「あたしってさー、いったい何者なんだろうねー」
授業が終わって持ち回り当番のトイレ掃除をしていた時、ユリが突然そんなことをのたまった。
「それは、ちょっと遅れて来た中二病的な?」
コメントが思いつかず、そんな言葉で返す。
この場合は高二病か。
年齢的にもぴったりだ。
「ほら、また進路希望の提出あったじゃん。あれ毎回、適当に思いついた大学名書いてるんだよねー」
「それを見せられる教師の気分になってみな」
「それでさー、あたしも流石に三年になるしさー。ちゃんと考えないといけないなーって思ってさー」
「自分磨きの悩みはいいけど、床も磨いて」
「はーい」
ユリはごしごしとデッキブラシで床を磨きはじめる。
私はと言えば、水で薄めた洗剤を便器にぶちこんで、トイレブラシで中を磨いている最中だ。
白いものを真っ白に磨き上げるこのトイレ掃除というものが、私はそれなりに好きだった。
「それで、今度は何に感化されたの?」
「お父さんが家で映画観てたんだよねー。なんかリクルートスーツの大学生たちが就活頑張るやつ。それ一緒に観てたら、あたしも将来心配になっちゃってさー」
大学も決められないのに就職の心配とはこれいかに。
いや、将来を考えつつ進学先を考えるのは普通のことか。
「大学ってほら、将来なりたい職業とか考えて学部とか決めるわけじゃん。あたしなーんも決まってないから大学も決められないわけで、このままじゃあたしちょーヤバイじゃん」
珍しくまともなことを言っていると思ったら、最後の最後を「ちょーヤバイ」のひと言でまとめられてしまった。
悩んでる風で、その言葉にすごく中身がない。
それでも、その日暮らしのユリが将来のことを真剣に考えているなら、それはとても良いことだと思った。
「別に、将来の夢があって進路を決める人ばっかりじゃないでしょ。私も今回は、自分が狙えそうなランクの大学と学部を上から順に3つ書いたし」
「ダメだよ星! もっと自分を大事にして、将来のこと考えて!」
「納得いかねえ」
どうして私が説教されたし。
「大学なんてとりあえずで良いじゃない。やりたいこと決まってないなら、それこそ大学の四年間で何か探せば」
私自身がほとんどそんな感覚だ。
ついこの間もオーケストラ指揮者なんてどうかと思ったところだし。
流石にそれは音大を専攻して進まなきゃいけないだろうけど。
そもそも十七歳の女子高生に、今後五十年以上は続く社会での生き方を決めろと言う方が無理がある。
医学部に入った人間が必ず医者になるかと言えば……まあ卒業さえできれば大半はなると思うけど。
その一方で、医学部に入る人間が必ずしも医者になって人を救うことを夢見ていたとは限らない。
受験という環境の中で自分の限界に挑戦してみたとか、そういう理由の人だっているはずだ。
少なくともひとり……心当たりがある。
「でもほら、お金出してくれるのはお父さんだし。そういう気持ちじゃ申し訳ないかなーって」
こいつと来たら……妙なところで律儀だな。
「それなら、そのお父さんと相談してみなよ。私はユリの家の経済事情には口を出せないし」
「それでも星のアドバイスが欲しいんだよう! 友達の将来にもっと興味を持って!」
持ちまくりだアホ。
こちとら、高校を卒業したらもう二度と会うこともないかもしれないんだよなとか、寝る前にぼんやり考えてしまうくらいには気を使っている。
「あたしも星と同じ大学目指そうかなー」
ユリの何ともなしのつぶやきに、便器を磨いていた手が止まった。
「……どういう風の吹き回し?」
「えー? 星と一緒だったら目的無くても大学楽しめるかなって思って」
「ふーん」
私は適当に相槌を打ちながら掃除を再開する。
ガリガリと便器の表面をたわしで削ってしまうんじゃないかってくらい、力が入っていた。
「とりあえず、来年の一月まで一切遊ばずに勉強する覚悟はある?」
「え、あたしそんなにヤバイの?」
「鬼寄りのヤバ」
「鬼ヤバかー。腕が六本あったらなあ」
三面六臂の阿修羅かな?
でも文字通り修羅の場に立つ覚悟で頑張ると言うのなら、私もまあ、協力を惜しまないでもない。
春休みから毎日みっちり高校一年の基礎からやり直して、ゴールデンウィークも夏休みも、年末年始も全部返上してつき合ってやる。
学習計画のログラインも組まなきゃいけない。
ひとまず全教科をカバーする必要はないから必要な得意教科だけに絞って、そこからまずは共通テストがピークになるように、ユリの理解力とモチベーションを逆算・調整して――
「遊べないのはちょっとやだなー。てか、星の便器めっちゃ輝いてない? どうやったらそうなんの?」
「私が便器でなんだって?」
飛びかけた意識がトイレの個室に戻ってくる。
磨き続けていた目の前の便器は、いつの間にかダイヤモンドでコーティングされたかのような輝きを放っていた。
「肩で息しながら便器磨くのは、ちょっとアブナイ人みたいだよ……」
「そんなことしてないし。それよりどうする? 勉強、する?」
そう言っている間に、頭の中にはユリを私と同じレベルに引き上げるための完璧な学習計画が組み上がっていた。
これならきっと、土日と祝日のすべてをウチで合宿すれば間に合うはず。
我ながら自信作だ。
はやくスケジュールに起こして解説つきで披露したくて仕方がない。
「んー、なんか怖いからやっぱいいや」
「あっ……そう……そっか」
さよなら自信作。思いのほか受けたショックを、私はトイレの水洗と一緒に下水に流した。
「同じ大学行かなくても、星とはなんかずっと一緒にいるような気がするし」
その瞬間、美しい川のせせらぎと共に、小鳥たちが祝福の声をあげた。
「えっ、えっ、何で今ここで音姫?」
「壊れてないかなって確認してた」
私はユリに背を向けたまま音姫のボタンを連打する。
何かでうまくかき消しておかないと、内からわき出す感情を押さえられそうになかった。