サラリーマン、学生、OL。
ありとあらゆる人に紛れて、ホームに降り立つ。
乗降者数がとにかく多いこの街で、僕のようなちっぽけな存在を気にするひとなんて誰もいない。
道行く人は先を急いでいて、ひとり取り残されたような気持ちになる。
どんどん追い抜かされながら改札を出て、かの有名なスクランブル交差点に向かえば、でかでかと飾られたポスターに目を奪われる。
――律だ。
思わず、足を止めてしまう。
邪魔だなぁと足早に通り過ぎていくサラリーマンに舌打ちをされるけれど、そんなことはどうでもよかった。
無造作に黒髪を遊ばせて前髪をセンター分けにした中性的な男が、青いバラを咥えている。
跳ね上げたアイラインが扇情的で、挑戦的な視線を送る姿は世界を虜にする絶世の美男、そのもの。
「20th Single, 5/11 Release」と書かれたそれは、律の記念すべき二十枚目のシングルの発売を宣伝するためのものだ。
無意識にため息が出てしまう。
そんな浮世離れした美しさを放つポスターを前にしても、都会の足並みは止まらない。
いつか、貴方と一緒に歌うことができたなら――……。
ただひとり、僕だけがいつまでも律の前に佇んでいた。
☆
――今からおよそ八年前。
彼は彗星のごとく、突然僕の世界に現れた。
毎週放送されている生放送の音楽番組。
他に見るものがなくて、中学生の僕はただなんとなくでチャンネルをそれに合わせた。
「さぁ、今夜も始まりましたミュージックスタジオ! 今夜のゲストを早速ご紹介しましょう」
ベテラン歌手、当時流行っていたバンド、海外のアーティスト……。番組が始まると、名物司会者によって次々とアーティストが紹介されていく。
「そして、最後は本日デビューされたこの方…! 東雲律さんです!」
名だたる歌手の面々をカメラが抜いた後、画面を独占したのはまだ幼い面影の残る律だった。
金髪のセミロング姿はまるで天使が空から舞い降りてきたようで、十七歳の高校生には到底見えなかった。
(うわぁ……)
彼との出会いはあまりにも衝撃で、僕は目を見開いてその美しい姿を瞳に焼き付けた。
当時の律は成人していないのになんだか危険な妖艶さを醸し出していて、精巧な作りもののようだった。
律が持っていたのは何も魅力的な容姿だけではない。ただの見てくれだけのアイドルだろうと高を括っていた人たちはその歌声に度肝を抜かれた。
透き通るようなクリアな声は男性にしては少し高めで、キャラメルのように甘ったるい。
歌唱力にも抜群の才能があった。
テレビの中で歌う姿があまりにも美しくて、その声がとてつもなく綺麗で、どうしようもなく心惹かれてしまった。
僕と同じように目を奪われて、その歌声の虜になったひとが何人いたことか。
東雲律はたったの一夜にして、スーパーアイドルの称号を冠することになる。
とにかく夢中だった。
瞳をキラキラと輝かせて、瞬きをすることさえ忘れてしまう。紅潮した頬は、僕がどれだけ興奮しているかを物語っていた。
たぶん、誰が見てもよくわかる。
人が恋に落ちる瞬間だ。
律に出会ったあの日から、僕はずっと叶わない恋をしている。
☆
僕の世界に突然舞い降りてきた天使は、いつの間にか神さまになっていた。
「律は神さまになるはずだったのに、間違えて人として産まれてきたんだと思う。でもそんなところもおっちょこちょいでかわいくて好き」
「お前よくそんなこと真顔で言えるよな」
「……
「ハイハイ、そう思います」
「そうだよね、律は僕の神さまだから」
「は~」
幼なじみの奏にそんなことを話しながら高校から帰ったときもあったっけ。頼むからストーカーにはならないでくれよ、なんて奏に思われているとはつゆ知らず、僕は日に日に律への愛を募らせていた。
CDが発売されると決まったら、近所のCDショップに駆け込んですぐに予約した。パッケージのビニールをぴりぴりと丁寧に開ける瞬間が、たまらなく好きだ。
歌詞カードを開いて、そこに載ってる律の姿にため息を吐いて。何度も何度でも繰り返し聴いて、プレイリストにどんどん曲が増えていくのが嬉しかった。
コンサートのDVDは普段とはまた違う律が観れて興奮した。自己プロデュース力に長けている律は髪型や髪色をころころ変えるし、自分でメイクもしちゃうタイプ。自分が一番輝くために必要なものが何かをわかっている。
そのままで十分美男なのに、カラコンを付けた姿は同じ日本人とは思えない程、美しかった。
画面を通して見ているだけで好きが溢れて、心が張り裂けそうになるのに……。
多分、生で見たら死んじゃうんだろうな。
そういえば教室の隅でお弁当を食べながら、奏に質問されたこともあった。
「そんなに好きならコンサートに行けばいいのに。今度ツアーがあるんだろ」
「無理」
「なんで」
「神さまと同じ空気を吸ったら死ぬ」
「……」
真顔で即答した僕。
奏は聞いた自分が悪かったと、死んだ目をしていた気がする。
だって、そんなの愚問だ。
律と同じ空間にいて、視界に入る距離にいるなんて、耐えられない。
律は神さまだから。
遠くから見ているだけでよかったんだ。
☆
「やば、律じゃん」
「かっこいいよね、顔面偏差値高すぎ」
スマートフォンを取り出して律のポスターを写真に収める僕の後ろを、そんな会話をしながら二人組の女子高生が通り過ぎていく。
二人の話す内容に心の中で同意しながら、僕はまたシャッターを切った。
思い返せば、僕の人生の大半は律に染められていた。
何かに迷ったときは律の言葉が僕の背中を押してくれて、挫けそうなときはいつだって律の存在が心の支えになっていた。
律は僕のすべてだった。
スクランブル交差点の信号が青に変わる。
律の広告を名残惜しく思いながら、僕は忙しなく足を進める人の流れに身を任せた。
すると、街には律の新しいCDに収録されるカップリング曲が流れ始め、商業ビルの大きなモニターに彼の姿が映し出される。最近決まったチョコレートのCMだ。
チョコレートを齧る色っぽい姿に、街の女性の目はハートになっている。
艶っぽい眼差しで射抜かれれば、誰だって彼の虜だ。
最後にフッと魅惑的な笑みを零した律が画面から消えて、今流行りのドラマに出ている若手俳優が出演するCMに変わった。
それを確認した僕は、歩きながらふと考える。
律を色に喩えるならば――それは、青。
普段は冷静沈着なのに、歌っている時は誰よりも情熱的。実は人一倍熱い男だって、ファンなら皆知っている。
スーパーアイドルである彼の瞳の奥には、いつだって静かに青い炎が揺れている。
その瞳を前にしたら、僕は一体どうなってしまうのだろう。