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3月16日 藤色ノックアウト

 何も変わらない日常、というのが無性に恋しくなることがある。

 例えばテスト前の追い込みの時。

 なんでこんなに頑張ってるんだろう。

 今回のテストの結果が微妙でも、受験までに取り返せばよくね。

 そんな気持ち。


 基本的には、そんな甘い囁きは涙をのんで振り払って生きているわけだけど、自分ではどうにもできない非日常に直面すると、それまでの日々がどれだけ苦労に堪えないものだったとしても、やはり恋しくなるものだと思う。


「会長、お茶のお代わりどうですか。ウチの庭で栽培してるハーブで作っているんですよ」

「ああ、うん……お腹ちゃぽちゃぽするから、少し置いていい?」


 毒島さんが差し出してくれたマイボトルを、私はいいかげん、ハッキリとした言葉で断るようになった。

 彼女は残念そうに眉を下げたが、すぐに笑顔を浮かべて、鞄の中からお菓子のアソートを取り出す。

 見たことない、しかも何語か分からないパッケージの焼き菓子がずらり。

 なんだか高そうだ。


「ハーブティにここのお菓子を合わせていただくのが、私の休日の楽しみなんです。ぜひ会長も味わってみてください」

「ちょっと休んでからでお願いします」


 私の返事を聞いているのかいないのか、毒島さんは棚から木皿を何枚か取り出して、鼻歌まじりにお菓子を並べていた。

 彼女の意識が反れたのを図ってか、アヤセが密談するみたいに顔を寄せてくる。


「あれ、なんなん?」

「さあ」


 ほんとに、さあ、だ。


「昨日なんかあった?」

「ハンカチを渡せたくらい」

「まじかー。それでかー」


 アヤセは納得できたようなできないような、曖昧なトーンで頷く。


「あれで機嫌晴れやかになるなら、これから週一くらいで何か貢いどく?」

「そんな、ウィークリーミッションみたいに言われても」


 もちろんアヤセも本気で言ってるわけじゃないだろう。

 だけど、このいきなりの変わりようは私でも混乱する。

 元に戻ってくれとは言わないけれど、物事には段階というものがあるんじゃないだろうか。


「あの……毒島さん?」


 見るに見かねて声をかける。

 流石にもうちょっと、なんというかいつも通りにして欲しいし……ほら、下級生の役員たちなんてびっくりを通り越して怯えてる。

 世の中には本気で怒ってるときほどデロデロに甘く優しくなる人がいる。

 彼女たちには、今の毒島さんがブチギレモードに見えているのかもしれない。


「毒島さん、ちょっと」


 もう一度声をかける。

 さっきは聞こえていなかったのかと思ったが、今回はハッキリ部屋中に聞こえるくらいの大きさで言ったはず。

 でも無視された。

 何なんだ。

 実はほんとにブチギレモード?

 混乱に混乱を重ねた結果、私はひとつの仮説にたどり着いた。


「……心炉さん?」

「はい、何でしょう?」


 私の仮説はよく当たる。

 よくないものほど、よく当たる。

 すっごいキラキラした笑顔で振り返られて、私は気まずさで視線を逸らした。


「ごめん……やっぱ毒島さんでいい?」

「がーん! 今言えたのに!?」

「友達になれたらって条件つけたのは毒島さんでしょ」

「私のどこが不満なんですか!?」


 そんな穢れひとつない真っすぐな目で、熟年カップルの別れ話みたいな台詞を言われても。

 毒島さん、実はユリと同族なのか。

 がーん仲間だし、その気配はないわけではなかったけど。


「とりあえず、こういうのはなんか違うでしょ。友達って言うより召使いみたいだし……ほら、後輩たちも怖がってる」

「で、でも……友達ができたら一緒にアフタヌーンティーを楽しむって、ずっと夢見てたシチュエーションで……」


 毒島さんは視線を泳がせながら、しゅんと肩を落としてしまう。

 だからそうされたら、私が悪いみたいになってくるじゃないか。

 すると隣でそれを聞いていたアヤセが、授業中の小学生みたいに、びしっと右手をあげた。


「はい! それなら私、まだやってもらってないんだけど、それ」

「え?」


 毒島さんが目を丸くして聞き返す。

 アヤセの言葉が理解できていないようだった。

 大丈夫、私も理解できていない。

 アヤセはあげた手をゆっくり降ろしてから、自分と毒島さんとを、交互に何度も指さした。


「私、友達のつもりではいたんだけど……?」

「え、そうなんですか?」


 よほどびっくりしたのか、毒島さんは胡散臭そうに眉をひそめた。

 アヤセは助け舟を求めるみたいに私を見る。


「そりゃ半年も一緒に仕事してたら、なあ?」

「私はまだ友達のつもりはなかったけど」

「薄情だなおい」


 彼女のツッコミを背中に受けながら、そんなこと言われても……とごまかすように頬をかく。

 仕事仲間と友達って、それはそれでまた違うんじゃないか。

 バイト先で仲のいい同僚が、必ずしも友達と呼べる存在ではないみたいに。


「アヤセの友達カテゴリーは広いからね」

「誰でもイケちゃうみたい言うなよ。間違いではないけど」

「ま、待ってください……じゃあ私と、狼森さんは、友達?」


 確かめるように、毒島さんも自分とアヤセとを交互に指さしながら首をかしげた。

 アヤセはそれに苦笑しながら頷いた。


「毒島さんの初めての人はアヤセだったか」

「誤解のある言い方しないでください!」

「おおー、いいね。そうそう。その感じ」


 もはや待ち望んでさえいた説教モードの毒島さんに、思わず心からの拍手を送る。

 やっぱりこれだなあ。

 ユリの本質が安いウニのエグみなら、毒島さんの本質は汁無し担々麺の底に溜まった山椒みたいなものだ。

 単体ではご遠慮願いたいけれど、一度知ってしまえば、なきゃないで物足りなくなってきて、ついあともう少しだけ絡めてみたくなる。


 やっぱり私って変態だな。

 今、本能で理解した。


「じゃあ、毒島さんにはこれからたっぷりアヤセをもてなしてもらって。私たちは明日の合格発表の打合せするから」


 私は、話題に取り残された後輩たちへ「おいでおいで」と呼び掛けて、ようやく今日の本題に意識を向けた。

 背中ごしにアヤセと毒島さんの不満げな声が響いたけれど、聞こえなかったことにした。

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