当に何かあったっけ。

 ここしばらく姉と過ごした記憶がないので、まったくもって心当たりがない。

 そんな私を見て、彼女は一層ニヤニヤと――いや、ニマニマとした笑顔で唇をなぞる。


「あんた、ユリちゃんと旅行したいんだって? でも年頃のおなごふたりでの遠出は、親たちにちょっとしぶられてる」

「うぐっ……」


 夕食後に相談していたところを聞かれてたのか。

 てっきり、先にお風呂に入っているものと思ってたのに。


「三泊四日の京都旅行とはねー。ユリちゃん歴史大好きだもんねー。さすが私の妹だー。血は争えないねー」


 私が息を飲んだのを目の当たりにして、姉は水を得た魚みたいに追い打ってくる。

 返す言葉もない。

 私は甘んじて受け入れたうえで「だからなに?」を装って睨み返す。


「ちゃんと説明すれば許してくれるでしょ。行動計画表を作って提出したっていいし。信用を担保するには、正々堂々とルールを守ること」


 確かそんな感じだったよね。

 毒島家の家訓。

 言葉に説得力を持たせるために、ここぞとばかりに使わせてもらう。


「おー、良いこと言うじゃないの。その通り。許してもらうには、包み隠さず正々堂々と訴えることだよね」


 姉は感心したみたいにうんうんと唸る。

 よかったね毒島さん。

 私と違って出来の良い彼女には、一発で伝わったみたいだ。


「だからお姉ちゃんが、ルールに則った正攻法で親たちの許しを得てきてあげました」

「……は?」


 今何と?

 何の許しを得て来たって?


「ふふふ、どう? どう? すごく姉甲斐があるでしょ? 褒めるがよいぞ?」


 これ見よがしにアピールしてくる姉。

 いつもなら嫌味のひとつでも返すところだけれど、今はの胸の内はそれどこじゃなくって。

 珍しく、この姉という生き物に、心からの感謝の念を抱いていた。


「えっ……いや……でも、どうやって?」

「そりゃまあ、信用の成せる業だよね。交換条件はあったけど」

「交換条件?」


 なんだろう。

 毎日電話するとか、お土産ちゃんと買ってくるとか?


「春を満喫“どきっ!?”女だらけのぶらり京都の旅――に、お姉ちゃんも同行しまーす。イェイ」

「……は?」


 姉は両手で作ったピースをハサミみたいにちょきちょきしながら、そのクソみたいな条件を口にした。


「なんで? ついてくんの?」

「親たちも、お姉ちゃんが一緒なら安心だって即OKしてくれたよ。ささ、『お姉ちゃん大好きー!』って胸に飛び込んで来るがよいぞ?」


 前言撤回。

 数年ぶりに沸き上がった素直な感謝の念は、心の奥底で一瞬にして灰になった。


「するかバカ! アホ姉! 合わせてバホ姉! さっさと東京行け! てか京都行くふりしてそのまま東京で降りろ!」

「ありゃりゃ、そこまで言われるほど? それに移動って伊丹まで飛行機でしょ。東京で降りるとかムリムリ」


 ぐうの音も出ない。

 しかもそんな条件でOKされてしまったら、これからどんな説得をしようったって「姉を連れていく」に勝る着地点が存在しないじゃないか。

 完全な失策。

 野球なら九回裏ツーアウト満塁でフルカウントのピンチ。

 せっかくユリとふたりっきりの旅行だと思ったのに。


「心配しなくていいよ。お姉ちゃん、行き帰りの飛行機と宿以外はひとりで古都を満喫するから。星はユリちゃんと、しっぽりむふふと楽しんでおいで」

「えっ……いいの? てか、そんなゆるゆるの条件で親たちOKくれたの?」

「そんなわけないでしょ。ナイショだよナイショ。言わないことはルール違反じゃないでしょ」

「あっ、そう」


 そう、なんだ。

 それならまあ、なんというか、修学旅行の引率の先生みたいなものだ。

 たぶんホテルか旅館の部屋は三人で一緒になってしまうのだろうけど、今回の旅行でどうこうという気はこれっぽっちも――いや、そんなには――いやいや、みじんも――あわよくば、ほんのちょっとだけあるけれど、そこはぐっと堪えよう。


「ということは? つまり? お姉さまに何か言うことがあるんじゃないの?」


 姉はまたこれ見よがしにムカつく得意顔で迫ってくる。

 悔しい。

 けど、ここは今一度、自分の気持ちに素直に向き直らなければならない。


「……ありがと」


 捨て台詞みたいに吐き捨てると、姉は瞳をきゅーんと輝かせて抱き着いてきた。


「おー、よーしよし! 星はやっぱり可愛いなあー!」

「や、め、て、よ! オイルまみれにするよ!」

「マジ? 六〇分一万円くらいでいい? 裏オプ次第では三万まで出すよ?」

「その眼鏡を叩き割ってやるけど」

「やめてっ! そんなことしたら眼鏡美少女がただの美少女になっちゃう!」

「出てけ!」


 半ば蹴り出すように姉を部屋から追い出す。

 長時間の下着姿は流石に寒かったからか、それともおぞ気による鳥肌か、扉を閉めた瞬間にぞくりと背筋が震えあがった。


 とにかく、予想外のアクシデントは付きまとうが旅行のOKは貰えたんだ。

 私はすぐにスマホを手に取ると、ユリにメッセージを送った。


――京都いくよ


 ユリは言いつけを守っているようで、すぐに既読がついて「ヤッター」のスタンプが送られてくる。

 画面の向こうで彼女がスタンプと同じように万歳しているかと思うと、思わず笑みがこぼれた。


 これで下地は万事整った。

 飛行機の予約に宿探しとやることはまだあるけれど、楽しい年度末を迎えられそうなことに胸が高鳴っていた。

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