大学やバイト、就活、推し活。
いろんなことで忙しくなって時間に追われていれば、いつの間にか過ごしやすかった季節は夏に変わり、太陽の輝きは一層強くなった。
風に揺れる木々の青葉は生き生きとして、緑を濃くしている。日毎にギラギラと主張が強くなる太陽に焦がされて、少し肌が焼けたように思う。
七夕に発売された三年ぶり三冊目となる律の写真集は、自身が打ち立てた前作の売上を大幅に上回り、今世紀最大のヒット作となっている。
「ありのまま」をテーマにした今作は前々作・前作とは違って、リラックスした表情や笑顔の律の写真が多く収められた。
中でも話題を呼んだのが自身初となるサイン会で、その倍率の高さに阿鼻叫喚するひとが続出したのも懐かしい。
なんとか当選した僕は律にバレませんようにと願っていたのだけど、まぁ一瞬でバレてしまって……。そのときにもらったサイン入りの写真集は丁寧に梱包して、大事にしまっている。僕の宝物だ。
そして、写真集と同じ七夕に発売された八枚目のアルバムを引っ提げて、律は今絶賛ツアー中だ。五大ドームを回る律から、地方公演の度に写真付きでメッセージが送られてくる。
席を用意するから見に来て欲しいと言われたけれど丁重にお断りしたから、行きたくなるように仕向けたいのだろう。
でも残念、僕は絶対に行かない。アイドルの律を生で見たら、見えない壁の分厚さに絶望してしまうから。だから僕はこの街で律の活躍を見守っている。
売れっ子のスーパーアイドルはとにかく時間がない。ツアーに加えて、スペシャルドラマに出演すると発表があったばかりだ。
忙しい合間を縫って連絡をくれるのだから、律はマメな男なのだろう。
深夜まで撮影が続きそうなときは、日付が変わる前にメッセージが届くことが多い。けれど、今日は珍しく十四時過ぎに電話がかかってきた。
『今、時間平気?』
「うん、バイトは夕方からだから」
『よかった。やっと紡の声が聞けた』
CDやテレビとは違う、リアルな律の声が安堵に染まる。
『紡ってどんなバイトしてるの?』
「居酒屋のホールだよ」
『え、酔っ払いのおじさんに絡まれたり、触られたりしてない?』
「どんな心配してるの。僕、男だよ」
あまりに真剣に律が言うものだから、思わず笑ってしまった。
顔の整った、それこそ律のような男性ならまだしも、僕なんかが相手にされるわけがないじゃん。たとえそれが酔っ払いだったとしても、わざわざ僕を選ぶなんてことはありえない。
『男でも、俺は紡を口説くけど』
「…………、そんな繁盛したお店じゃないし、お客さんもあんまり来ないから」
不意をつかれた口説き文句には閉口して、言い訳がましく呟いた。電話越しなら顔が赤くなっていることは見えないはずなのに、バレている気がして恥ずかしい。
『ふーん、何てお店?』
「絶対言わない」
『紡のケチ』
まるで小学生みたいに不貞腐れて、文句を垂れる律はかわいい。けれど、僕にも譲れないことはある。
その後も電話を切るまで教えてと駄々をこねられたけど、お店の名前を伝えることはしなかった。
『今日はこの後バイト?』
「うん、夕方から」
『そう、頑張ってね』
「ありがと」
バイト先で制服に着替えながら、そんなやりとりを思い出す。推しに応援してもらえるなんて、僕は世界で一番幸せなオタクだ。よし、とニヤけた顔を引き締めて僕はホールに出た。
夫婦で営んでいるこじんまりとしたお店は裏路地に面していて、少し分かりにくい。だから昔からの常連さんや仕事終わりの疲れきったサラリーマンが主な客層で、学生をはじめとする若い人は滅多に来ない。
今日は週の真ん中、水曜日。
あまり忙しくはならなさそう。まぁ、てんやわんやするほど忙しくなったことなんて、片手で足りるほどの回数しかないんだけど。
開店と同時にやってくるいつもの常連さんを見送って、テーブルに紙ナプキンを補充しながらキッチンにいる店長と話していると、入口から控えめなベルの音が聞こえてきた。
時計の針は、気がつけば二十二時を少し過ぎている。
いつもの常連さんかな。そんなことを考えながら、入口に向かう。
「いらっ、」
そこに佇む背の高い見覚えのある男を確認して、理解が追いつかずに固まってしまった。
帽子を被ってマスクをしていたって、そのオーラは隠しきれていない。周りにキラキラとしたエフェクトが見える。
「お、」
「お?」
「お引き取りください」
「ふは」
僕の反応を愉快そうに目を細めて観察している彼は、そんな失礼な対応をしたにも関わらず、堪えきれずに噴き出した。
悪戯に目を煌めかせる彼――東雲律はサプライズがお好きなようで。僕はいつも彼に驚かされてばかりだ。
「ほら、早く案内してよ」
「……一名様ですか」
「はい」
「なんで……」
堂々と答える姿に思わず言葉が漏れた。こんなところまで来るなら、楠木さんを連れてきてくれ。僕だけじゃ制御できない。
ただ、こうして入口に突っ立っていると、他のお客さんが来た時がまずい。渋々奥の席に案内すると、帽子もマスクも取ってしまった律が素顔を露わにする。
見慣れた景色に見慣れない芸術品。今流行りの異世界にでも迷い込んだかのような気持ちになる。嗚呼、頭が痛い。
メニューを差し出せば、律は上機嫌で見上げてくる。
「紡のこと、口説きに来ちゃった」
「……っ」
お茶目にウインクしてみせる律は、慌てふためく僕とは対照的に今まで見たことがないぐらい楽しそう。
どうしてここが分かったんだ、とか。どうやって来たんだ、とか。聞きたいことは山ほどあるのに、今は仕事中だから許されない。
そんな僕にお構いなく、律は遠足に来た子どものようにウキウキしている。
「ねぇ、紡のおすすめは?」
「……律の口に合うようなものはありません」
「冷たいなぁ、俺好き嫌いないよ」
「……知ってます」
「そんなに怒らないでよ、紡に会いたかったんだって」
強いて言えばお酒がちょっと弱いぐらい。そんなこと、ファンなら知っている。
お客様を相手にしているとは到底言えない態度を取ってしまっても、律は機嫌を損ねることなく、口を固く結んだ僕に宥めるように話しかける。
別に怒っているとか、そういうんじゃないんだ。ただ不思議で、動揺してしまっているだけ。
「今日は何時まで?」
「二十四時前だけど」
「あと二時間もないぐらいか。うん、じゃあ待ってる」
「え?」
「紡と一緒に帰る」
悩みながらお酒や一品料理をいくつか頼んだ後、律が腕時計を確認しながら突然そんなことを言い出した。毎度の如く、何を言ってるのか理解に苦しむ。
「やめてください……」
「やだ」
「……困ります」
「やだ」
イヤイヤ期の子どもみたい。
頑なに首を振る律は強引に店から追い出したって、きっと忠犬のように僕を待っているだろう。もっとも、神さまにそんな無礼なことをできるわけがないのだけれど。
「つむちゃんの知り合い?」
「まぁ……」
出来上がった料理を運ぶために厨房に戻れば、芸能人に疎い店長に律のことを尋ねられる。
バレていないならよかった。店長はいい人だけど、あまり律のプライベートを広めたくない。
「今日は締め作業いいから、早く上がりな」
「でも、」
「待たせる方が申し訳ないだろ」
言葉を濁して頷けば、ニコニコ笑顔の店長が気前よく言う。
自分の仕事なのに任せてしまうのは申し訳ない。断ろうとはしたものの、こうなったら店長は頑固だ。
結局、僕は閉店時間になった瞬間に「今日もお疲れ様」と嬉しそうな律の元に送り出された。
「はぁ……」
「迷惑だった?」
「……そんな風に思ったことはないよ」
強引だなぁとため息を吐けば、表情を曇らせた律が遠慮がちに聞いてくる。
しょんぼりと垂れ下がった眉、へにょと曲がった口、どっと湧いてくる罪悪感。小さな声で否定すれば、ほっと安堵したみたい。
「ちょっと着替えてくる」
「うん、待ってる」
今日は律からは逃げられない。
酔いが回ったのか、ぽやぽや笑って手を振る律は少し幼くて危なっかしい雰囲気がある。
ちゃんと家まで帰らせないと。
この辺、タクシー止まってるかな。
私服に着替えて店の外に出れば、律は空を見上げて僕を待っていた。憂いを帯びたその顔は、恐ろしいほどに美しい。
どこに居ても絵になる人だ。
まるで雑誌の中の一ページ。
律のいる場所だけ魔法にかけられたみたい。
思わず見惚れてしまって、声をかけるのを憚られる。
声をかけた瞬間にこの空間が崩れ去ってしまうのなら、ずっとこの光景を見ていたい気持ちにさえなる。
オタクな部分が顔を出していると、律がふとこちらに視線を向けてぱっと表情が切り替わった。
「紡、お疲れ様」
「ありがと」
「酔い醒ましにちょっと歩かせて」
「えっ、タクシーは?」
「大丈夫、人も全然いないし」
そう言って律はゆらゆらと歩き出す。
見た目以上に酔っ払ってる……?
ハイボール一杯しか飲んでないのに?
連日の激務でよっぽど疲れが溜まっているのだろうか。
「紡、置いてっちゃうよ〜」
首を捻る僕を置いて、楽しそうに笑いながら律は足を進める。
神さまの相手は大変だ。
小走りで隣に並び、うーんと少し考える。
悩んだ末、酔っ払いは何をするか分からないからなんて言い訳をして、僕はそっと震える指を伸ばし、律の手を握った。
びくりと反応があったのもつかの間、しっかりと握り返されて、自分でしたことなのに恥ずかしくて耳が熱い。
下を向いていた僕は、口元に弧を描いた律が愛しいものを見るような目で見つめていることには気が付かなかった。
「ふふ、今日はいい日だ」
繋いだ手をぶんぶん振って、歌うように律は言う。
普段から人通りの少ない裏通りは日付が変わったせいか、人の気配さえ感じられない。
街灯の数も少なくていつもはもっと不気味なのだけど、今宵は満月が照らしてくれる。
淡い黄金色に輝くまん丸なお月様は、今夜の主役は自分だと主張している。
チラリ、バレないように隣に並ぶ彼を見上げれば、お月様に似た色の髪がきらきらと夜に映えて眩しい。
この世界の主役は律しかいない。
まるで自分で発光しているかのような、そんなオーラが彼の周りには漂っている。
「きれい……」
思いがけず、口からこぼれ落ちた言葉を耳にした律がまっすぐに僕を見つめて呟いた。
「……月が綺麗ですね」
それはあまりにも有名な愛の言葉。
だけど僕は素直に受け取れない。
無知なふりをして躱すことしか許されない。
「……律の方がずっと綺麗だよ」
だからせめて、僕からの贈ることのできる最大限の愛のメッセージを。
心からの本心でそう言うと、ぴたりと足を止めた律が大きく息を吐いてその場にしゃがみこんだ。