なにもない。
今日から春休みだというのに、なにもない。
そりゃ家から出なければ長期休暇なんてそんなものだけれど。
かと言って受験勉強なんてわざわざ記録に残すものでもないし、残したところでなにひとつ面白味はない。
今日は世界史のオスマン帝国周りを中心に、他国史との横の繋がりを復習しました。
おわり。
そうこうしているうちに陽は暮れるもので、夕飯を食べてお風呂も入って、お土産の美容オイルを手足に塗りたくって。
それでも時間が余ったから、ベッドに身体を投げ出して、天井のしみを眺めていた。
卒業式からこのところ、何となく、いろんなことが立て続けに起こっているような気がする。
きっと、みんなも、私も、春という一年間で一番センチメンタルな季節に流されているだけなんだろうけれど。
それでも少し疲れてしまった。
たまにはこういう日があっても良いのかもしれない。
疲れたと言えば、高校に入学した当初は毎日がこんな気持ちでいっぱいだったような気がする。
ある種の燃え尽き症候群とでもいうのだろうか。
特に夢も希望もなく、自分が挑戦できる範囲、かつ通える範囲で一番難易度の高い高校を選んで、受験勉強を頑張って、無事に合格した。
そうして始まった高校生活そのものには、きっとなんの意味もなくて。
だから私は、惰性と義務感で、家と学校を往復するだけの生活にほとほと疲れていた。
「イカフライ」
そうだ、イカフライだ。
空っぽの頭に思い浮かんだ単語に、突然の懐かしさが襲ってくる。
イカフライ。
あと清少納言。
それが私にとっての、ユリの最初の記憶。
高校が始まって一ヶ月ほどが経った昼休み。
姉と同じ高校に入ったということもあり、しばらくの間は(半ば無理矢理)一緒に昼食を取っていた私だったが、その日は生徒会の手伝いがあるとかで突然ひとりになってしまった。
朝から言ってくれれば既に友達だったアヤセ辺りと約束をしていただろうに。
昼休みに入ってからスマホのメッセージで寄こすものだから、完全にタイミングを逃してしまった。
中庭のベンチでひとり、購買で買った総菜パンを食べる。
数量限定なのに売れ残るサバサンドは、学校での数少ない楽しみのひとつだ。
そら、あおい。
さば、うまい。
「ほーれほれ、出ておいでー」
心地よい春の陽気にひとときの安らぎを感じていたところに、背後からひとを馬鹿にしたような猫撫で声が響いた。
何事かと振り返ると、目に入って来たのは紺色のスカートのプリーツと、それが覆う形のいいケツ。
あとしなやかな筋肉のラインが綺麗なおみ脚だった。
「あれー、おかしいなー。今朝はこの辺にいたんだけどなー」
あまりに刺激的な光景に一瞬我を忘れていたけれど、それは決してケツのお化けではなく、四つん這いになって何かを探しているウチの生徒だった。
彼女は首をかしげながらよっこらせと身体を起こすと、手に持った紙袋の中からリング状の何かを取り出してむしゃむしゃと食べ始める。
「……犬童さん? 何してるの?」
「うわっ、びっくりした!」
びっくりしたのはこっちだ。
だけど、その顔には見覚えがあった。
同じクラスの犬童さん。
席は近いが、あまり関わりのない相手だった。
下の名前は……何だっけ。
彼女は口の中のものをじっくりと咀嚼してから飲み込むと、私の顔を見つめて首をかしげた。
「あれ、えーっと……ごめんね、誰だっけ?」
「狩谷です。同じクラスの出席番号8番。席は斜め前」
「ああっ! 後ろナナメ四五度に見覚えがあると思った!」
後ろナナメ……まあ、位置関係的にはそうだけれど。
自己紹介の時からきゃぴきゃぴしていて、どこか対岸の人と思っていたけれど、どうやら独特な感覚の持ち主のようだ。
「狩谷さん、下の名前は?」
「セイだけど」
「漢字はどう書くの?」
「明星チャルメラの星でセイ」
「へえー」
犬童さんはその場にしゃがみ込んで、チャルメラのCMソングを口にしながら、芝生の上に指先で「星」と書き記す。
つるんと手入れされた爪が光る、長くてきれいな指だった。
それから今度はカタカナで「セイ」。
そしてひらがなで「せい」。
彼女は何度か繰り返し、口でも唱えながらそうしていると、不意に笑顔で振り返った。
「平安貴族っぽくてカワイイね!」
思い返してみれば、初めてどきっとしたのは、たぶんその時。
裏表のない笑顔と言うのを、私は生まれて初めて見たような気がした。
「それはほめてるの?」
「ベタぼめだよー」
念を押すように彼女は言う。
でも平安貴族だなんて初めて言われたし、ちょっとよくわからない。
どの辺が平安っぽいんだ……あ、いや、もしかして。
「清少納言のこと?」
「そうそう! そんな感じ! カワイイでしょ?」
「いや、よくわからないけど」
理解したけど理解できなかった。
清少納言。
確かに「少納言」は役職名というか、今でいえば「社長夫人」とか「社長令嬢」的な通称だろうってのは知っている。
つまり名前だけなら「セイ」なのだろうけど、それも愛称とかそういう感じのアレじゃなかったっけ。
「そっちはあたしの下の名前覚えてる?」
尋ねる犬童さんに、私は正直に首を横に振る。
「ごめん。他人の名前覚えるのあんまり得意じゃなくて」
「なのに苗字は覚えてくれてたんだ。嬉しいね」
彼女は笑いながら、芝生に別の文字を書き始める。
正直、痕が残るわけでもないので何を書いているのか全く分からないのだけれど。
「あたしの名前はねー、ユウリだよ。友達に梨でユウリ。漢字で書くとそんなんでもないんだけど、響きが外国人っぽくてあんまりカワイくないよね」
そんなに外人っぽいかな。
「ウ」を伸ばして「ユーリ」って発音すればスラブ系ロシア人っぽい名前に聞こえなくもない気はするけれど。
犬童さんは、ひらがなで芝生に「ゆうり」と書く。
今度はなんて書いたかすぐに分かった。
私はベンチから立ち上がって、彼女の隣に腰を下ろすと、ちょうど彼女が「う」を書いた辺りをバッテンでなぞる。
「ウを抜いてユリにしちゃえば。ユリならなんか日本人っぽいし、元の響きにも似てるから違和感ないでしょ」
口にしてから、何言ってんだろと思った。
ただ何となく気が向いた。
理由を挙げるならそれくらいのことだ。
でも、反応を確かめるために覗き込んだ彼女の顔は、驚きと喜びに満ち溢れてキラキラと輝いていた。
「すごーい! カワイイ! ユリ、いいね、ユリ!」
大事な宝物を手に入れたみたいに、紙袋をぎゅっと抱きしめて口にする。
リップで濡れた唇が発するふたつの音。
唇の動きだけで、それが別の言葉に聞こえた気がして、私は咄嗟に目を逸らしてしまった。
うなじが沸騰するみたいに熱い。
なんだこれ。
なんだこれ。
なんで今日に限ってひとりきりにしたの。
助けて、お姉ちゃん。
「ねえねえ、狩谷さんのこと星って呼んでいい? 代わりにあたしのことはユリって呼んで!」
「ああ……うん、好きにすればいいと思うけど」
なんとかそれだけ口にして、私はすくっと立ち上がる。
犬童さん――ユリもつられて立ち上がると、紙袋の中身を口に放り込む。
「さっきから、それ、何?」
「イカリングフライだよ。昨日の夜に作りすぎちゃったの。食べる?」
「普通にいらない」
彼女が差し出したそれを、つい流れで断ってしまう。
後になって思ったけど、これ「あーん」とかそういうシチュエーションだったよね。
「えー、美味しくできたのに。今朝見つけた猫ちゃんにもあげようと思って、わざわざこんなとこまで持ってきたのに」
「やめなよ。確かイカって消化不良でお腹壊すよ」
「えっ、そうなの? うわー、危なかった。ありがとね!」
むしゃり。
彼女の唇がイカフライをついばむ。
なんだかちょっと、お姉ちゃんに似ているなと思った。
でも、あの女に感じるような、遠ざけたくなる不快感はない。
むしろ好意すら感じる。
それはつまり――ってことだ。
あれ、なんか聞いたことある台詞だな。
「そっかー、玉ねぎだけじゃなくてイカもダメなのかー。リングがダメなのかな。貞子こわいもんね」
わけのわからない話の飛躍をさせながら、彼女はもくもくとイカリングフライを飲み込んでいく。
つやつやの唇は、次第に油でべたべたになっていった。
ふと脳裏に、ついさっき自分の新しい呼び名を口にした、彼女の唇がフラッシュバックする。
そのふたつの音を追いかけて、私も唇を震わせた。
「なに? 呼んだ?」
声に出してしまっていたのか、彼女がイカリングフライを咥えたまま振り返る。
私はそれ以上余計なことは言わないで、ただニコリと微笑みかけた。
「よろしく、ユリ」
「うん! よろしく、星!」
それがすべての始まり。
私の新しい春の訪れ。