日も暮れかかる頃。
ウツロは目を覚ましていたが、敷布団の上にうずくまって、なかば放心していた。
橙色の西日が、彼の陰鬱な気持ちに拍車をかける。
考えがまとまらない。
やはり俺の見てきた世界は、あまりにも小さすぎた。
人間についてわかったつもりになっていたけれど、実際はとても複雑だった。
人間には表面と内面がある。
それは一概に、良いとか悪いとか決められるものではないだろう。
人それぞれ、ということだ。
星川雅。
彼女は邪悪な内面を、しとやかな表面で覆っている。
しかしそれだけで「悪い存在である」と決めつけられるだろうか?
彼女は彼女で、何か抱えているものがあるのかもしれない。
他者を平服させたいという欲求、もしかしてそれと、必死に戦っているのかもしれない。
安易に悪だと断じるのは、早計にすぎるのではないか……
南柾樹。
彼は俺と同じだった。
俺と同様、強すぎる自己否定の衝動と戦っていたのだ。
俺はその表面だけを見て、彼を傷つけてしまった。
自分だけが不幸だと思っている……
そのとおりだ、彼の言うとおりだ。
柾樹の苦しみは、俺にはわからない。
いや、人の数だけ苦しみの形があると、いえるのではないか?
苦しみとはひとつの個性なのかもしれない。
やはり良くも悪くも、だけれど……
そして真田虎太郎くんと、真田龍子さん。
俺なんかには理解しえないほどの苦痛・苦難、それをあの姉弟は味わっているんだ。
推し量ろうとするのは、愚の骨頂だろう。
他者の苦しみなど、理解するのは不可能だ。
歩み寄りはもちろん必要だけれど、「わかった気になる」のは最低だ。
それはまさに、俺がやっていたことではないのか?
俺はひとりよがりな思い込みで、みんなを傷つけてしまった。
罪深い行為、やはり俺の存在は、間違っているのではないか……?
ウツロの卑下は止まらない。
彼は沸騰しそうになる思考を、なんとか堪えた。
「やっぱりここは、俺なんかがいていい場所じゃない。分不相応にもほどがある。毒虫が人間になろうだなんて、生意気だったんだ……」
いまは無理でも、隙を見てここから抜け出そう。
ウツロはそう思案した。
窓辺で数羽のスズメが、ちゅんちゅんと囀っている。
その鳴き声は、いまの彼にはどこか、物悲しく聞こえた。
そうだ、ここを去る前に、もう一度だけ目に焼きつけておこう……
「世界」のありさまを。
ウツロは影を落とすようにふらふらと、ベランダのほうへ足を運んだ。
桟の上に両手を預け、おそるおそる眼下をのぞいてみた。
学生服を着た下校中の高校生数名が、談笑しながら歩道を歩いている。
あれが学生……
学校というところにかよっている人たちか。
俺と同じくらいの年頃だ。
なんて楽しそうな顔だろう。
俺もあるいは、あそこにいたかもしれないのに……
いや、そんなことを言っても水掛け論だ。
わかっている、わかっているけれど……
ウツロは切なくなった。
本音を言えば、当たり前が良かった。
家族がいて、学校へ行って、いつかは社会へ出る……
そんな当たり前を、自分は持つことができなかったのだ。
駄目だ、いけない。
それではお師匠様や、アクタの存在を否定することになってしまう。
余計なことを考えるな、いいじゃないか。
あるがまま、与えられたものを受け入れなければ……
相変わらず発動する循環論法に嫌気がさし、彼は部屋の中へ戻ろうとしたとき――
「……ウツ……ロ……」
「――!」
桟の上にとまっている一羽のスズメが、なんとこちらに語りかけてくるではないか。
「……これは、アクタの『口寄せ』か……!」
「……ウツロ……俺は逃げのび……いまは、人首山に潜んでいる……お師匠様も、一緒だ……早く、お前に、会いたい……人首山まで、来てくれ……」
それを言い終えると、スズメは正気に返ったらしく、どこかへ飛び去っていった。
「アクタ、お師匠様、ご無事で何より……! 人首山……早く、行かなければ……!」
着の身着のまま、ウツロは慌てて部屋を出た。
(『第36話 脱出』へ続く)