國春さん、遠くから私の名前を呼ぶ声が聞こえる。ふと顔を向ければそこには若かりし頃の彼女の姿がそこにはあった。
「ねえ、國春さん。もしあなたが今日のことをずっと覚えていてくれるなら五十年後の今日、またこの場所で……」
太陽のような笑顔を向ける彼女に見惚れ私は足を止めてしまった。
「彩梅さん、待ってください」
遠ざかっていく彼女が花吹雪に包まれて消えていく。必死に伸ばした手は決して彼女に届かず虚しく空を切った。何度も見るあの日の夢の続きを今日も見られないまま夢から覚めてしまった。
「日替わり朝食セットを一つ」
喫茶店白幻堂で最近平日の朝は毎日頼む朝食セットを注文する。他に客が居ない店には調理をする音と鼻腔をくすぐるおいしそうな朝食の匂いが漂う。
今日は何が出てくるだろう。音や匂いを楽しみながら出てくる料理をこっそり想像してしまう。これまで出されたメニューを思い出しながら待つこの時間が最近の密かな楽しみだった。
「今日の朝食セットになります」
出された料理を前にすると思わず笑みがこぼれる。味噌汁にご飯、焼き魚と卵焼きそして漬物。あの日と同じ料理だった。
「シラキさんには敵いませんね。私はそんなにわかりやすかったですか」
視線を向けるとシラキさんは優しげな表情を浮かべていた。
「國春くんとはもう随分長い付き合いになるからね。僕や彩梅さんなら気づけるくらいには今日の君はわかりやすいね」
「それでは今はシラキさん以外は気づけませんね」
私は密かにほっとしていた。シラキさんや彩梅さんしか気づけないようであれば例え我が子たちであっても私の変化に気づくことは難しいだろう。あまり知られたくなかったためにシラキさんの言葉は逆に私に安心をもたらした。
ふと、いつもであれば何かしら合いの手を入れる店員の姿がないことに気づく。店の中をぐるりと見渡すがやはり彼の姿を見つけることはできない。
「忠敬さんは本日はお休みですか」
私の言葉にシラキさんは小さくかぶりを振った。
「では、もしや……」
「そうだね。國春くんの想像通りだよ」
私が訪れない休日の内に忠敬さんは既に店員を辞め、この店から飛び立っていた。彼はようやく踏ん切りがついたようだった。仲が良かっただけに寂しさを覚えてしまう。それはシラキさんも同じようで本来喜ぶべき事であるはずなのにほんの少し寂しさと無事巣立つことができた嬉しさの混ざった複雑な表情を浮かべていた。
「少し寂しくなりますね」
「一歩を踏み出してくれたことは嬉しいことなんだけど、忠敬くんは長く働いていたからね」
しんみりした空気が私たちの間に流れる。忠敬さんは私が出会った店員の中では一番付き合いが長く年も近かった。そのためか、共通の話題も多く子や孫の話などでも盛り上がったことが何度もあった。
「では、暫くはシラキさんがお一人で白幻堂を切り盛りされるのですか」
白幻堂が一人で回せないほど忙しくなることはないと知っていた。しかし、同時に誰かしら店員が必要なときもあることを知っていたためにほんの少しの期待とともに出た疑問だった。
「そのつもりだったんだけどね。忠敬くんが人を紹介してくれたんだよ。だから君が心配しなくても大丈夫だよ」
「それは、安心ですね」
言葉とは裏腹にほんの少し寂しさを覚える。
ふと顔を上げるとシラキさんは綺麗な瞳が見透かすようにじっと私を見つめていた。
「もう少し時間があれば君に頼んだかもしれないね。でも、ボクはこの場所を君が歩みを止める理由にして欲しくないんだ」
「シラキさんはそういうお方でしたね」
あの頃と変わらない様子に思わず笑みがこぼれる。初めて出会ったあの日、決心がつかなかった私の後押しをしてくれた。再開したあの時も私の内心がわかっているかのように前へ歩き出す手助けをしてくれた。それは今日も変わらない。きっと忠敬さんが新しい店員を紹介していなかったとしてもシラキさんは私が立ち止まることを良しとしなかっただろう。ここを訪れる人にとってその理由が大事なことであるほどシラキさんはこの場所が足枷になることを望んでいない。
「今日は新しい店員さんはいらっしゃらないのですか」
今日中に一目見ておきたい、そんな想いからシラキさんに尋ねるとシラキさんは壁に掛かった古い時計へと目を向けていた。釣られて私も時計を見る。時刻は七時半を過ぎたばかりだった。
「今日は八時までに来るようにって昨日伝えたからもう少ししてからじゃないかな」
「そうでしたか。では、もう少し待つとします。ところで新しい店員はどのような方なのですか」
これまで白幻堂の店員には何人か出会ってきたが、店員になるタイミングで出会ったことは一度もなかった。普段の私であれば訊ねなかっただろうが、今日はつい湧き出る好奇心に抗うことができなかった。
「昔の君よりはわかりにくい子だよ」
何故か嬉しそうに目を細めながら私を見るその視線に少し気恥ずかしさを覚え目を逸らしてしまう。
「なんでしょうか」
「いや、初めて出会った頃の君を思い出していてね」
シラキさんの雰囲気に当てられて私も当時を思い出してしまった。初めて白幻堂を訪れたときの私はまだ十九歳になったばかりだった。引っ込み思案で自分に自信のなかった私は様々なことに常に消極的で周囲に流されて生きていた。そんなとき私に訪れた人生の転機が私がシラキさんと出会うきっかけだった。
「あの頃の私はまだ未熟でした」
「確かに今よりも大分未熟だったね。でも素直で随分と可愛らしかったよ」
「今では当時の話をすると大抵は驚かれます」
「確かに言動は大分変わったからね。でも中身は今もあんまり変わってないと思うよ」
お見通しとばかりに笑顔を浮かべるシラキさんにやはり敵わないなと思ってしまう。
「そんなことを言うのは貴方たちだけですよ」
彩梅さんの影響もありシラキさんと出会った頃に比べ様々なことに挑戦するようになり自身を持てるようになった。しかしそれでもシラキさんたちはいつも私が変わってないという。他の人であればからかっているのだろうと不快に思っただろうが、シラキさんたちであれば不思議と不快に思うことはない。むしろこの話をする度に気恥ずかしさとは別に胸の奥が暖かくなっていく。
「たかが数十年では本質はそう変わらないと思うよ。それでも変わったと誰かに言われるならそれは君の心の奥深くまで知らないからなんだろうね」
「相変わらずのようですね」
この話をするといつも微笑みと共に同じ答えが返ってくる。シラキさんの中では確信できる理由が存在するのだろうが、今まで何度か尋ねてみたものの私自身のことを引き合いに出されるだけで明確な答えが返ってくることはなかった。それは今日も変わらないらしくこの先私がシラキさんから答えを教えて貰うことはないのだろう。
「食べ終わったなら食器を下げるよ。食後に飲み物はいかがかな」
「ありがとうございます。それではお茶をいただけますか」
「いつものおすすめだね。それじゃあ少し待っててね」
シラキさんは食器を片付けるとすぐにお茶を入れ始めた。茶葉の匂いが漂ってくる。店の中にはシラキさんが作業する音だけが響く。ほんの数分ほどの静かな時間が店の中を支配していた。
しかし、その時間はすぐに終わりを迎える。
「おはようございます」
自信のない声と共に一人の女性が店内に入ってきた。