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第五話第一章 飛縁魔の好転反応①

「私は飛縁魔ひのえんまなんだと思います」

 彼女はそう言って、力無く笑う。

 それは今まで見せた事の無い弱々しい姿だった。

 まもってあげたい──そう思った。



「ハクシュッ…」

 くしゃみと共に鼻水が出た。仰向けなので鼻の周りにへばり付き、慌てて枕元のティッシュをまさぐる。空だ…ストックの箱ティッシュは部屋の隅に転がっている。

「あうう……」

 鼻水が垂れないように顎を上げたまま、布団の上を背中でずりずりと横移動して手を伸ばす。我ながら情けない姿だ。何とか新しいティッシュを出して鼻をかんでひと息つくが、毛布から上半身を出したせいで寒気に襲われて身震いする。

「寒……ハクシュッ!」

 十二月中旬の水曜日──オレは昨日から風邪をこじらせて発熱し、自身の経営する整骨院〈ぎゃらん堂〉も休ませてもらっていた。

 院自体の臨時休業も考えたが、受付のマヨねえと鍼灸師の菜倉なくら真見まみが二人でカバーすると言ってくれた。マヨ姉が予約の患者さん一人一人に連絡し、普段オレがマッサージ等の施術をしている人でも希望があれば真見が鍼やお灸で対応してくれるそうだ。という訳でオレは自宅アパートで、病院で処方してもらった薬をんで大人しく寝ているのである。

 二階建てアパートの一階の一室だが、ぎゃらん堂の最寄りのバス停までバスで十分、歩いても三十分で行ける場所なので開業時に引っ越してきた。独身なのでそこら辺のフットワークは軽い。しかし開業資金で貯金も無くなった為、築三十年のボロアパートしか借りられず、壁も薄くて防寒できていない。寒い。だからせっかく寝ていたのにくしゃみで起きたのだ。

 いや…夢の中で何か聴こえた様な気もするが……

 ふと布団の横の窓を見上げる。カーテンが僅かに開いていて、隙間から見える屋外は真っ暗だ。昼間買っておいたパンを食べて薬を服んでからずっと寝ていたが、もう夜になってしまったらしい。今は何時だろうか……そうやってぼんやりと暗闇を眺めていたら。


 髪の長い女の顔半分がぼうっと浮かんだ。


「ひいっ…」

 思わず息を呑む。

 俯いた顔は髪に隠れてその表情は分からない。白い着物らしき服装で、明らかにどこかの森の奥の井戸から這い出てきた様な人間離れした佇まいである。怖ろしい……いや、見覚えがある?…あ。

「真見クン…?」

 しかし次の瞬間、真見はフッと消えた。まだ熱が下がりきっていないので幻覚をたのか?

 コンコン。

 玄関のドアがノックされた。

「いるんでしょ、薫ちゃんセンセ。ちょっと開けて」

 マヨ姉の声だ。

「あ、今開けます…」

 ノロノロと布団から起き上がり、玄関の鍵を開ける。すぐに開いたドアからマヨ姉が顔を出した。

「ああゴメンね、寒いから布団に戻っていいよ。さっきから何度もノックしたんだけど返事無いからさ、生きてるのか心配になっちゃったわ。だから真見ちゃんに窓から覗いてもらったの」

 そう言っている背後から真見がゆらりと姿を見せる。幻覚では無かった…。

「ちゃんとご飯食べてないでしょ?温かいうどん作ってあげるから食べなさいよ。ちょっと台所借りるわね〜」

 ダウンジャケット姿でコンビニの袋を手に提げたマヨ姉は、こちらの返事も聞かずにズカズカと上がり込む。鼻歌混じりでお湯を沸かし、包丁をトントンと使い始めた。いや、気持ちはありがたいが……しかし何かを言う気力も無く布団に横になるオレの枕元に、真見が正座した。着物に見えたのは白いロングコートだ。二人共マスクをしている。オレの風邪が伝染うつったらそれこそぎゃらん堂は休業になってしまうので、そこは彼女達がちゃんとしていてくれて嬉しい。

 真見がマスク越しに言う。

「すみません、覗き見なんかしてしまって…」

「あ、いや、いいよ。わざわざ来てくれてありがとう……今日の営業は終わったの?」

「ハイ終わりました。

 顔色が悪いですね。まだ熱もあるんですか?」

「うん、まだ少し……」

 そう言ったオレのおでこに真見が右てのひらを当てる。ひんやりとした小さなだ。

「そうですね…ちょっと横向きに寝てもらえます?」

 素直に横を向き真見に背を向けると、彼女はオレの首筋を指で撫でながら言った。

烏頭うとう先生もご存知だと思いますが、この第七頚椎の真下の大椎だいつい経穴ツボが風邪にはよく効きます。マヨ姉さんがおうどんを作ってくれてる間にここ・・にお灸をしましょうか?」

 それはありがたい。オレが承諾すると、真見は持ってきたショルダーバッグから〈円筒灸えんとうきゅう〉を取り出す。乾燥させたヨモギの葉を綿状に丸めた〈もぐさ〉を、巻いた紙で包んだ灸だ。その円筒灸の底はシール状になっていて、真見はそれをオレの首の後ろに貼り付け、あらかじめ盛り上げさせておいた艾の頭頂部にこれも持参した点火棒・・・で火を付ける。正式名称をど忘れしたが、『ガッチャマン』みたいな名前のあれ・・だ。やがてじんわりと首筋が温かくなってくる。う〜んキモチいい……

「早く良くなってください。でも無理はしないでくださいね」

 その優しい声音に、思わず閉じていた目を開ける。

 横向きに寝るオレの顔を覗き込む真見は、長い髪を垂れ下がらない様に右手でかき上げていた。 

 珍しく白いおでこまでハッキリ見える。

 透明感のある綺麗な肌だ。

 普段の彼女は基本無表情で、無感動な物言いをするコだ。眼差しは眠たげだけれど圧は強く、説得力と謎の存在感に満ちている。しかしこうして見ると三十五歳のオレからすれば、やはり十も歳下の若々しい女性なのだ。オレは貴重なモノを見た気がして、何だかドキドキしていた……


「薫ちゃんセンセ、何かやつれてたね〜」

 あたしがそう話しかけると、真見ちゃんは頷いた。

 薫ちゃんセンセのアパートからの帰り道、歩道を照らす暗い街灯の下で冷たい風に髪をなびかせる彼女は普段より儚げで、幽霊感が増しているみたい。本人には言わないけど。

「明日もう一日ゆっくり休んでもらって、明後日あさっても来れても午後からの方がいいでしょうね。体力には自信がある方だとは思いますが…」

「ずっと野球やってたんだもんね。今日もホントなら中学の野球部のコが肘の治療の後、投げ方教わる約束だったそうよ」

「面倒見の良い方です。尊敬します」

 それはあたしも同意見だけど、真見ちゃんも大したものだと思う。あたしはただの受付で専門家ではないけれど、それでも彼女の東洋医学の知識と鍼灸師としての腕前はとてもキャリア三年とは思えない。まあちょっと怪しい知識も多過ぎるけど、患者さん達からの信頼は絶大だ。今やぎゃらん堂は薫ちゃんセンセと真見ちゃんの二枚看板目当てに、予約がひっきりなしに入ってくるのである。

(良いコンビよね、二人……)

 真見ちゃんが立ち止まった。歩行者用の信号が赤になっている。あたしも足を止めてその横顔を見つめる。

 今日もお見舞いに行こうと言い出したのは彼女の方だ。あたしの家はぎゃらん堂からも薫ちゃんセンセのアパートからもさほど遠くないけど、真見ちゃんは電車で一時間近く掛けてこの街に通っている。それでも夜の九時過ぎまで働いた後わざわざお見舞いに行こうというその心意気に打たれ、あたしは息子のヒロムを伯父おじさんに預かってもらって同行した。このまま薫ちゃんセンセを公私共に支えてくれたら……

 しかしずっと不思議に思っている事もあった。真見ちゃんはぎゃらん堂ウチに来る前、幾つもの整骨院や鍼灸院を渡り歩き、どこも短期間で馘首クビになってきたそうなのだ。こんなに優秀でいいコなのに何故…?薫ちゃんセンセもその理由を聞けていないらしい。気になる。今まで何となく訊きそびれていたのだが……

「…ねえ、真見ちゃん。ちょっと訊いていい?」

「……」

「…真見ちゃん?」

 真見ちゃんは前方を凝視したまま動かない。

 片側一車線の道路で、信号を渡った先にはマンションが建っている。十時を過ぎた今は帰宅して屋内で寛いでいる住民が多いのだろう、カーテンの閉まっていない部屋からは明かりも漏れているが、マンション周辺は車も人の通りも無くシンと静まり返っている。

 そう、誰もいない。

 何か動いているとか怪しい人影が見えるとか、そんな事も無い。

 でも前髪の隙間から見える真見ちゃんの目は、ジッと一点を見つめている。

 道路に面したマンション一階の一室を。

「ど、どうしたの?」

「………」

 あたしの質問にも応えず、見つめていた真見ちゃんの目が少し見開かれた。


 シュボッ。

 火の手が上がった。

 真見ちゃんが見ていた部屋から。



 シュボッ。

 火が点きました。

 私の希望の火です。

 貴方達には絶望の業火です。

 日本の大量殺人を犠牲者数の多い順にランキングすると、トップ10テンのうち七つが放火というデータがあります。だから私も火を選んだのです。私をないがしろにした貴方達を一人でも多く道連れにします。待っててください。

 でもいきなり焼き殺したんじゃつまらないですよね。ジワジワと迫ってくる恐怖にたっぷり怯えてもらってからにしましょう。

 ああ…もう消えます。

 待ってて…待っててください……



「不審火?」

 金曜日の午後三時──オレはこの日の午後診療のスタートに合わせて何とか仕事に復帰したのだが、そこでマヨ姉に聞かされたのは物騒な話だった。

「そうなのよ〜ビックリしちゃった!マンションの一階なんだけど、その部屋の窓の外が小さな芝生の庭になっててさ、そこが燃えてんの。でも鉄格子の柵があって近付けないし、エントランスもオートロック掛かってて入れない。部屋番号見てインターホン鳴らしたけど住人はまだ帰ってなくってね。お隣さんはいたから知らせたら、隣の庭からホースで水掛けて。その間に慌てて119番して……

 幸い消防車が来た時には火は消えてて、大事おおごとにはならなかったけどね。警察も来て、あたし達が事情聴取されてる間に住人のOLさんも帰ってきたんだけど、猫ちゃん飼ってるのにって取り乱してた。まあ、室内の猫ちゃんは全然無事だったけど…」

 聞けばオレのアパートからの帰り道での出来事だという。昨日もう一日休むと連絡した時にはそんな話はしていなかったが…。

「そんな事言ったら薫ちゃんセンセが余計な心配するじゃない。元気に復帰するまでは黙ってようって、真見ちゃんが」

 そう言ってマヨ姉が視線を送った先では、真見が黙々と鍼の準備をしている。気を遣ってくれたのはありがたいが、せっかく見舞いに来てくれた二人がそんな厄介な事に巻き込まれていたなんて申し訳なさ過ぎる。ひと言お詫びをと思っていたら、厄介な人が先に口を開いた。

「住人がいなかったのに火事になったのか。確かにそりゃ不審火だな…放火じゃねえのか?」

 ベッドにうつ伏せに寝たまま首だけ上げて会話に参加してくるのは、赤いダボシャツの五十男おっさん文太ぶんたさんである。今日も〆切をこなしてやってきたトラック野郎な漫画家は首も肩もガチガチで、これから真見の鍼を受けるのだ。

 マヨ姉が首を捻りながら応える。

「でも周りに怪しい人とかいなかったんだよね〜。カーテンも閉まってるし庭にも誰もいないし…そしたら急に炎が上がってさ」

「じゃあ煙草タバコのポイ捨てとかじゃねえの?いったん火が消えてても、後からまた燃える時あるからさ。通行人が捨ててった吸い殻が時間差で」

「うわ、だったら怖いわ〜。でもその庭、柵もあるし歩道から奥まったとこにあるから、わざわざ狙ってポイ捨てしないと届かないわよ」

 それこそ悪意のある放火ではないか。オレは思わず顔をしかめる。ただでさえ空気が乾燥しているこの季節、ちょっとした火種でも大火事になりかねない──

「可能性はありますが、たぶん違うと思います」

「へ?」

 不意に真見が会話に加わり、他三名が揃って間抜けな声を上げる。

「違うって…出火原因知ってるの?」

「知ってるというか……」

 ちょっと歯切れの悪い真見にマヨ姉が目を細める。

「真見ちゃん、火が出る前からあの部屋見てたよね?」

「ハイ…」

 何か言い辛そうにしている真見。何だ…?そこでオレはハッとする。

 あの日、真見は火を付ける道具を持っていたのだ。

 あの、ガッチャマン的な──

「まさか──」


「パイロキネシスじゃないだろな…?」


「は?パイロ…何?」

 割って入った文太さんの怪しいワードに思わず反応するオレ。真見が応える。

「一九六五年のブラジル・サンパウロ州、一九八三年のイタリア、一九八六年のウクライナ・ドネツィク州で、火の気の無い場所での火事が頻発したそうです。これらはそれぞれ特定の少年・少女がいた場所でのみ発生しており、彼らが自身の能力・・により無意識に発火させたものと考えられています。

 また一九八六年にはアメリカ・カリフォルニア州に住む少年が、見つめた物を何でも発火させて周囲から怖れられていると新聞報道されました。

 それらの事例を踏まえて、超常現象研究者のチャールズ・フォートが『火の触媒』ともいえる人間が存在すると主張したのです。意識的か無意識かは不明ですが、彼らは意思の力だけで物質を発火させる事が出来る超能力・・・─〈パイロキネシス〉を有しているのだと──」

「ちょっ…え?超能力?」

 また非常識な方向に進んでいる。真見と文太さんが揃うといつもこうだ……その非常識オタクなおっさんが話を継ぐ。

「一九八二年にはイタリアで一ヶ月弱のうちに三軒の家が続けて火事に見舞われたんだが、その三軒全てでベビーシッターとして勤めていた女性がパイロキネシスを使ったって疑われて、裁判で有罪判決を受けたそうだ。この中世の魔女狩りみてえな事件は新聞各紙で『魔女と呼ばれたベビーシッター』と書き立てられて、後に映画にもなったんだぜ。

 真見センセ、あんたもしかして……?」

 文太さんは低い声で眉をひそめるが、冗談にしても趣味が悪い。転んだフリをして後頭下筋群にエルボーを落としてやろうかと思っていたら、マヨ姉が少し固い声で言った。

「…そういえば真見ちゃん、一昨日帰る前にあの燃えた部屋のOLさんと何か話してなかった?あたし、ヒロムにこれから帰るって電話してたから会話の内容は分かんなかったけど、真見ちゃんと話した後のOLさん、何だか泣いてた様な……」

 まさか…そのOLと何かあったのか?

 本当に真見が……?

 漫画家オタクが「エスパー真見…」と呟く。

 その真見エスパーが淡々と言った。

「勿論、私に超能力はありません。

 消防の火災調査の結果が公表されてないので、憶測になるから言わなかったんですけど……あの時、私は窓の外のエアコンの室外機が気になって見ていたんです。何枚ものタオルが重なって、室外機のファンの部分を塞いでいました。洗濯物が落ちたのか、室外機の上に置いていたのが崩れたのか…それで思い出したんです。


 アロマオイルが染み込んだタオルや衣類から、自然に発火してしまう事があると──」


「アロマオイル?」

 それならオレも知っている。植物由来の天然香料や精油エッセンシャルオイル、合成香料から作られていて、香水や化粧品、食品等に添加して芳香かおりを楽しむ為のモノだ。成分を調整したアロマオイルは肌に塗布したりマッサージにも用いられ、美容と健康に効果があるとされている。ぎゃらん堂ウチではそんなオイルマッサージはやっていないが…。

「アロマオイルに含まれる不飽和脂肪酸は、空気中の酸素と触れて酸化すると発熱します。そのオイルは洗濯しても簡単には除去しきれません。ですからオイルマッサージに使ったタオルや衣類を洗濯後に乾燥機内に放置したり山積みにしたりすると、熱が外部に逃げにくく、発火するケースがあるんです。実際にアロマオイルを大量に使うエステサロンではそういう経緯で火災に遭う被害が多数出ていますし、個人の使用でも危険なのは同じです。

 私はそれを思い出して、もしやと思って見ていたんです。もしあれがアロマオイルを自然乾燥させようと外に干していたモノだったら──でも例えそうだったとしても、室外機が動いて加熱していなければ発熱はしません。

 しかしあのマンションの部屋は飼っている猫が寒くないよう、エアコンの暖房が一日中付けっ放しになっていましたからね。

 住人のOLさんに確認したらアロマオイル大好きだそうで」

「それで発火しちゃったの?」

「おそらく」

 真見の答にマヨ姉は腑に落ちた様だ。

「だからOLさん、あんなに動揺してたのね。自分が使ったオイルと暖房のせいで火事になったから……」

「ハイ。

 でもそれ以前にアロマオイルは猫には有害なんです。肉食動物の猫は体内に植物を消化分解する酵素を持っていませんから、植物由来のアロマオイルを誤って口にしたら中毒を起こします。そう伝えたら、猫ちゃんゴメンなさいって泣き出して……」

「あ、そっち?」

 流石真見と言うべきか、理路整然と語られた不審火の真相にオレとマヨ姉は納得した。

 文太さんは「そんな事だろうと思ったぜ」とか抜かしてるが、いや、超能力って言い出したのはあんただろ……


「それでは鍼を打っていきますね」

 消毒を済ませた文太さんの首筋に真見が鍼を打つ。

「とお」

「んっ…」

 文太さんが小さくうめいた。だいぶ凝って硬くなっているので、響いた・・・のだろう。

 と言っても注射針を刺した様な痛みがある訳ではない。鍼灸で使用する鍼は太さも形状も通常の注射針とは全く異なるモノで、注射針の太さが予防接種用で約〇・五ミリ、採血用のもので〇・七ミリなのに対し、鍼灸の鍼の太さは太くても〇・二五ミリである。形状も注射針は薬液や血液を注入する為に先端が尖っているが、鍼灸の鍼は皮膚や筋線維の間を通せるように丸みがあるのだ。皮膚に刺しても、ほとんど痛みを感じない。鍼灸の施術中に寝てしまう患者もいるくらいなのだから。

 ただ誰もが完全な無痛という訳ではない。鍼を打たれた箇所に「ズーン」という鈍い痛みが生じたり、「ツーン」と電気が流れる様に感じる場合もある。この独特な感覚を鍼灸の用語で〈響き〉や〈得気とくき〉と呼ぶが、この感覚が苦手な人もいれば、効いていると感じる人もいるだろう。

 このような響きを『打ってはいけない場所に打たれたのでは?』『神経を傷付けられたのでは?』と心配する人もいるかもしれない。しかしこれは決して身体に悪いモノではなく、身体の不調箇所に鍼が当たっている証拠なのだ。特に凝っている場所は硬くなった筋肉が痛みに関する神経を圧迫していて、そこに鍼を刺す事で筋肉が自らを守ろうと収縮し、「ズーン」「ツーン」と感じるという仕組みだ。鍼灸師の手技によって強く響かせたり、響かせなかったりと調整も出来るのだが……

「とお」

「おふっ…」

 右腕の甲側、小指側の手首から肘までを繋ぐ尺側手根伸筋しゃくそくしゅこんしんきんに鍼を打たれ、文太さんはさっきより強く反応した。彼の利き腕であり、漫画家として最も酷使している筋肉のひとつだ。真見の調整も及ばないほど凝り固まっているのだろう。

「大丈夫ですか?」

「いやあ、効くねえ…」

 苦笑いする文太さんに真見は鍼を打つ手を止めて、彼の枕元の床にひざまずいた。そっと文太さんの右手を両手で包む様に握る。

「え…?」

「これは裏技なんですけど、鍼の痛みを逃がしたい・・・・・と思ったら、ご自分の人差指の先をこの様に親指の爪に当ててください。それでギュッと押すと指先は敏感なので、結構痛いですよね?そうすると人間の体の不思議で、鍼の方の痛みは感じにくくなります」

「へ、へえ……」

「あれ、文太さん、何か照れてる?」

 マヨ姉がニヤニヤとツッコむ。オレは真見の細かい気配りに感心しつつ、先日のお見舞いの時の事を思い出していた。

 ひんやりとした小さなの感触を──

 そして文太さんの施術がひと通り終わった時の事だった。


「ちょっと、一体どういう事?」


 不意に待合室の方から大声がした。見れば受付カウンターの前に、体格のいい白髪の高齢女性が仁王立ちしている。

「えっ、どうしたの、紅林くればやしさん?」

 慌ててマヨ姉が駆け寄った。週一で通っている常連の紅林さんだ。慢性の腰痛があり、いつもならオレがマッサージと骨格調整を行なっているのだが──

「どうしたもこうしたも、一昨日鍼やってもらったでしょ?そしたらその夜から体中ダルくなっちゃって、何だか熱っぽくて昨日もずっと動けなかったのよ!昨日なんかフラダンスのレッスンもあったのに行けなかったんだからっ…どうしてくれるの?」

 フラダンス用なのか花柄のワンピースを着た紅林さんは、真見を睨み付けている。

 風邪で休んだオレの代わりに真見が鍼を打ってくれたのだが、その結果起きた事なのだろう。オレは間に入ろうとしたが、それより早く──

 真見は体を折り、頭を深々と下げた。

 ポニーテールにしている後ろ髪が床に着くほどに。

「申し訳ありません。

 私が未熟でした。ゴメンなさい」

 そう言ったきり真見は頭を下げ続ける。

 誰もが言葉を失う謝りっぷりだった。

 院内にはしばらく沈黙が流れ、真見の真摯な姿に紅林さんも勢いをそがれたのか、「いや、まあ…」と口ごもる。

 オレは静かに尋ねた。

「今日もダルさは残ってますか?」

「え?いや、今日はもう平気だけどさ…」

「そうですか…じゃあ好転反応・・・・だったんですね」

「好転反応?」

 鍼灸だけでなくマッサージや整体でも、施術後にダルさや発熱等の身体の不調に似た症状が生じる事がある。それが〈好転反応〉だ。術後に不調が出ると不安を感じてしまうかもしれないが、好転反応は施術により体調が改善に向かっている証拠だ。施術の成果で血行促進や自律神経の安定等の様々な変化が起きる為、その急激な変化に身体が対応しきれずに不調を起こすのである。その症状はダルさや発熱の他、腹痛や吹き出物、下痢等と多岐に渡るが、副作用とは違いあくまで一過性の反応なので、時間の経過と共に自然と薄らいでいく。

 そんな好転反応は誰にでも起こるモノではなく、人によっては軽いマッサージでもダルくなるし、平気な人は強い施術をしても何も起きない。普段無反応な患者でも体調が悪い時には反応が出てしまう事もあるし、施術との相性によっても変わるケースバイケースだ。だが基本的に鍼は整体よりも好転反応が出やすいとされている。ましてや紅林さんは初めて鍼を打ったのだ。

「いつものマッサージなら体も慣れてたんでしょうけど…すいません、オレが風邪なんて引いたのが悪いんスよね。一昨日の治療代はお返しします」

「いや、そこまでして貰わなくてもいいけどさ…」

「いえ──」

 好転反応の話を聞いた紅林さんの態度はだいぶ軟化していたが、顔を上げた真見は真剣な目で紅林さんを真っすぐ見つめる。

「もしかしたらダルくなったりするかもって、お伝えしてなかった私のミスです。その場合は水分をったり頭を氷で冷やしたり、対処法もあるんです。それをお伝えしなかったばかりに大事なフラダンスが……本当に申し訳ありません」

 そして再び頭を下げた真見を見る紅林さんの目には、当初の刺々しさはもう残っていなかった。

「…まあ、そこまで言ってくれるなら、ねえ……

 フラダンスのレッスンは今日もあるしさ」

「あるのかよ」

 まだ施術室にいた文太さんが小声でボソッと呟く。余計な事を言うな、おっさん。

 とりあえず落ち着いたのか、紅林さんは「じゃあまた」と言って帰っていった。それを見送ったマヨ姉がすぐさま真見に駆け寄って、細い肩を抱く。

「大丈夫?」

「ハイ…すみませんでした」

「そんな謝る様な事じゃないわよ。ねえ?」

 マヨ姉の振りにオレも頷く。真見は鍼灸師として誠実な仕事をしている。文太さんの響きへの対処も細やかだったし、好転反応に関しては予測が出来ない上にオレにも責任がある…そう思って声を掛けようとしたが、こちらを見上げる真見の目にハッとした。


 潤んだ瞳がゆらゆらと妖しく煌めいていた。



 シュボッ。

 また火が点きました。

 嫌な事があっても、火を見ると落ち着くんです。

 どうして貴方達は、私に辛く当たるのでしょう?

 私は精一杯生きているのです。人の為になる仕事をしたい──そう思って頑張っているんです。なのに大して人の役にも立ってない貴方達が、何故私を見下せるのですか。何もやり返せないと思っているからですか?馬鹿にしないでください。

 落ち着くとは言っても、私は火に興奮する放火癖がある訳ではないです。有名になりたい一心でアルテミス神殿に火を付けた古代ギリシャのヘロストラトスの様に、肥大化した承認欲求の囚人でもありません。

 火は処刑道具なのです。

 貴方達を殺し、私を裁くギロチンなのです。

 さあ待っててください……



「お待たせ〜♪」

 目の前で何だかフワフワした格好の女の子が、革ジャンを着た金髪の男に駆け寄った。ニコニコと話しかける女の子のほっぺたを指で突付く金髪男。

「遅刻〜ペナルティにナニしてもらおっかな〜ん」

「いや〜ん」

「アハハハ…」

(う〜ん…)

 思わず苦笑いするオレ。

 目の遣り場に困って辺りを見回すと、クリスマスソングが流れる繁華街はどこも似た様な光景で、キラキラと着飾ったカップルが行き来していた。

(縁が無い世界だなあ……)

「お待たせしました」

 オレが振り向くと、白いワンピースとロングコート姿の真見が立っていた。いつもと変わらない服装ではあるが、昼間の陽光ひかりの下で見るとちょっと眩しい。

 真見の方もオレをジッと見ている。グレーのツイードジャケットは、オレの唯一の一張羅いっちょうらである。

「あ…変かな?」

「いいえ。お似合いです」

「ちょっと古臭いでしょ?爺ちゃんの形見でさ」

「道理でクラシカルで品があると思いました」

 普通のカップルならここで会話が途切れるかもしれない。しかし相手は真見だ。

「ツイードは紡毛糸ぼうもうしと呼ばれる太くて短い羊毛を使い、主にイギリス、スコットランドやアイルランド地方で十八世紀ごろから伝統的に作られてきた毛織物です。防寒に優れ、たっぷりと油分が含まれている為雨風にも強い生地なので、当時は主に作業着として重宝されていました。それが一九三〇年代頃からメンズファッションの素材として用いられるようになったそうです。その丈夫さからツイードは一生物と言われるほど長く着る事が出来ますが、着れば着るほど風合いも良くなって味わいが出ますよね。

 そのヘリンボーン柄も定番ですが、シックかつ間違いないオーセンティック。〈ヘリンボーン〉とは直訳すると『ニシンの骨』という意味ですが、山形と逆山形が交互に入り混じった模様で、〈杉綾すぎあや〉とも呼ばれます。光の反射で上品な光沢感と高級感が出るのが特徴で──」

 こうして見ると普段と変わらない。

 しかし内心はやはり動揺しているのではないか?何せあんな事・・・・があったのだ。


 金曜日の夕方──あの好転反応騒ぎの後だ。

 フラダンス教室の裏に停めていた紅林さんの自転車が、レッスン中に全焼した。

 全く火の気の無い場所で、放火と見られている。


 昨日の土曜日の朝その話を聞いて、オレだけではなく真見も言葉を失っていた。真見の周辺で不審火が続いたのだ。文太さんがいたらまたエスパー真見とか騒いだだろう。その後口数少なく黙々と働いていた真見が席を外した時、マヨ姉が真面目な顔でオレに言った。

『真見ちゃん、何かモヤモヤしてんじゃないの?ちょっと気分転換させてあげてよ。

 日曜日、予約入ってないから休みにしていいんでしょ?クリスマスウィークに院内飾り付けるモールとか欲しいからさ、二人で買い出しに行ってきて。お洒落してさ、デートデート♪』

 最後はニヤニヤしていたが、確かに真見は好転反応の件以来少し元気が無い気もする。紅林さんの自転車が燃えたのは関係ないとは思うが、こう変な事が続くと嫌な気分にはなるだろう。お見舞いのお礼もしていない。

 だから誘ってみたら、彼女は『お供します』と頷いてくれた。


 そういう訳でオレ達は都心のターミナル駅で待ち合わせたのだ。大きな雑貨屋があってクリスマスの飾りも揃うし、まあ夕飯を食べて帰るのにちょっと小洒落た店もあるだろう。そんな店よく知らないけど。

「じゃあとりあえず行こうか」

「ハイ」

 二人きりで出掛けるなんて勿論初めてだ。手を繋いだり腕を組んだりしているカップルに混じり、並んでぎこちなく歩く。チラチラと真見の横顔を見ていたら、唇がいつもよりほんのりピンクがかっているのに気が付いた。仕事中には口紅なんて付けていなかったよな……

 そこで思い当たる。こういう時、まずはお茶でもするべきだったか?うーん…分からん。オレが悶々と悩んでいた時だった。

「あれ、菜倉さん?」

 不意に声が掛かり、ハッと前を見る。

 歩道の脇で背の高い男性がこちらを指差して立ち止まっていた。四十代位だと思われるが、パーマの掛かった茶髪と日に焼けた肌は若々しく、体型もスマートでラフなジーンズとジャケットの着こなしが爽やかだ。顔付きもシュッとしていていわゆるイケメンだが、柔和に微笑んでいて嫌なカンジはしない。

 真見が会釈する。

「お久し振りです、真田先生」

「春に鍼灸院辞めて以来だよね。こんな所で会うなんて奇遇だな。元気にしてたかい?」

「ハイ、お陰様で…」

「仕事の方は?」

「今はこちらの先生の整骨院でお世話になってます」

「え?こちらのって…院長さんですか?」

 その真見の同業者と思われる真田は、ちょっと目を丸くしてオレを見た。明らかに『まだ若いのに』という顔をしているが、こういう反応には慣れている。

「烏頭と言います。今年自分の整骨院を開業したばかりでして…小さなとこなので、真見クンと二人だけでやってるんですよ」

「ああ、なるほど…」

 合点がいったかの様に頷く真田。

「そうか…いや実は僕も来年早々に自分の鍼灸院を開業するんですよ。菜倉さんは優秀だから、もし今フリーならと思ったんだけど…そっかあ……」

 真見が優秀なのには激しく同意である。冗談めかして笑っているが、彼は結構本心から残念がっているのではないだろうか。

「すみません」

 真見がペコリと頭を下げるが、真田はニッコリ笑って手を振る。

「いやいや、菜倉さんが落ち着いて働ける場所が見付かったなら良かったよ。苦労してたからね…ああ、いや」

─ん?

 引っ掛かる物言いだ。もしかして彼は、幾つもの鍼灸院や整骨院を短期間で転々としていた真見の事情を知っているのか…?オレは横をチラリと見るが、彼女は相変わらず無表情だ。

 そのまま真田とは別れたが、気になって尋ねる。

「えっと、話の流れだと、真見クンがウチに来る直前まで勤めてた鍼灸院の先生かな?」

「ハイ。そこは結構大きな院でしたので、同僚の先生は真田先生を含めて五人いました。そのうち女性は私ともう一人、ベテランの方でしたけど…」

「そっかあ……」

 オレが言葉に詰まっていると、真見が不意に振り向いた。

 長髪が靡き、昏い憂いをたたえた目がオレを捉える。

「すみません、気になってますよね?そろそろちゃんとお話ししておいた方が良さそうです。


 私は前の鍼灸院を、院長にストーキングされて辞めました。

 それまで勤めた所でも同僚から付きまとわれたり、交際を申し込まれて断ると嫌がらせをされたり、どこでも同じ様な目に遭ってきたんです。


 私は飛縁魔なんだと思います」


 彼女はそう言って、力無く笑う。

 それは今まで見せた事の無い弱々しい姿だった。

 護ってあげたい──そう思った。

 しかし勿論、同時に悩む。

「えっと…ひのえんまって何?」

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