目を開けるとそこには私がかつて暮らしていた町並みが拡がっていた。今とは違う町並みに懐かしさを覚える。記憶に残っていた景色だけではなく既に忘れてしまったはずの景色まで精密に再現された世界にここは夢ではなく過去の世界なのではないかと錯覚してしまう。
跡継ぎが結婚し遠い地に移転してしまった喫茶店、草木が生い茂り景観が損なわれてしまった川岸、店の主が退くと同時に店を畳んだいくつもの店。もう決して見ることができない景色に目的を忘れつい見入ってしまう。
何度経験しても慣れないな。この世界において私は透明人間のような存在で声を届けることも何かに触ることもできないとわかっていてもつい手を伸ばし、声を交したくなる。
そうして過去を思い出していると二人の若い男女が喫茶店から出てくるところが目に付いた。
「國春さん、ほらこっちですよ」
「彩梅さん待ってください」
そこにいたのは当時の私と後に私と結婚した女性、彩梅さんだった。当時の私は自信がなく自ら積極的に何かをやることが少なかった。そんなときに出会った潑剌とした彩梅さんに私は強く惹かれていた。この頃の私はどこへ行くにも彩梅さんに引っ張られるように様々な場所に二人で出かけていた。
この日も彩梅さんに引っ張られるように二人で土手にある桜並木を楽しんでいた。
「ねえ國春さん、どうしてこんなにも桜が綺麗か知っている?」
「どうしてだろう。彩梅さんは理由を知っているの」
「それはね、桜の木の下には亡くなった人が埋められているらしいの。その養分を吸うから桜の木はこんなにも美しい花を咲かせる。だから私たちは桜に魅了されるのかもね」
そんなわけない。咄嗟にその言葉をこのときの私は言うことができなかった。口を閉ざしている様を見てほんの少し影が差した彼女の表情にどんな言葉を返せば良いかわからなかった。
「冗談よ。そんなわけないでしょ」
私を気にした言葉だとわかった。このときの私は彼女に返す言葉も返そうとする勇気も持ち合わせていなかった。過去の不甲斐なさをまざまざと見せつけられているとわかっているが、わずかな希望と共に何か本来の過去と異なる結果を生むのではという淡い期待はことごとく打ち消されていく。
「ほら、早く来て」
彼女に手を引かれるままに進んでいく過去の私をただじっと眺めていく。
「國春さん今度はどこにおでかけしますか」
「彩梅さんの好きなところでいいですよ」
「もう、いつもそればかり。たまには國春さんの行きたいところも教えてください」
彩梅さんと一緒ならどこだってかまわない。そう思っていた私だったが、彼女はそんな私に不満げな表情を見せていた。
「じゃあ今度山に行きませんか。珍しい花が咲いている場所があると友人に聞いたんです」
「珍しい花ですか。いいですね。今度一緒に行きましょう。約束ですよ」
「はい、約束です」
嬉しそうな彼女を前に過去の私は安堵の表情を浮かべていた。彩梅さんと結婚する頃には私も頻繁に行き先を提案するようになっていたがこの頃はまだほとんどの行き先が彩梅さんからの提案によるものだった。だからだろう。このときの私がした提案に喜んで貰えたことが今でも印象に残っていた。
たしかあの山だったかな。当時の記憶を呼び起こしながら約束した山へ想いを馳せる。珍しい花を見つけ好奇心のままに進んでいく彩梅さんを追いかけるのは少々大変だったが、お互いに楽しい時間を過ごせた。帰りの通り雨には困ってしまったが、雨宿りをしながら彩梅さんと話をしたときは少し心の距離を縮めることができたように感じた。
思い出に耽っていた私は慌てて周囲を見渡す。既に過去の彩梅さんと私は大分先に進んでいた。
このままでは二人を見逃してしまう。そう思いすぐに二人の後を追った。
二人に追いついたのは桜並木の中程に辿り着いた時だった。
シラキさん曰く本当に重要な場面ではこの世界でどこにいるかに関わらずその場所に移動するらしい。しかし、私は幸いにもこれまでにその経験をしたことがない。そしてこれまでの経験から重要な場面以外の話を聞くことにも意味があると知っているためできるだけ多くの話を聞いて当時を思い出したいと考えていた。
「國春さん、下に降りてみましょう」
「彩梅さん危ないですよ」
突然土手を下り始めた彩梅さんを追いかけるように過去の私も土手を下り始めた。
「こんなところに土がついてますよ」
転んでしまい顔についた土を彩梅さんは持っていたハンカチで拭った。状況を理解できない過去の私は一瞬固まっている。
「あ、彩梅さんいきなり何するんですか」
「國春さんのお顔が汚れていたからつい」
「その、できれば次からは一言言ってください。それと土手を下るのは危ないので今度はもう少しなだらかな場所を選びましょうよ」
顔を逸らしながら話す過去の私が面白いのか彩梅さんはクスクスと笑い声が聞こえてきた。
「何がおかしいんですか」
「だって、國春さんはいつもその危ない道についてきてくれるでしょ。普通なら態々危ない道だとわかっていたらついてこないのに。それが私は嬉しくって」
彩梅さんは太陽のような笑顔を浮かべていた。そのまぶしさに過去の私もそして笑顔が向けられていないはずの今の私も目を奪われてしまう。
「あ、ねえあそこ行ってみましょう。ほら早く」
動けずにいる過去の私をまどろっこしく思ったのか彩梅さんは手を握ると木々や草の生えた河原に向かっていった。
もうすぐあの場所に辿り着く。探していた目的の場所へ思いを巡らせながら二人の後を着いていった。