医務室のドアは開いていた、まるでウツロを
彼は少しためらったけれど、意を決して中へと足を踏み出した。
「あら、どうしたの?」
「いや、別に。ひとりでいるよりはと思って」
「ふうん、心境が変化したの?」
「よく、わからない……」
「まあ、いいよ。立ち話もなんだし、こっちへ来て座りなよ」
ウツロはいざなわれるまま、彼女へ向かい合う椅子に、ゆっくりと腰を下ろした。
「どう? 『人間』の世界は」
星川雅はウツロをはぐらかすように皮肉を言った。
彼女は頭を少し
まるで観察されているようだ。
心の中まで侵入して、彼をしゃぶり尽くそうとしているようにも見える。
目の前にいる
クモは
「難しいね、『人間』は」
「また言ってるし」
どうやら
ここは時間を
たとえどんな
そうしなければ、こちらがやられる。
経験によるところは同様であるものの、彼女が使うのは心理攻撃だ。
山ではクマとでも
キツネとの
「また何か、考えてるでしょ?」
表情を
これも作戦の内なのか?
俺はすでに、この少女の
トラの穴に
ひょっとしたら、いまの自分がそうなのではないのか?
星川雅はウツロの
いけない、このままではのみ込まれてしまう。
ここは
彼は必死で自分を落ち着かせた。
「何かな?」
「いえ、ごめんなさい。
「頭が、いいんだろうね……」
ウツロは先に彼女からかけられた言葉を復唱してみせた。
心を
「まあね。医学部って、基本的にどこの大学もレベル高いんだよ? お父さまもお母さまも、学生時代に知り合って
星川雅はウツロをさらにはぐらかすため、あえてイメージしえないであろう会話を切り出した。
彼は心の中で感じる圧倒的な敗北感、自分の知っている世界がどれほど小さいものであったかということと、彼女の
「つらくなってきた? ごめんね。君がかわいいからつい、いじめたくなっちゃって。でも勘違いしないで。これもウツロくんのためなんだよ?」
彼女の言いたいことはいっこうにわからないし、どこか
「わたしは医者の娘だからね。医者の仕事は患者に現実を見せることなんだ。これから君は、およそ想像もつかないことを次々と経験するはず。だからはじめから、厳しくしつけておかなきゃと思ってね」
彼女はますます
「ま、ゆっくり、少しずつ慣れていけばいいよ。まだまだ人生は長いんだから」
その
この
まるでアリジゴクに
おそらくこれも
俺はもう、この少女の
「ウツロくんて」
「?」
「ほんと、かわいいよね」
食い殺される――
そう思った。
この女が食らうのは、人の心なのだ。
獲物を気づかせぬまま
そうされた者は
生きながら死人のようになって、彼女の意のままに動く人形にされるのではないか?
「おびえているのに必死で
なんだ、この感覚は?
心が、安らぐ……
支配されたい、この少女に――
「うふ。こっちへおいで、ウツロくん」
体が吸い寄せられる。
自分の意思に反して。
いや、俺はすでに、彼女に
わからない……
そんなことは、どうでもいい……
「座ってごらん」
彼女の「命令」は犬に対する「お座り」と一緒だった。
しかしウツロはその「命令」にしたがう。
その光景はまさに、人の姿をした「犬」である。
「顔を上げて」
もはや彼は星川雅の意のままだ。
上げたその顔は
もう彼女しか見えていないのだ。
「いい子だね、ウツロくん」
ウツロは
この少女に支配されていることが、うれしくて仕方ないのだ。
奪われたい、すべてを……
「名前、呼んで。わたしの」
「星川、さん……」
「雅でいいよ」
「みや、び……」
これではまるで
しかし現実でもあった。
ウツロは人形になった。
その
しかし、気持ちはわかる。
なんという快感だろう、精神を征服されるというのは。
俺は
それがこんなに、気持ちのいいことだったなんて……
「頭、
星川雅の手が、あやしくうねるその指が
次の瞬間、俺は完全に、彼女の
かまわない。
それほどの快楽、圧倒的な安心感。
ああ、俺はすべてを奪われ、すべてを与えられるのだ。
この女の思うがままに、作り変えられるのだ。
その存在を……
「――っ!?」
ウツロは反射的にのけぞった。
師である
本能に近いレベルでこびりついていたそれが、発動したのだ。
「
ウツロは
体勢を整え、戦闘の
「失礼だね、女性に対して」
だが彼女はいたって
椅子に座った状態で足を組み、手のひらを「うちわ」のようにして、顔をあおいでいる。
「何が精神科医だ。いまのは医学だとか、心理学だとかじゃない。明らかに
「だったら、どうするの?」
「口を
「教えてあげてもいいよ。君がわたしの『ペット』になってくれるのならね」
「
「そうだよ。だって、楽しいじゃん?」
両手の指を
実験動物を前に舌をなめる、気の
その表情は自分自身に
「
「だから、君がペットになってくれるのなら――」
「黙れ、黙れ! 頭が痛い……また、術をかけようとしているな!?」
「うふふ。そのとおりだよ、ウ・ツ・ロ・くん?」
「う……」
「柾樹も
「な……に……?」
「
「く……なんて、ことを……」
「弱みを見せた人間を食らいつくすこの術でね。ふふ、ウツロくん、わたしが二人に
「う……あ……」
「かわいいんだよ、あの二人。遊んであげるとね。わたしの命令なら何でも、喜んできいてくれるんだ。君も仲間に入りなよ、ウツロくん?」
ウツロが完全に彼女の術中に落ちようとした、そのとき――
「雅い、ウツロくん見なかった?」
真田龍子の
「うっ……」
「あれ、ウツロくん、ここにいたんだね。雅と話してたの? ごめんね、邪魔しちゃって」
「いや、いいんだ、真田さん……」
「大丈夫? 顔が青くなってるよ?」
「ああ、たぶん……しばらくぶりに栄養を取ったから、血が一気に脳へいったんだ。少しふらふらしたから、星川さんに
「そ、そうだったんだね。落ち着いたのなら、何よりだよ。でも、無理しちゃダメだよ?」
「う、うん……ありがとう」
そう判断して、ウツロはとっさに
それは結果的に、星川雅を
彼女はそれが屈辱なのか、
「龍子、どうかしたの?」
「あ、いや、
「いや、いいんだよ。
「あ、うん。ありがとう、星川さん……」
「布団は敷いておいたから、横になってるといいよ」
「うん、そうだね。ありがとう、
「さ、
「何にもだよ龍子。ウツロくんを、お願いね……」
身を寄せ合いながら退室する二人の背中を見つめながら、星川雅はペロリと舌をのぞかせた。
「やれやれ」
事務用チェアに体重を
ギシッという椅子の
彼女の表情が
「親友だと思い込んで、調子に乗りやがって……メス
その存在そのものが
彼女を
星川雅は真田龍子へ
「次に術をかけたとき、どうしてやろうか……ガチで豚にするか? そうだ、それがいい。手も足も切り落として、豚に変えてやる。わたしのウツロを奪った罪は重い、重いぞ、
くるっと回したシャーペンを、信じられない
強く握りしめたその
そしてハッと、われに返った。
「ああ、いけない……私としたことが、久しぶりにやらかしてしまった。てへえーっ!」
ひとりで
彼女は目いっぱい伸びをして、さらに気持ちをリラックスさせた。
「ふう……」
デスクの引き出しを開け、手のひらサイズの
ラジコンの
食事のあと、ウツロの部屋に
彼女が最初に席を立ったのは、それが目的だったのだ。
「龍子なんかに、渡さないんだから……」
(『第31話