蒼真が静かに目を開けると、そこはよく見慣れた狭い練習室だった。
「帰ってこれたぁ……!」
思わず安堵の声が漏れて、そのまま床にへたり込む。目の前には、折れた指揮棒が転がっていた。
指揮棒を拾い上げながらふと隣を見上げると、ちょうど弘祈も同じように
「帰ってきたんだ……」
弘祈の口からも同様の言葉が出てきたところで、弘祈の顔を見上げたままの蒼真が声を掛けた。
「……なあ、弘祈」
「どうしたの?」
蒼真の声に反応して、すぐさま弘祈は視線を落とす。
「えっと、その、覚えてるか? この指揮棒のこと、とか……」
何となく言いにくそうに蒼真が切り出したのは、異世界での出来事についてだ。
もしこれが一人で見ていた夢だったらどうしようか、などと思ったのである。
しかし、弘祈はこともなげにあっさりと言ってのける。
「もちろん覚えてるよ。忘れるわけないじゃない。ちゃんと僕がオリジンの卵の親で、蒼真は僕たちを守る騎士だったよ」
「……そうだよな」
弘祈の答えに、蒼真が「よかったぁ」とこれまで緊張していた肩の力を抜いた。
「大丈夫、夢なんかじゃなかったから」
蒼真の心を読んだのか、弘祈はそう言って微笑む。今までこちらの世界では見たことのない笑みだった。
「だよな。それにしても、俺たちがいなくなって捜索願なんて出されてないだろうな……」
蒼真はほっとするが、すぐに今度は違うことを気にしだす。
異世界で数日の間、旅をしてきたのだから、こちらでもきっと同じように日数が経っているだろうと考えたのである。
「さあ、どうだろうね」
「お前なぁ……。突然俺たちが消えて、神隠しだとか言われてたらどうすんだよ」
「その時はその時じゃない?」
眉を寄せる蒼真に、弘祈は「しょうがないよ」とけろりとした様子でそう返した。こういうところは弘祈もマイペースである。
「時計は……ここにはないもんな」
この練習室に入れられるまで演奏をしていたから、二人ともたまたま腕時計を外していた。演奏中は時計をつけない主義だ。また、ここに時計は置いていないことも知っている。
「とりあえず出てみるか」
「まずはそこからだよね」
蒼真が立ち上がり、弘祈と一緒にドアの前に立つ。
思い切ってドアを開けて外に出ると、そこにいたのは大勢の市民オーケストラのメンバーだった。
とっくにいなくなっていると思っていたので、やや拍子抜けである。
「あれ、何でお前らがいんの?」
蒼真の口から思わず
「何でって、今ミーティング終わったとこだけど?」
「あ、ああ、そうだったのか……」
狐につままれたような気分でそう呟いた蒼真は、次には胸に手を当てて大きく息を吐く。
どうやら時間はほとんど経っていないらしい。そのことに心底安堵した。
次には、トランペットをケースにしまっていた男性メンバーが口を開く。
「ところで、今日の喧嘩はずいぶんと早く終わったな。最短記録じゃねーの? 俺、あと三十分は出てこない方に賭けてたんだけど」
「俺らを使って賭けるんじゃねーよ!」
残念そうな言葉に、蒼真が途端に怒りをあらわにした。
すると別の男性メンバーが苦笑しながら、仲裁に入ってくる。
「まあ、それはいつも喧嘩してる蒼真と弘祈が悪いって。で、ちゃんと仲直りしたのか?」
「仲直りも何も最初から喧嘩なんてしてねーし! ただの意見の相違だ!」
「そうそう、いつも意見が合わないだけだもんね」
男性メンバーに食ってかかる蒼真の様子に、後ろからのんびりやってきた弘祈がそう言って笑みを零す。
そんな蒼真と弘祈を交互に見やって、男性メンバーは呆れたように肩を
「あーはいはい。そういうことにしておくわ。お前らはいつものことだしな。あれ? 蒼真、その腕どうした?」
「え、腕?」
指を差された蒼真が、素直に左腕に目を落とす。そこには弘祈が巻いてくれた包帯がそのまま残っていた。
(あ、あの時の……)
弘祈が薬草を貼って、丁寧に包帯を巻いてくれたことを思い返す。
つい感傷に浸りそうになっていると、男性メンバーが眉をひそめた。
「まさか、練習室で流血
「別に起こしてねーし! そんなの中見てみればわかるだろ」
またも声を荒げた蒼真が、ドアを大きく開けて練習室の中を見せる。
「ああ、確かに大丈夫そうだな」
中がいつもと変わっていないことを確かめた男性メンバーはそう言うと、練習室のドアを閉めて、しっかりと鍵をかけた。
※※※
「二人とも少しは仲良くしろよ。じゃあまた来週な」
呆れた様子でメンバー全員がぞろぞろと帰っていくと、音楽室には蒼真と弘祈だけが残される。
「仲良く、ねぇ……」
折れた指揮棒をケースにしまった蒼真が思わずぽつりと零すと、弘祈はそんな蒼真に顔を向けた。
「蒼真。前に言ったこと、覚えてる?」
弘祈の問いに、蒼真がうつむいてしばし考え込む。
少しして顔を上げると、弘祈をまっすぐに見た。
「もしかして、『無事に地球に帰れたらもう少し弘祈の意見も聞く』ってやつか?」
「ちゃんと覚えてたんだね」
蒼真の答えに、弘祈が「よかった」と満足そうな笑みを浮かべて頷く。
「まあ約束だったし、それはできるだけ守るようにするかな……」
何となく顔を背けながら、蒼真は頭を掻いた。
確かに、約束は守らないといけない。自分から言ったのだからなおさらだ。
けれど、それについては不思議とあまり嫌な気はしていなかった。
(これからは少しだけ譲歩して、意見を交換し合うのもいいかもしれないよな。もちろん時には主張することも大事だとは思うけど)
蒼真は心の中で「うんうん」と何度も頷く。
今回の旅は色々なことがあって、本当に大変だった。
それでも、得たものだってたくさんある。
(俺は今まで弘祈のことを苦手だって、嫌いだって勝手に思ってて、少しもわかろうとしなかった。話してみようと努力すれば、苦手な人間がそうじゃなくなったりすることもあるのにな。そう、まるで食わず嫌いみたいにさ)
そんな当たり前のことに、今になって気づいた。
(今なら仲良くなれる気がするな)
弘祈が自分のことをどう思っているのかはわからないが、先ほどの笑顔を見る限りではそこまで悪く思われてはいないだろう。
願わくば、自分の同じような気持ちであって欲しい。
そんなことを考えながら、弘祈に目を向ける。
ヴァイオリンをしまっている弘祈は、まだ嬉しそうな笑顔を浮かべていた。この笑顔だって得たものの一つだと、蒼真は思う。
弘祈につられるようにして、蒼真が目を細める。
「よし、じゃあ俺たちもそろそろ帰るか!」
「そうだね」
弘祈も素直に頷いた。
そこで、蒼真が思い出したように口を開く。
「そうそう、薬草を採りに行った時なんだけどさ」
「僕が熱を出した時のやつ?」
ヴァイオリンをしまい終えた弘祈が小さく首を傾げると、蒼真は大げさなほどに両手を広げて、破顔した。
「そう。薬草の生えてた場所がすごい綺麗でさ!」
「へえ、そんなに綺麗だったんだ。それは僕も見たかったな」
「あれは写真撮っておきたかったけど、スマホ持ってなかったからなぁ」
「じゃあ、今度あっちの世界に行った時に案内してよ」
弘祈の爆弾発言に、動きをぴたりと止めた蒼真の目が大きく見開かれる。
「お前、また行くつもりなのか……?」
「結構楽しかったじゃない。それにもう結界が張られてるだろうから、魔物は出ないと思うよ」
野宿にはなるかもしれないけど、そう言って弘祈は心底楽しげな笑みを浮かべた。
「いや、もう今から口で説明するから、それで我慢してくれ! ほら、さっさと行くぞ!」
蒼真が
「あ、ちょっと蒼真。置いてかないでよ!」
蒼真の後を追って、弘祈も駆け出した。
そのまま、蒼真と弘祈は騒がしく音楽室を後にする。
明かりの消えた音楽室。その窓の外には、月明かりとともに、たくさんの星たちが瞬いていたのだった。
【了】