「この先じゃないよね」
不安をかき消そうと改めてお祖父ちゃんが手紙に同封された地図を確認する。間違っていて欲しいという願い虚しく地図の示す目的地は間違いなくこの怪しげな雰囲気の路地を抜けた先だった。
せめて他の人と一緒に歩ければ不安が和らげるのではと考え周囲を見渡すが、誰一人こちらに関心を向ける様子はない。
「こんなことなら安請け合いするんじゃなかった」
今朝、お祖父ちゃんからの頼みに二つ返事で返してしまったことを後悔しながら仕方なく私は路地の奥へ進んでいった。
「ここがおじいちゃんの言ってた喫茶店……」
路地を抜けた先にはポツンと一軒だけ古めかしい建物があった。
古民家のような外観と建物の真後ろにそびえる巨大な木に驚かされる。
『喫茶店白幻堂』。看板に書かれた店名が地図に書かれた目的地と同じ名前だったことでようやく私は安堵した。
恐る恐る扉に手をかけると鍵はかかっていないようですんなりと扉は開いた。
「あの、誰かいませんか」
返事が返ってくることはなく、店の中は物音一つせず私以外の誰かが動く様子もない。戸惑いながら手紙を取り出し改めて読むと最後に、返事がなくても気にしなくて良いこと。すぐに店の主と出逢えるから店の中に居ていいことが書かれていた。
手紙を読んで少し落ち着きを取り戻した私は改めて店内を見渡す。外見ではあまり大きそうに見えなかったが中は意外と広く、カウンター席にテーブル席、奥には座敷席がいくつも見える。あちこちの壁に吊された狐の尻尾のようなものが気になるものの手入れが行き届いているようで見渡す限り汚れが見当たらない。
「狐が好きなのかな」
カウンター席の入り口から一番近い場所に置かれた白い狐の剥製を目にすると壁の尻尾も相まって店主が狐好きかもしれないという印象を持たずにはいられなかった。
「この狐の剥製、触り心地良さそう」
少し見ただけでわかる毛の艶やかさ。特にもふもふであろう尻尾の魔力を前に私は抗うことができなくなっていた。
「ちょっとだけ。ほんのちょっとだけならいいよね」
店主さん、ごめんなさい。ここにいない店主へ内心で謝りながら私の右手は狐の剥製へと伸びていた。
「勝手に触らないでくれるかな」
突然声が聞こえ、咄嗟に手を引っ込める。
「ごめんなさい。狐の魅力に抗えなかったんです」
慌てて声の聞こえた方へ頭を下げる。
いつまで経っても返ってこない返事に恐る恐る顔を上げるが、そこには誰もいない。慌てて周囲を見渡すも人影一つ見つけることはできない。
「もしかして、幽霊……」
一歩ずつ後ずさりながらゆっくりと扉の方へ向かおうとする。
「ふふふ、ボクは幽霊じゃないよ」
再び聞こえた声を目印に慌ててカウンターの方を向くがやはり人影は見当たらない。
「こっちだよ。カウンターの上だよ」
恐る恐るカウンターの上へと視線を向けると、さっきまで触ろうとしていた狐がゆっくりと尻尾を動かし笑顔を浮かべていた。
「君が忠敬の孫だね。ボクがこの店の主だよ。よろしくね」
「き、狐が喋った」
私の口からこぼれた言葉を聞き面白そうな表情を浮かべる狐の様子を見て、狐ってこんなに表情豊かなんだと一人で驚かされていた。
「まずはこれでも食べて落ち着くといいよ」
店長は驚く私を傍目にカウンターの奥に引っ込むとすぐに何かを持って戻ってきた。その手にはシフォンケーキと紅茶を載せたお盆が握られていた。
「ミルクはお好みで入れてね」
流されるままにシフォンケーキを受け取った私は口に運んだ瞬間、衝撃を受けた。今まで食べたどのシフォンケーキよりもふわふわとしっとり感のバランスがとれていて、ほどよい甘さと優しい味が何故か食べるだけで安心をもたらしてくれた。紅茶もシフォンケーキの味を邪魔することなく次々とシフォンケーキを口に運ぶ手伝いをしてくれる。
気づけば出されたシフォンケーキの皿も紅茶のカップも空になっていた。
「満足してくれたようだね。それでは早速面接を始めようか」
店主の言葉でようやく目的を思い出した私は何故狐に面接されるのかを疑問に思うこともなくすぐに頭を下げた。
「お願いします」
「まず君の名前を教えてくれるかな」
「弦園マユミです」
平常心を取り戻した私は普段とは別の意味の緊張と混乱に襲われながら今、狐と面接をしていた。
「料理はどれぐらいできるのかな」
「ゆ、ゆでたまごくらいなら」
「珈琲や茶を入れたことはあるかな」
「その、苦いものが苦手で……」
だんだん店長から目を逸らしたくなってくる。
「掃除は、忠敬君の話を聞く限りでは難しそうだったね」
「その、祖父からはどのような話を伺ったんですか」
「確か、掃除をさせたはずが気づけば部屋の中が更に汚くなっていたとか」
「すみません。もう大丈夫です。掃除もあんまりできません」
私の心は恥ずかしさといたたまれなさで一杯になっていた。せめてどんなお店なのかをどうにかして聞いておけば良かった。内心でそんな考えが頭の中を駆け巡っている私を店主さんが面白そうに眺めていたが、私にはそのことに気づく余裕がなかった。
「君採用ね」
「えっ」
「忠敬君の紹介だし、今はちょうど人で足りてないからね」
「あの、本当に採用なんですか」
不合格を覚悟していたため咄嗟に聞き返してしまう。
「そうだね、採用だよ。仕事に関しては追々教えていくから覚えてね」
「はい」
「まあ、この店に来られる時点で遅かれ早かれ関わることになっていただろうしね」
このときぼそりと呟かれた言葉を私は聞くことができなかった。
「何か言いましたか」
「いや、なんでもないよ。お給料や契約に関してはこの書類に記載してあるから確認して一週間以内に提出してね」
店主がどこからか取り出した書類を受け取ると軽く内容を確認していく。給料や休暇の日数、稼働時間などのありきたりな内容が書かれている中、気になる箇所があった。
「あの、この退職前に必ず『夢』という注文を行うってどういう意味ですか」
お祖父ちゃんの紹介だから高額な料金を支払ったり変な問題になることはないだろうが、意味のわからない条件とメーニュー名に店主へ確認せずにはいられなかった。
「ああ、それね。働いて貰う人に必ず最終日に注文して貰うようにしているんだよ。料金は必要ないものだからお金の心配は要らないよ」
意味がわからなかった。何かの食べ物の名前かと考えたが宗ではないようだしどんなものかもわからず何故『夢』を最終日に注文しなくてはならないのかも理解できずにいた。
「理由については、そうだね君達が白幻堂に来たからかな」
私の疑問を察してたのかさらに説明をされたがやはり理解できない。
「まあ、暫く仕事をしてみればわかるようになるよ。だからもう少し時間が経って理解できなかったらまた質問するといいよ」
「今は駄目なんですか」
「今話しても君は理解できないと思うよ」
これ以上は答える気がないようだったのでこの喫茶店のことを詳しく知らない私には探る術はなかった。
「あ、そうだ。この尻尾持っていっていいよ」
未だ納得できない私を気にすることなく店主が取り出したのは店のあちらこちらに吊されているものと同じ狐の尻尾だった。
「あの、これはいったい……」
「店員になる人には渡しているんだよ。触り心地抜群だし癒やされるよ」
確かに店主の言葉通り尻尾の触り心地は良かった。この尻尾に包まれて寝ることが最上の眠りを手にすることができるだろうと思えるほどだった。
「尻尾の手入れが必要になったら持ってきてね。一週間に一度くらいが目安だからね」
「わかりました」
「それと、明日から出勤可能ということでいいかな」
「大丈夫です」
「それじゃあ明日は朝八時までに出勤してね。それじゃあ明日からよろしくね」
流されるままに店を出た私は明日からの生活に一抹の不安を抱えながら、その夜は尻尾を抱えて深い眠りへ落ちていった。