「今度は転ばないように気をつけてくださいね」
頷くことしかできずにいる過去の私のことなどお構いなしに彩梅さんは獣道のような細い道をどんどん進んでいく。
「着きましたよ」
「ここは、」
進んだ先にはまるで周囲の草木が避けるようにぽっかりと何も生えていない地面が拡がる空間があった。改めて二人から距離を取ると背の高い草木が空白地帯の目隠しになっていて外側から見つけることは難しい。
「私の秘密の場所なんです」
微笑みながら話す彼女に過去の私はたまらず顔を背けていた。
「あの、どうして私を連れてきてくれたのですか」
当然の疑問だった。何度も会ったとはいえまだ深い仲になっていなかった当時の私には彼女が大切な場所を教えてくれた理由がわからなかった。
「國春さんに知って欲しかったんです。こんなにも色々な場所に一緒に行ってくれるのは國春さんだけだから一番好きなこの場所も知って欲しかったんです」
「この場所が一番好きな場所なんですか」
過去の私は改めてその場所をぐるりと見渡す。珍しい景色があるわけでも何か変わった経験ができるわけでもないこの場所を前に当然の疑問を浮かべていた。
「この場所は私の冒険の始まりなんです」
彩梅さんはくるりとこの場所に一本そびえる木の方を振り向くと根っこの辺りの地面を触り何かを探し始めた。暫くするとどこからか一つの木箱を過去の私の前に差し出す。彩梅さんが蓋を開けると箱の中には古い書籍がしまわれていた。
「触ってもいいですか」
「いいですよ」
慎重に箱から取り出しながらページをめくっていくとそこには様々な植物や景色のことが絵と共に書かれていた。どの植物も景色も当時の私が知らないものばかりでまるで異世界を見ているように感じていた。
「私が幼い頃たまたまこの場所とその箱を見つけたんです。誰かのものかもしれないから最初は触らないでおこうと思ったんですけど、一週間経っても二週間経ってもこの箱を取りに来る様子がなかったんで好奇心を抑えられなくなって箱を開けてしまったんです。そのときに見つけたのがその箱に入っている本でした」
懐かしそうに本を眺める彼女の様子に釣られて私の視線も本へ移ってしまった。
「この本の内容は当時の私にはわかりませんでした。でも、そこに描かれた植物や景色の絵が私の心に強く残ったんです。こんな景色を見てみたい。まだ見たことない景色を知りたいって。それで私は色々な場所に行くようになったんです」
「だから、この場所が冒険の始まり……」
予想外の話に思わず言葉がこぼれてしまったようだった。
「だからいつも色んな所についてきてくれる國春さんにもこの場所を知って欲しかったんです。勿論それだけじゃないんですよ。思い出の場所っていうこと以外でも私はこの場所が大好きなんです」
「どうしてですか」
「この場所は私にとって静かで誰も来ない場所だから色々な場所に行って色々な刺激を受けた後に周りを気にせずのんびりできる場所なんです」
楽しそうに話す彩梅さんの笑顔に私は思わず目を細めてしまう。
彼女は私と結婚したことを後悔していないだろうか。そんな考えが胸をよぎる。子どもが生まれ自由に冒険できなくなってしまったこと。子どもたちが大人になってからは私はもう彼女に着いていくことが困難になってしまいただ彼女の帰りを待つだけになってしまったこと。彩梅さんはそんな私に嫌気が差すことはなかったのだろうか。過去の彼女の笑顔を見る度に不安が過ぎってしまう。
「私もこの場所が好きです」
「本当ですか」
喜ぶ彩梅さんを見て照れくさくなったのか過去の私は彼女から視線を逸らしてしまった。
「國春さん、私の夢の話を聞いてくれませんか」
「彩梅さんの夢ですか。私で良ければ聞きますよ」
「ありがとうございます。私は世界中を見て回りたいんです。見たことのない景色を見てまだ知らない世界を知りたいんです」
「壮大な夢ですね」
当時の私には想像がつかないほどスケールの大きな夢に感じていた。改めて彼女の顔を見ればどれほどこの夢にどれだけの想いが籠もっているのかがわかる。
「そのとき一緒に世界を見て回ったり時には帰る場所として待っていてくれる人と一緒に私は人生を歩みたい」
彩梅さんの表情はいつの間にか真剣なものへと変わっていた。
「國春さん、私は貴方とならそんな人生を歩めると思っています。だからこれからの人生を一緒に歩んでくれませんか」
後にも先にもこれほどの衝撃を受けることは人生通してなかっただろう。当時の私は一方的な片想いで叶うことのない恋だろうとこのときまでは考えていただけに彼女からの告白は寝耳に水だった。
「なんで私なんですか」
ようやく絞り出せたのはこの一言だけだった。情けないと思ってしまうが、それ以上の言葉を出す術を私は知らなかった。
「私は色んなものを見たい、知りたい。ずっとそうだったんです。だから小さい頃から。でも友人も家族も途中でついてきてくれなくなるんです。皆途中でついていけないって」
どうにか返事を返そうとして口を開くが言葉を紡がないまま閉じるその様子に過去の我がことながらほんの少し怒りを覚えてしまう。
私にとって彩梅さんはいつも私の世界へ連れ出してくれる存在だった。いつも前を向き私を引っ張ってくれる彼女に私は憧れていた。出会った当初から彼女の明るさに惹かれていったが、同時に彼女のまぶしさを前にすると自分の弱さを見せつけられるようで目を逸らしたくなっていたのも事実だった。新しいことに挑戦することを恐れる自分。何より彼女に想いに答えることを躊躇ってしまう自分にほとほと嫌気が差していた。
そんな過去の私を見かねてか彩梅さんは立ち上がると一つの提案をしてきた。
「返事は今すぐじゃなくて大丈夫です。でも、もし良ければ一つ約束をしませんか」
「約束ですか。私にできる約束であれば」
「もちろんできないと思う内容でしたら断って貰ってかまいません」
彩梅さんは振り向きながら過去の私を見る。
「國春さん。もしあなたが今日のことをずっと覚えていてくれるなら五十年後の今日、またこの場所で会いませんか」
そして何度も夢見たあの約束を私たちは交した。
瞬間目の前に存在しないはずの花吹雪が舞う。徐々に過去の二人の声は遠ざかり夢の世界から意識が遠のいていった。