体育倉庫をあとにした刀子朱利かたなご　しゅりは、痛いたむ体を黙だまらせながら、校舎裏こうしゃうらへと向かった。

「……っ！？」

　教職員用出入口きょうしょくいんようでいりぐちわきの壁かべにもたれかかって、氷潟夕真ひがた　ゆうまが待っていた。

　彼女が近づくと、彼はスッと目を開あけ、鋭するどい視線しせんを送った。

「ふん、ぜんぶ『観察かんさつ』してたってわけだね」

「……」

　状態を維持いじしたまま、氷潟夕真は黙だまっている。

「何よ？　何か言いたいことがあるんでしょ？」

「……」

　相変わらず彼は沈黙ちんもくしている。

「ああ、もう。こっちはヘトヘトだってのに、ああイラつく……まったく、もう少しで雅みやびのやつをぶっ殺せたってのにさ。毒虫どくむしのウツロ……あいつさえ邪魔じゃまに入はいらなかったらね……」

　刀子朱利は正直な胸中きょうちゅうを、幼おさななじみの前で吐露とろした。

「……敗者はいしゃの弁べん、か」

　氷潟夕真は静かに、しかしはっきりとそう言った。

「てめえ、夕真、口のきき方に気をつけろよ？　もういっぺん言ってみろ、八やつ裂ざきにしてやる……！」

「……吠ほえるな、負まけ犬いぬがよ」

　その言葉に、彼女は怒髪天どはつてんに達した。

「てめえ、ぶっ殺してや……」

　セリフをしゃべり終える前に、氷潟夕真の大きな手が、刀子朱利の首に食らいついていた。

「んぐ、んんん……！」

　首根くびねっこを引っつかまれたまま中空ちゅうくうへと持ち上げられ、彼女は激はげしく嗚咽おえつした。

「……こういうことだ、朱利。お前は詰つめが甘あますぎる……だから勝てないんだぜ、雅みやびごとき・・・にな……」

　淡々たんたんとした口調くちょうで、彼は吐はき捨すてた。

　だが刀子朱利の耳には、ほとんど入はいっていない。

　呼吸が困難なあまり、体をバタつかせ、苦悶くもんの表情を浮うかべている。

「ぶはっ……！？」

　灸きゅうを据すえたと思ったタイミングで、氷潟夕真はスッと手を放はなした。

「げほっ、げほ……」

　刀子朱利は酸素を取とり戻もどそうと必死になっている。

　そんな彼女を、金髪の少年は冷ひややかな目線めせんで見下みおろした。

「夕真……げほっ、げほ……なにすん、だよ……」

　刀子朱利は地面に伏ふした状態で、彼を見上みあげた。

　その目からは苦痛くつうの涙なみだが垂たれている。

「……朱利、お前は頭が悪いんじゃない、学習能力がなさすぎるんだ……それを伝えたかったんだよ……」

　氷潟夕真は冷つめたい表情を変えず、そう言いい放はなった。

「何を、生意気なまいきな……」

　ようやく呼吸が落ち着いてきたが、幼なじみからの通達つうたつが悔くやしくてしかたなかった。

　それが図星ずぼしであることを、彼女はわかっていたからだ。

　決して認めたくはなかったが。

「……屈辱くつじょくだろ？　それでいい……その屈辱で、今度こそ雅みやびを殺せばいい……」

　屈折くっせつしてはいるが、これが彼なりの、幼なじみへの応対おうたいだった。

　彼は踵きびすを返すと、歩き出した。

「ふん……」

　刀子朱利はやっと立ち上がり、氷潟夕真の遠ざかっていく背中をにらんだ。

「わかってるし、そんなこと。次こそ雅みやびをぶち殺す……それは確定してるんだからね？」

　歩きながら彼は、心の中でため息をついた。

「……やっぱりお前、バカだよな……」

　刀子朱利はギリギリと歯軋はぎしりをした。

「……ああ、そうだ……」

「な、何よ……」

　氷潟夕真は突然立ち止まって、なにやら切り出した。

「……万城目日和まきめ　ひより」

「……！？」

「……ウツロと接触せっしょくしたようだ。お前たちが倉庫でドンパチやってるのを、わざわざ教えてやったみたいだぜ……」

　刀子朱利は驚愕きょうがくした。

　万城目日和まきめ　ひより――

　かつてウツロの父・似嵐鏡月にがらし　きょうげつが殺害した政治家・万城目優作まきめ　ゆうさくのひとり娘むすめ。

　実は似嵐鏡月に保護ほごされており、ウツロと同様、暗殺のイロハを叩たたき込こまれた。

　特定生活対策室とくていせいかつたいさくしつのデータベースから『失敬しっけいした』情報には、確かにそうあった。

「万城目日和、ついに動いたんだね……何が目的？　ウツロやわたしたちを、かく乱らんしたいってこと……？」

　刀子朱利はのどを詰つまらせながら、氷潟夕真に問いただした。

「……さあな、そこまではわからない。だが確実にいえるのは、俺たちも油断はできない・・・・・・・・・・・ってことだ……」

「ぐ……」

　彼は再ふたたび歩き出した。

「待ちなさいよ、話はまだ……」

「俺の話は終わった。少なくともな……」

「く……」

　大きな背中がどんどん遠ざかっていく。

「はん、どうせまた、あの南柾樹みなみ　まさきと仲良くケンカでもしようってんでしょ！？　いいよねえ、かまってくれるお友達がいてさ！」

　氷潟夕真は何も答えない。

　彼の姿はついに、校舎こうしゃの陰かげへと消えた。

「う……」

　刀子朱利は拳こぶしを握にぎった。

　強さのあまり、血がにじんでくる。

　それほどの屈辱だったのだ。

　仇敵きゅうてきである星川雅ほしかわ　みやびに敗北した挙句あげく、幼なじみの氷潟夕真にまで虚仮こけにされた――

「ぐ、うう……」

　彼女は涙を流した。

　今度は苦痛からではない。

　そのプライドを、強すぎる自身のプライドを、ずたずたに引ひき裂さかれたことによるものだった。

「ちく、しょう……」

　全身を震ふるわせ、刀子朱利は咆哮ほうこうした。

「ちっく、しょおおおおおおおおおおっ……！」

　その声はただ、氷潟夕真の耳にだけ届とどいていた。

　それ以外は人気ひとけのない放課後の黄昏たそがれに、溶とけ込こむように消えていったのだった――

（『第１８話　保健室の鼎談ていだん』へ続く）