音楽室をあとにしたウツロと真田龍子さなだ　りょうこは、教室までの道のりを並ならんで歩いていた。

　会話は、ない。

　さきほど受けた辱はずかしめ――唇くちびるを奪うばわれたウツロと、それを目の前で見せつけられた真田龍子――

　そのショックは、小さくはなかった。

　ウツロは真田龍子のことを、真田龍子はウツロのことを気づかうからこそ、言葉を捻ひねり出だすことができないのだ。

　もどかしい……

　二人の心には、ただその思いだけがあった。

　音楽室のある校舎こうしゃの二階へ下おり、教室棟きょうしつとうになっている隣となりの校舎へ行くには、渡わたり廊下ろうかを通とおる必要がある。

　二人がその中ほどにさしかかったとき、ウツロは思い立つことがあり、ふと足を止めた。

「ウツロ……？」

　何かと思った真田龍子が、彼の顔をのぞく。

「俺は、毒虫だ」

「……っ」

　ウツロはやにわに、そんなことを口走くちばしった。

「ウツロ、まさか、また……」

「いや、違うんだ龍子」

　よくないことを考えているのかと、心配した真田龍子。

　それに対してウツロは、凛りんとした眼差まなざしで応こたえた。

「少し前のことを、思い出していたんだ……あのときのことを……父さんと、兄さんが、俺に託たくしてくれた想おもいを……」

「ウツロ……」

　真田龍子は引ひき裂さかれそうになる胸を抑おさえた。

「正直に言って、いま……少しだけ、心が……また、よどみそうになったんだ……でも、思い出した……父さんと兄さんのことを……だから、俺は……俺はもう、平気だ、龍子……」

「……」

　平気？

　平気だって？

　嘘うそだ、そんなの……

　ウツロのことだ、また、無理をしているんだろう。

　自分だけが、苦しめばいいと思って……

「俺よりも、君のことが心配だよ、龍子。あんなものを見せられて、きっと、傷ついているだろう？」

　やっぱりだ、やっぱり、無理をしている……

　どうして？

　どうして自分だけが、傷つこうとするの？

　彼女はたまらなくなって、思い口を開ひらいた。

「ウツロ、わたしも正直、そうだったんだ……ウツロが、もしかして、あの女に、刀子朱利かたなご　しゅりに、奪うばわれてしまうんじゃないかって……それを考えると、わたし……わたし、ハラワタが、煮にえくり返かえりそうになって……」

「龍子……」

　ウツロは真田龍子の手を握にぎった。

「侮辱ぶじょくを受けるのは、慣なれっこさ。俺は、大丈夫だから……」

　彼女にはわかった。

　掴つかんでいるその手が、震ふるえているのを――

　真田龍子は迷まよったが、思いのたけを主張しゅちょうすることを選んだ。

「あのあと……特性対とくせいたいの本部に、送られたあと……ウツロが、何をされたのか……雅みやびから、ぜんぶ聞いたんだ……」

「……」

「いえ、違う。わたしが無理やり、雅に頼んで、調べてもらったんだよ……」

　ウツロは彼女が何を言わんとしているのかを悟さとった。

「どんな気持ちだと思う？　愛する人が、わたしの愛するあなたが……冷たい機械の中に、閉じこめられたり……体中からだじゅうを、コードでつながれたり……そんなひどいことをされる、気持ちが……！？」

　過去に受けた体験がウツロの頭をよぎった。

　だがそれ以上に、真田龍子が置かれているいまの状態が心配でならなかった。

「もう、嫌いやなんだ……ウツロが、周まわりに傷つけられるのは……ウツロは、虫じゃないのに……人間、なのに……う、ううっ……」

「龍子……っ！」

　嗚咽おえつしてむせび泣く彼女の手を、ウツロはギュッと強く握りしめた。

「いいんだ、俺は、いいんだ……！」

「なんでよ！？　そんなことをされて、悔くやしくないの！？　あなたは虫じゃない！　人間なんだ――」

　ウツロは真田龍子を抱だきしめた。

　人がいたらどうしよう？

　いや、そんなことは関係ない。

　そんなことは、どうでもいい……

「ん……」

　彼の温ぬくもりが伝わってくる。

　温度はしだいに、熱さへと。

　のぼってくる高揚こうよう、たぎってくる衝動しょうどう――

　止まらない、我慢がまんできない……

　歯車のように噛かみあう若者の、その内側に眠っていたものが、目を覚ました。

　この獣けものたちを縛しばりあげる枷かせも鎖くさりも、ズタズタに引きちぎろうとする。

　いっそ、このまま――

「龍子――」

「……」

　ウツロは手を緩ゆるめて、真田龍子を顔を見つめた。

　その双眸そうぼうに、くもりなど、ない。

「こういうことなんだ……」

　彼は間まを置きながら、眼前がんぜんの少女に語りかける。

「俺だって、許されるなら……でも、言いたいのは、それなんだ、龍子……」

　ウツロはひとつの決意を、彼女へ伝えようとした。

「龍子がいるから……どんな屈辱くつじょくにも、たとえそれが……俺という存在そのものを、蹂躙じゅうりんするような行為であったとしも……龍子が、龍子がいるから、耐たえられる……それだけなんだ、龍子……どうか、わかってくれないだろうか……？」

　ウツロは真田龍子の体を放し、もう一度、手を握った。

　二人は再び、歩き出す。

「俺は、毒虫だ」

「……」

「でも、這はいつづける毒虫……そうだろ、龍子？」

　完全には理解できないけれど、真田龍子はウツロの考えを、その心のありようを、のみ込むことにした。

　ウツロがそう、言うのなら。

　そんな気持ちだった。

「うん、ウツロ……」

　ウツロは微笑ほほえんでいた。

　とても穏おだやかな顔だ。

　真田龍子は思い出した。

　あのときのことを――

　いっしょに生きていこう。

　そう、言ってくれたときの、あの笑顔を――

　真田龍子は両手を、胸の上に組んだ。

　なんだか、すっきりしてきた。

　やっぱり、ウツロだ。

　これが、ウツロなんだ。

　わたしの知っている、わたしの愛している、ウツロ……

　彼女はうれしくなって、顔を赤らめた。

「行こう、龍子」

「うん、ウツロ……」

　彼はさわやかに、教室のドアを開けた。

　音楽室を出てから二人がここへたどり着くまで、かかった時間は十分じゅっぷん。

　その十分間じゅっぷんかんは、あっという間まに過ぎ去った。

（『第７話　保健室の狂気』へ続く）