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第五話 飛縁魔の好転反応 プロローグ

「ハクシュッ…」

 くしゃみと共に鼻水が出た。仰向けなので鼻の周りにへばり付き、慌てて枕元のティッシュをまさぐる。空だ…ストックの箱ティッシュは部屋の隅に転がっている。

「あうう……」

 鼻水が垂れないように顎を上げたまま、布団の上を背中でずりずりと横移動して手を伸ばす。我ながら情けない姿だ。何とか新しいティッシュを出して鼻をかんでひと息つくが、毛布から上半身を出したせいで寒気に襲われて身震いする。

「寒……ハクシュッ!」

 十二月中旬の水曜日──オレは昨日から風邪をこじらせて発熱し、自身の経営する整骨院〈ぎゃらん堂〉も休ませてもらっていた。

 院自体の臨時休業も考えたが、受付のマヨねえと鍼灸師の菜倉なくら真見まみが二人でカバーすると言ってくれた。マヨ姉が予約の患者さん一人一人に連絡し、普段オレがマッサージ等の施術をしている人でも希望があれば真見が鍼やお灸で対応してくれるそうだ。という訳でオレは自宅アパートで、病院で処方してもらった薬をんで大人しく寝ているのである。

 二階建てアパートの一階の一室だが、ぎゃらん堂の最寄りのバス停までバスで十分、歩いても三十分で行ける場所なので開業時に引っ越してきた。独身なのでそこら辺のフットワークは軽い。しかし開業資金で貯金も無くなった為、築三十年のボロアパートしか借りられず、壁も薄くて防寒できていない。寒い。だからせっかく寝ていたのにくしゃみで起きたのだ。

 いや…夢の中で何か聴こえた様な気もするが……

 ふと布団の横の窓を見上げる。カーテンが僅かに開いていて、隙間から見える屋外は真っ暗だ。昼間買っておいたパンを食べて薬を服んでからずっと寝ていたが、もう夜になってしまったらしい。今は何時だろうか……そうやってぼんやりと暗闇を眺めていたら。


 髪の長い女の顔半分がぼうっと浮かんだ。


「ひいっ…」

 思わず息を呑む。

 俯いた顔は髪に隠れてその表情は分からない。白い着物らしき服装で、明らかにどこかの森の奥の井戸から這い出てきた様な人間離れした佇まいである。怖ろしい……いや、見覚えがある?…あ。

「真見クン…?」

 しかし次の瞬間、真見はフッと消えた。まだ熱が下がりきっていないので幻覚をたのか?

 コンコン。

 玄関のドアがノックされた。

「いるんでしょ、薫ちゃんセンセ。ちょっと開けて」

 マヨ姉の声だ。

「あ、今開けます…」

 ノロノロと布団から起き上がり、玄関の鍵を開ける。すぐに開いたドアからマヨ姉が顔を出した。

「ああゴメンね、寒いから布団に戻っていいよ。さっきから何度もノックしたんだけど返事無いからさ、生きてるのか心配になっちゃったわ。だから真見ちゃんに窓から覗いてもらったの」

 そう言っている背後から真見がゆらりと姿を見せる。幻覚では無かった…。

「ちゃんとご飯食べてないでしょ?温かいうどん作ってあげるから食べなさいよ。ちょっと台所借りるわね〜」

 ダウンジャケット姿でコンビニの袋を手に提げたマヨ姉は、こちらの返事も聞かずにズカズカと上がり込む。鼻歌混じりでお湯を沸かし、包丁をトントンと使い始めた。いや、気持ちはありがたいが……しかし何かを言う気力も無く布団に横になるオレの枕元に、真見が正座した。着物に見えたのは白いロングコートだ。二人共マスクをしている。オレの風邪が伝染うつったらそれこそぎゃらん堂は休業になってしまうので、そこは彼女達がちゃんとしていてくれて嬉しい。

 真見がマスク越しに言う。

「すみません、覗き見なんかしてしまって…」

「あ、いや、いいよ。わざわざ来てくれてありがとう……今日の営業は終わったの?」

「ハイ終わりました。

 顔色が悪いですね。まだ熱もあるんですか?」

「うん、まだ少し……」

 そう言ったオレのおでこに真見が右てのひらを当てる。ひんやりとした小さなだ。

「そうですね…ちょっと横向きに寝てもらえます?」

 素直に横を向き真見に背を向けると、彼女はオレの首筋を指で撫でながら言った。

烏頭うとう先生もご存知だと思いますが、この第七頚椎の真下の大椎だいつい経穴ツボが風邪にはよく効きます。マヨ姉さんがおうどんを作ってくれてる間にここ・・にお灸をしましょうか?」

 それはありがたい。オレが承諾すると、真見は持ってきたショルダーバッグから〈円筒灸えんとうきゅう〉を取り出す。乾燥させたヨモギの葉を綿状に丸めた〈もぐさ〉を、巻いた紙で包んだ灸だ。その円筒灸の底はシール状になっていて、真見はそれをオレの首の後ろに貼り付け、あらかじめ盛り上げさせておいた艾の頭頂部にこれも持参した点火棒・・・で火を付ける。正式名称をど忘れしたが、『ガッチャマン』みたいな名前のあれ・・だ。やがてじんわりと首筋が温かくなってくる。う〜んキモチいい……

「早く良くなってください。でも無理はしないでくださいね」

 その優しい声音に、思わず閉じていた目を開ける。

 横向きに寝るオレの顔を覗き込む真見は、長い髪を垂れ下がらない様に右手でかき上げていた。 

 珍しく白いおでこまでハッキリ見える。

 透明感のある綺麗な肌だ。

 普段の彼女は基本無表情で、無感動な物言いをするコだ。眼差しは眠たげだけれど圧は強く、説得力と謎の存在感に満ちている。しかしこうして見ると三十五歳のオレからすれば、やはり十も歳下の若々しい女性なのだ。オレは貴重なモノを見た気がして、何だかドキドキしていた……


「薫ちゃんセンセ、何かやつれてたね〜」

 あたしがそう話しかけると、真見ちゃんは頷いた。

 薫ちゃんセンセのアパートからの帰り道、歩道を照らす暗い街灯の下で冷たい風に髪をなびかせる彼女は普段より儚げで、幽霊感が増しているみたい。本人には言わないけど。

「明日もう一日ゆっくり休んでもらって、明後日あさっても来れても午後からの方がいいでしょうね。体力には自信がある方だとは思いますが…」

「ずっと野球やってたんだもんね。今日もホントなら中学の野球部のコが肘の治療の後、投げ方教わる約束だったそうよ」

「面倒見の良い方です。尊敬します」

 それはあたしも同意見だけど、真見ちゃんも大したものだと思う。あたしはただの受付で専門家ではないけれど、それでも彼女の東洋医学の知識と鍼灸師としての腕前はとてもキャリア三年とは思えない。まあちょっと怪しい知識も多過ぎるけど、患者さん達からの信頼は絶大だ。今やぎゃらん堂は薫ちゃんセンセと真見ちゃんの二枚看板目当てに、予約がひっきりなしに入ってくるのである。

(良いコンビよね、二人……)

 真見ちゃんが立ち止まった。歩行者用の信号が赤になっている。あたしも足を止めてその横顔を見つめる。

 今日もお見舞いに行こうと言い出したのは彼女の方だ。あたしの家はぎゃらん堂からも薫ちゃんセンセのアパートからもさほど遠くないけど、真見ちゃんは電車で一時間近く掛けてこの街に通っている。それでも夜の九時過ぎまで働いた後わざわざお見舞いに行こうというその心意気に打たれ、あたしは息子のヒロムを伯父おじさんに預かってもらって同行した。このまま薫ちゃんセンセを公私共に支えてくれたら……

 しかしずっと不思議に思っている事もあった。真見ちゃんはぎゃらん堂ウチに来る前、幾つもの整骨院や鍼灸院を渡り歩き、どこも短期間で馘首クビになってきたそうなのだ。こんなに優秀でいいコなのに何故…?薫ちゃんセンセもその理由を聞けていないらしい。気になる。今まで何となく訊きそびれていたのだが……

「…ねえ、真見ちゃん。ちょっと訊いていい?」

「……」

「…真見ちゃん?」

 真見ちゃんは前方を凝視したまま動かない。

 片側一車線の道路で、信号を渡った先にはマンションが建っている。十時を過ぎた今は帰宅して屋内で寛いでいる住民が多いのだろう、カーテンの閉まっていない部屋からは明かりも漏れているが、マンション周辺は車も人の通りも無くシンと静まり返っている。

 そう、誰もいない。

 何か動いているとか怪しい人影が見えるとか、そんな事も無い。

 でも前髪の隙間から見える真見ちゃんの目は、ジッと一点を見つめている。

 道路に面したマンション一階の一室を。

「ど、どうしたの?」

「………」

 あたしの質問にも応えず、見つめていた真見ちゃんの目が少し見開かれた。


 シュボッ。

 火の手が上がった。

 真見ちゃんが見ていた部屋から。



 シュボッ。

 火が点きました。

 私の希望の火です。

 貴方達には絶望の業火です。

 日本の大量殺人を犠牲者数の多い順にランキングすると、トップ10テンのうち七つが放火というデータがあります。だから私も火を選んだのです。私をないがしろにした貴方達を一人でも多く道連れにします。待っててください。

 でもいきなり焼き殺したんじゃつまらないですよね。ジワジワと迫ってくる恐怖にたっぷり怯えてもらってからにしましょう。

 ああ…もう消えます。

 待ってて…待っててください……

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