これまで背後で流れていた『パッヘルベルのカノン』が止んで、代わりに弘祈の声が響く。
「蒼真、大丈夫!?」
慌てた様子で駆けてくる弘祈の手からは、すでにヴァイオリンが消えていた。
蒼真は地面にへたり込み、額に浮かぶ汗を腕で雑に拭っていたが、弘祈の声に反応して苦笑を浮かべる。
「ああ、平気」
「それならよかったけど、あんまり無茶しないでよね」
やや膨れたように弘祈がそう答えて、蒼真の正面にしゃがみ込んだ。
様子を見るに、これでも多少の心配はしてくれていたのだろう。
以前であれば、ここまで心配するような仲ではなかったはずだ。そう思うと、なぜだか蒼真の心がふわりと温かくなる。
「そんなに無茶はしてないつもりだったけどな。それよりも弘祈の方が危なかったろ。普段から集中力はある方だろうけど、あそこまで集中してヴァイオリン弾いてるのは初めて見たわ」
「うん、ごめん。あの時は集中しすぎて全然気づかなかったから、助けてもらえてよかったよ」
「まあ、結果的に無事だったんだからいいんじゃねーの。それに弘祈とオリジンの卵を守るのが俺の役目だし」
素直に謝る弘祈に、蒼真は少々驚きながらも今度は爽やかな笑みを返した。
それからさらに続ける。
「ところで、さっきのヴァイオリンすごかったな。俺の剣に力を送る、っていうのかな。あんなこともできるなんて知らなかった」
蒼真が折れた剣を手から消して感心したように言うと、弘祈は途端に頬を赤らめた。
「僕だって全然知らなかったよ。あの時はただ、『僕も何かしなきゃ』って思ってさ。そしたら急に右手が熱くなって、勝手に身体が動いたんだよ。それにいつも『騎士様』に頼ってるだけじゃいけないもんね」
照れくさそうに、そう答える。
「ああ、俺も右手が温かくなったな。あれって魔法みたいなものだったのかねぇ?」
「うーん、どうだろう。僕もただ勝手に身体が動くのに任せてたような感じだったし。リエンル神殿で聞いてみたら何かわかるかな?」
「ま、行ってからダメ元で聞いてみればいいんじゃねーの」
蒼真は弘祈に軽くそう言ってから、先ほどの戦いを思い返した。
そして、前言撤回とばかりに表情を変える。
「でも、やっぱあんな状況でヴァイオリンなんて弾いてたら危険だよな。実際、狙ってくださいって言ってるようなもんだったし。今回は無事だったからよかったものの、何かあってからじゃ遅いんだぞ」
蒼真がそう
「もちろん、危険だとはわかってたよ。オリジンの卵に何かあったら、僕にも影響するだろうし。割れたら僕も死ぬかもしれないとは思ってたけど、何もしないで魔物に殺されるよりはいいでしょ」
「……弘祈、お前やっぱり知ってたのか」
弘祈の言葉を聞いて、蒼真の表情が曇る。
蒼真からはオリジンの卵とのリンクについてできる限り話さないことにしていたが、やはりそんな気遣いは不要だったのだ。
「わからないわけないじゃない。卵に傷がつくだけで僕も怪我するんだよ? 卵が割れたらどうなるかくらい、簡単に想像できるじゃない」
「そう、だな」
明るく、
確かにその通りである。よほどの馬鹿でない限り、それくらいは容易に想像できてしまう。そんな単純なことに、どうして今まで気づかなかったのか。
弘祈はきっと最初に怪我をした時にはもう気づいていたのだ。
卵が割れると自分の身も危険だとわかっていて、それでもあえて何も言わず、ずっと平気なふりをしていたのだろう。
その心中は、蒼真には想像もできないほど複雑だったに違いない。けれど、今はこうして目の前で
(こいつは俺よりもずっと心の強い人間なんだ)
蒼真はうつむいたままで、つい小さな笑い声を零してしまう。
自分がここまで懸命に隠してきたのは、まったくの無意味だったのか。そう考えたら急におかしくなってきたのだ。
「えっ、いきなりどうしたの!?」
突然笑い出した蒼真に、弘祈が慌ててその顔を覗き込もうとする。
しかし、それより先に蒼真は笑ったままの顔を上げて、涙を浮かべた瞳で弘祈を見つめた。弘祈は
「いや、卵も弘祈も俺も、全員が無事でよかったなーと思ってさ!」
そう言って、満面の笑みで弘祈の肩をバンバンと大きく叩くと、弘祈はきょとんとした表情で首を傾げたのだった。
※※※
「あっ!」
ひとしきり肩を叩かれた弘祈が、何かに気づいたように大声を上げた。
その声に、蒼真が首を捻る。
「どうした?」
「蒼真、怪我してるじゃない! ほらここ!」
驚いた表情の弘祈が、蒼真の左腕を指差した。
弘祈の示した場所に蒼真が視線を落とすと、それほど大きくはないが確かに切り傷ができている。戦っている時にいつの間にか怪我をしていたらしい。
「あ、ホントだ。全然気づかなかったな。でもこれくらい平気だって」
気にしなくていい、と蒼真は手を振って立ち上がろうとした。
しかし、弘祈はそんな蒼真のTシャツを引っ張って、無理やりにまた座らせる。
「そういう訳にもいかないよ」
真面目な口調でそう言って、横に置いていた
出てきたのは、先日熱を出した弘祈のために蒼真が採ってきた薬草である。それを少し手元に残して持ってきていたのだ。
「ああ、そういえば薬草持ってたもんな」
「うん。これ貼っておいたらすぐに治るでしょ。ちょっと待ってて」
弘祈は、今度は蒼真を置いて湖の方へ向かう。
少しして戻ってきた弘祈の手には、湖水の入った小さな水筒があった。この水筒も鞄の中に入っていたものである。
「ちょっとしみるかも」
弘祈はそう前置きしてから、傷口を水で簡単に洗う。薬草を軽く揉んで貼ると、その上から丁寧に包帯を巻いてくれた。
手際のいい処置に、蒼真は呆けた様子でただ黙って見ていることしかできない。
「はい、おしまい」
処置が終わって、弘祈が残った薬草や包帯を鞄にしまい始める。
そこでようやく蒼真が静かに口を開いた。
「……あ、あの」
「何?」
手を止めた弘祈が蒼真の方に顔を向けて、首を傾げる。
蒼真はやや
「……えっと、その、ありがとう……」
出てきたのは、とてもぎこちないお礼の言葉である。あまり素直には聞こえないかもしれないが、きちんと気持ちは込められていた。
まさかお礼を言われるとは思ってもみなかったのか、弘祈が心底驚いたように目を見開く。
「べ、別に、さっき助けてもらった恩を返しただけだから」
それから焦った様子で顔を背けた。
そんな弘祈に、蒼真も何となくうつむいて頬を掻く。
(もうさっきの『パッヘルベルのカノン』で十分すぎるほどお礼はもらってるんだけどな。あれがなかったら、きっとあの魔物は倒せなかった)
左腕に巻かれた包帯を見つめながら、蒼真はそんなことを考えて心の中だけで小さく微笑んだ。