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第四話  オノマトペの経外奇穴

「最近、オノマトペに追っかけられててさあ…」

「は?」


 思わず施術中の手が止まる。

 オノマトペ…?聞いた事が無い。

 外国の犬種か何かだろうか?いや、そんな犬に追いかけられたみたいな普通の話ではないはずだ。何せ発言主が普通ではない。返事に詰まるオレを、ベッドに仰向けに寝た赤いダボシャツ姿の五十男おっさん文太ぶんたさんが見上げる。

「おっ、オノマトペ分かんない?」

「はあ…追っかけてくるって事は動物スか?それとも人間…」

「うん、動物でもあるし人間でもあるね」

「え?」

「というか、なんでもある・・・・・・

「へ?」

 ちょっと何言ってるか分からない。

 また何か変な妖怪とかの話なのか?ヒトかケモノかよく分からない、なんでもありなバケモノが猛スピードで迫ってくるイメージが浮かび、オレはよほど嫌そうな顔をしていたのだろう、文太さんがニヤニヤしながら言った。

「変なヤツ想像してるだろセンセ。どんな姿〜?」

「いや具体的には…すっごいモヤモヤしてますけど……」

「そう、それがオノマトペ!」

「ハイ〜?」

 オレが経営する整骨院〈ぎゃらん堂〉に、週に二回通ってくれるありがたい常連さんではある。しかしいつもながらこの人の言う事は意味不明で、若干腹が立つ。だから鎖骨の下の大胸筋の端を左右いっぺんに押してやった。

「ぐげっ…ぎゃあっ…」

 呻く文太さん。ここはデスクワークからくる肩凝りに効く部位なので、トラック野郎な見た目の漫画家・・・には効果的なのだ。内心ほくそ笑んでいたら、彼は凝ってはいたが懲りてはいなかった。

「くうっ、ジンジンする……これもオノマトペだぜ…」

 もっと痛くしてやろうか……


「『クラムボンはかぷかぷわらったよ』──ですね」

「ふぁっ?」

 今度は隣のベッドで鍼の準備をしていた菜倉なくら真見まみがボソッと呟き、またオレの仕事が中断される。

 真見は細身の体をオレと同じ医療用ユニフォームの白いケーシーに包み、長髪をポニーテールにしている。ぎゃらん堂ウチで働く鍼灸師なので、オレも柔道整復師として専門分野なら話が合う。しかし彼女は文太さんに負けず劣らず怪しい知識が豊富過ぎて……クラムボン?また妖怪か?いや…この夏、真見オリジナルの怪談を散々聞かされたのを思い出す。こっちは幽霊のたぐいかも──

 文太さんが嬉しそうに返す。

「おっ、宮沢賢治の『やまなし』か♪

 しかし笑い声を『かぷかぷ』ってのは凄いセンスだよなあ」

「賢治が作中で明言していないのでクラムボンの正体には諸説ありますが、蟹が吐き出す泡だというのが有力ですからね。泡が水面に『ぷかぷか』と上がっていくのを、水底の蟹の子供が下から見てる・・・・・・って事でしょう」

「あっ、なるほど!え、その解釈初めて聞いたっ…」

「まあ私の想像なので」

「流石真見センセ!

 薫ちゃんセンセも見習わなきゃ──」

 何をどう見習えと?

 というか完全にオレの呼び名が『薫ちゃんセンセ』になっている。確かにオレの名前は烏頭うとうかおるで、刑事ドラマ『相棒』に出てくる肉体派の熱血漢・亀山薫─薫ちゃんと共通点が多い体育会系だが……

「『かぷかぷ』もだけど、『どっどど どどうど どどうど どどう』とか『ギーギーフーギーギーフー』くらいは知っとかないと──」

「〈オノマトペ〉は変な妖怪やお化けの名前ではありませんよ」

 頭に『ハテナ』マークと『怒りプンスカ』マークを浮かべたオレを見かねたのだろう、何を口走ってるか分からない文太さんを真見が遮ってくれた。

「オノマトペとは物が発する音を字句で模倣する〈擬音語〉と、音が発生しない物の状態や感情等を字句で模倣する〈擬態語〉の総称です。

 例えばこれはどんな音ですか?」

 真見は両手を軽く二度叩く。

「パン、パン…?」

「そう、それが擬音のオノマトペです」

─あ、そういう事か。

「では烏頭先生が文太さんに今抱いている感情は?」

「…イライラ、ムカムカ、ムシャクシャ…」

「そちらが擬態のオノマトペですね」

「おっ三段活用か?上手い上手い♪」

 オレの怒りのオノマトペ攻撃を笑って受け流す文太さん。凝り具合のチェックをしていた首を絞めたくなるのを何とか我慢する。

「そりゃ文太さんは物書きだから色々詳しいでしょうけど、普通の人はオノマトペとか知らないスよ」

「真見センセ知ってたじゃん」

 真見は…普通ではない。

「すみません先生、宮沢賢治は独創的なオノマトペを使う作家として有名ですからね。例に出すにはややこしかったかもしれません」

 普通ではないがいいコだ。

 オレがホッとしていたら、受付カウンターで仕事をしていたピンクのケーシーのマヨねえが会話に加わってきた。

「『やまなし』なら六年生の国語の教科書に載ってるわ。ヒロムも見せてもらって『かぷかぷ』っての面白がってたから、小二でも知ってんのよ、オノマトペ。『ぷかぷか』の逆さまなんだよって教えてあげよ〜っと♪」

「あくまで私論ですよ」  

「真見ちゃんの言う事なら信じるわよ!」

 オレの言う事なら信じないのだろう…そもそも『薫ちゃんセンセ』の名付け親がそのマヨ姉の息子だが、彼の大好きなドラマの薫ちゃんも劇中で島根県の県庁所在地を間違える脳筋男だった。そこら辺も似ていると思われているのか──

 ねて上を見上げる。

 いつまでも暑い暑いと思っていた夏がようやく終わったと思ったら、気付けば十一月も半ばを過ぎ、先日木枯らし一号が吹いた。秋はあっという間に去ってしまったようだ。今日は一段と肌寒く、院内は暖房を入れている。暖かい空気が漂う白い天井には、一体化したダウンライトがピカピカと光っていて…あ、これもオノマトペか。


「じゃあこちらへどうぞ」

 真見の言葉に我に返る。

 見れば文太さんが真見に促されて、隣のベッドに移動している。

 今日の彼はオレのマッサージの後、真見の鍼治療を受ける事になっていた。我がぎゃらん堂のいわばフルコースの施術である。

 漫画家が全て同じペースではないそうだが、文太さんの場合、平日は毎日十六時間以上座りっ放しで原稿を描いていて、今日─金曜日が毎週の〆切だそうだ。それをこなしたばかりの夕方に通院してきた彼は、姿勢の偏りで骨格を歪ませ、血流が悪くなり、首肩や腰、股関節等の筋肉も凝り固まって、過労、寝不足、顔に似合わない頭脳労働によるストレスで自律神経も相当乱れている。さっきも軽口を叩いてはいたが、顔色は悪くいつもより元気が無かった。

 オレも彼には柔道整復師として出来る限りの施術を続けてきたが、筋肉をほぐすマッサージにせよ歪みを整える骨格矯正にせよ、あくまで体の表面から施す手技だ。今日の様な重症時だとなかなか全ての症状は改善しきれない。

 その点、鍼なら指では届かない深部の筋肉─深層筋にも直接刺激を与えられるし、あえて体に傷を付ける事で人間の自然治癒力と免疫力を活性化できる。

 鍼灸の治療はほぼ全身に効くのだが、特に効果があるとされるポイントが〈経穴〉─ツボだ。オレはそちらの専門ではないが、人体には〈経絡けいらく〉と呼ばれる気や血流の通り道がある。鍼灸院などで全身に線が描かれた人体模型を見た事はないだろうか?経は縦の流れ、絡は横の流れを表し、そんな全身に縦横に張り巡らされた経絡ルートによって体の隅々まで気や血が送られる事で、我々の生命活動が維持されている──それが東洋医学の考え方である。その経絡のうち縦の流れ─〈経脈けいみゃく〉上にあり、気や血の出入り口・・・・とされているのが経穴ツボなのだ。

 例えるなら、経絡を人体を網羅して気血を運ぶ高速道路だとしたら、経穴ツボはそこにアクセスする為のインターチェンジだろうか。

 そんな全身に三百六十一ヶ所あるという経穴ツボの中には、自律神経を整えるモノも多い。本来自律神経は活動中は交感神経、休息中は副交感神経が優位に働くのだが、それが乱れると動きたい時に動けず休みたい時に休めない。文太さんも〆切前だとほぼ徹夜で作業をして一時間仮眠が取れるかどうからしいが、それも仕事の緊張感で交感神経がたかぶっていると寝付けないだろう。短時間でも熟睡できればだいぶ楽になるのだが…。

 そもそも季節の変わり目には気温差で自律神経が不安定になる。このまま寒くなってくると血行も更に悪くなり、不眠以外にも動悸や異常発汗、頭痛、内臓の不調、息切れ、全身倦怠感等の様々な自律神経失調症の症状が現れてきてしまうだろう。だからこそ今日の文太さんには鍼治療も是非受けて欲しかったのだ。

 ベッドの周囲を仕切るカーテンが閉じられ、真見が文太さんにダボシャツを脱ぐよう指示をしている。

「ではうつ伏せで寝てください。

 まず消毒していきます……」

 消毒液を染み込ませた脱脂綿で首や背中を拭いているのだろう彼女が、ボソリと呟いた。


「…で、オノマトペに追いかけられているとはどういう事ですか?」


 そうだった。そういう話だった。

 文太さんの返事が聴こえる。

「前にも言ったかな?俺ぁストーリーやアイディアに行き詰まると、夜中でも気晴らしに散歩に出るんだ。それも繁華街みたいに人が多いと気が散るから、表通りから外れた住宅街とか、ここの整骨院の前流れてる川沿いの遊歩道とかな、そういう誰もいない寂しいとこを歩く。当然辺りに響くのは俺の足音だけさ。

 街灯が照らす隙間のそらにさ、コツ…コツ…コツ…って足音が吸い込まれていくの。それで頭の中の余計なモンも一緒に消えていって、その空いた所にいい思い付きがスゥッて入ってきてくれるカンジなんだよ。分かる?」

「〈サイレント・ウォーキング〉というやつですね。

 そもそもウォーキング自体、心肺機能の強化や血流促進、身体的持久力のアップ等の効果がありますが、そのウォーキング中にイヤホンで音楽を聴いたりして自分の世界に没入している人が多い。しかし近年の研究では、『静寂サイレント』は新たな脳細胞の生成を早める触媒の作用を持つ可能性があるそうです。暗闇の中で自身の足音だけを聴きながらする散歩は、知的労働の為の脳の活性化には良いと思われます」

「ところがさ……そんな静かな夜道を歩いてると、後ろから聴こえてくるんだよ。絶対普通じゃない音が」

「普通じゃない音?」

「それで何だろうと思って振り向いても、何もいない。気のせいかと思って前を向くと、また聴こえてくる」

「何かの足音ですか?」

「うん…足音にしちゃ変な音なんだけど……」

「べとべと?」

「ああ、イメージ近い!」

「ぽぽぽ」

「そんな上から聴こえるカンジじゃねえな」

「テケテケ」

「そんなに速くない」

 つい聞き耳を立てていたオレとマヨ姉は顔を見合わせる。さっきから何を言ってるんだ、この二人は?

「とお」

 また変なオノマトペを口にした訳ではない。真見の施術が始まったのだ。彼女は鍼を打つ時、掛け声を出す癖がある。

「妖怪にはそれが発する音声だけが認識されて、実体不明なモノも多いですよね。照明が発達していない時代では、夜のとばりの向こうから聴こえてくる未知の音は絶対的な不安であり恐怖でした。そんな時、人はとりあえずその不安と恐怖に形と名前を与える事でやり過ごそうとします。

 とお。

〈べとべとさん〉は水木しげる先生が描かれた丸い頭部に足が生え、口を大きく開けて笑う愛嬌のある姿が有名ですが、実際は後ろから付いてくる『べとべと』という足音だけが聴こえる妖怪です。

小豆あずき洗い〉は川で『ショキショキ』と小豆を洗う様な音がするだけ。

ぬえ〉だってスズメ科ヒタキ目の鳥トラツグミが、夜に口笛に似た『ヒョウヒョウ』という声で鳴くのが不気味なだけです。

 そんなそれぞれの音や声から想像を膨らませて、人間側が勝手に化け物としての姿形を与えたんです。

〈子泣きじじい〉なんて、山中で獣と間違われて撃たれないようにわざと『えーんえーん』と赤ん坊の様な声を出して、仲間に合図していた猟師ですからね。

 とお」

「流石真見センセ、よく知ってるな。

 そういう意味じゃ『ぽぽぽ』って不気味な笑い声を上げながら襲ってくる大女の〈八尺様〉や、事故で下半身失くした女子高生が肘で『テケテケ』這ってくる〈テケテケ〉みたいな現代の都市伝説も、変な音こそ怪異の発祥ってルールを守ってはいるよな。まあ独特な声や喋り方で、キャラクター付けを濃くするって意味合いも強いだろうけど──」

「とお」

 言ってるそばから独特な声を出す真見。なるほど、キャラが濃い。

 いや、そんな事より。

 肝心の文太さんが聴いたのはどんな音─オノマトペなのか。

 もう気になって仕方無いが、カーテン越しに急に声を掛けて鍼を打つ真見の手元が狂ったりしては一大事だ。ここは話の流れが向くのを待って──

「とお」

「どばちゅん」

 ん?

「とお」

「どばちゅん」

「とお」

「どばちゅん」

 真見の掛け声の合間で文太さんが怪しいオノマトペを不意に挟んできた。いや餅きかよ。お陰でそれが彼を追いかけてくる音らしいと気付くのに、時間が掛かってしまった。

 しかし──どばちゅん?

「とお。

 なるほど…確かに普通じゃないですね。少なくともそんな足音を私は知りません」

「いや、俺もそうだけどさ…」

「〈アポカリプティック・サウンド〉の一種かもしれません」

「何だいそりゃ?」

「数年前、中国貴州省の或る村の谷あいから怪音が聴こえると話題になりました。牛の鳴き声の様でもありますが、何処どこから聴こえてくるのか分からない。やがて龍の鳴き声だと言い出す村人も現れて、これがアポカリプティック・サウンドではないかと騒ぎになったんです。

 こういう発生元不明の謎の音というのが、二〇一一年頃から世界中で確認されています。ウクライナ、デンマーク、ベラルーシ、インドネシア、カナダ、イギリス、日本等で観測され、海外のメジャーなニュース番組で取り上げられた事もありました。多くは金属がこすれる様な奇妙な音だそうですが、探しても近くで工事などは行なわれていない。なのに突然響き渡る不気味な音…これはかなりの恐怖でしょう。ちょうどマヤ暦が終わると言われた二〇一二年の目前だった事もあり、この謎の音は新約聖書の『ヨハネの黙示録』で語られている世界の終焉を告げる天使のラッパに由来して〈終末音〉─アポカリプティック・サウンドと名付けられたのです。

 しかしそのマヤ暦の終末を過ぎた後も、アポカリプティック・サウンドは世界各国で聴こえ続けています。この音の正体ははっきりしておらず、大気中の放電現象の際に発生する電磁波が原因だという説、または地下空洞の中で発生している説、やまびこ現象によって遠くの工事現場の作業音が響いている説や、果ては宇宙人の声やUMAユーマの鳴き声という説まで様々です。音が発生した後にその土地で地震が発生する事も多いそうで、天変地異の前触れとして地盤のプレートがこすれる音ではないかとも言われています。実際に貴州省の例では、音が聴こえ始めた翌月にマグニチュード4・5の地震が発生したそうです」

「あんたもホント、変な事に詳しいなあ」

 あの文太さんに呆れられるとは、真見…怖ろしいコ。

 しかし文太さんは、固い声で反論した。

「けど残念ながら、あれはそんな終末音とかじゃねえよ。確かに何の音か分からねえ、足音っぽくはねえけどさ。

 でもホントに追いかけてくるんだよ。

 何度振り向いても姿は視えねえけど、最初は遠かった音が段々、段々近付いてくるんだ。間違いなく俺に向かってきて、最後はすぐ真後ろ─いや耳元・・でっ……


 どばちゅん…どばちゅん…どばちゅん…どばちゅんっ!」


 いや、怖いって。

 思っていたより怖い。

 オレはまたマヨ姉と顔を見合わせるが、彼女の微妙な表情はたぶん同じ事を考えているオレの鏡像でもあるだろう。

 自律神経の乱れは三半規管の血行不良にも繋がり、目眩めまいや耳鳴り、難聴を引き起こす。それが更に悪化すると幻聴まで聴こえてくるようになるのだ。

 文太さんは──疲れている。

「とお」

 真見の掛け声が優しい。

「今日はもうお仕事終わったんですよね?

 ゆっくり休んでください」

 それがいい。文太さんの状態が思ったより悪いのは、彼女にも鍼の感触で分かるのだ。筋肉の凝りが強過ぎると鍼も上手く入っていかない。きっと副交感神経を働かせる経穴ツボ──頭のてっぺんの〈百会ひゃくえ〉か、耳の後ろの〈完骨〉辺りに鍼を打ったはずだ。この後少しでも熟睡できるように。

「……分かったよ」

 まだ鍼の効果では無いだろうが、とりあえず興奮が収まった文太さんは力無く応えた。彼自身も現実の出来事とは思ってなかったのかもしれない。或いは変な体験を吐き出せてスッキリしたのか──

 オレは思わずカーテンの外から声を掛ける。

「ねえ文太さん。

 オレも真見クンも努力しますけど、一度真剣にストレスをしっかり発散できる方法考えましょうね!」

 カーテンの中からは小さく「おう」とだけ返事があった。


「それじゃちゃんと寝なさいよ〜」

 最後はいつもの様に笑顔で手を振るマヨ姉に見送られて、文太さんはとりあえず平和に帰っていった。

 しかし来週になれば彼にはまた次の〆切が待っている。休みの間もストーリーやアイディアを練るのは止められないだろう。神経が休まる時は無い。

 オレも考えるとは言ったものの、幻聴を起こすほどの大きなストレスをどうしたら発散できるのか。何日か完全に仕事を休んで、スポーツで体を動かしたり旅行して気分転換したりしてぐっすり寝られるといいのだが、年末までは忙しくて休めないと言っていた。

─追いかけてきてるのは〆切なんじゃないの…?

 オレは真見と並んで複雑な思いで文太さんを見送っていたが、つい呟く。

「しかし『どばちゅん』なんて足音、ホントにいたらどんな化け物なんだろうね?」

 ほんの軽い疑問を口にしただけだったのだが──

「そうですね、一つの動作だけで発生する音とは考えにくいです。幾つかの音が重なっているとなると『ど・ばちゅん』なのか『どば・ちゅん』なのか、或いは『ど・ば・ちゅん』なのか……『ど』は重厚な低音のカンジがしますが、『ば』や『ちゅん』は高音っぽいですからね、もしかしたら体重差のある複数のモノが同時に動いている可能性もあります。

 それにオノマトペの表現には個人差もありますから、文太さんと私達とでは聴こえ方が全然違うかもしれません。同じ電話の着信音も『プルルル』と表現する人もいれば、『トゥルルル』って人もいるでしょう?『どばちゅん』が烏頭先生や私にはどう聴こえるのか、それも考慮しなくては。

 また言語によってもオノマトペは変化します。日本語では『ワンワン』という犬の鳴き声も英語では『バウバウ』ですから……

 あ、そうそう、マツムシやスズムシ等のいわゆる虫の声・・・って、日本語とポリネシア語で育った人にしか声として認識できないそうですよ。その二つの言語圏だけが虫の鳴く声を言語脳で捉えられて、他ではただの雑音にしか聴こえないと──」

 駄目だ、こっちが悩んで寝られなくなる。

 オレは真見に向かって曖昧に笑いながら、『どばちゅん』の事は忘れようと決意した。




 どばちゅん。


 耳元で聴こえた音に私は振り向く。

 何もいない。

 ただ昏い道がゆるゆると続いている。

 気のせい……?

 私は再び前を向いて歩き出した。


 どばちゅん。



「キー坊のクラスメイトが……?」

 オレは口をぽかんと開けて固まる。

 受付カウンターの中のマヨ姉も目を見開いて立ち尽くしている。

 しぃん……

 ぎゃらん堂を沈黙が支配した。

 十二月上旬の金曜日──日暮れ前だが空は厚い曇に覆われ、外はもう真っ暗だ。

 放課後に超音波治療に訪れた男子高校生のキー坊が、左肘に治療器のプラグを当てながら話を続ける。

「ウチの学校でも噂になってるのは知ってたんだ。でもホラ、そういう怪談とか都市伝説って『友達の友達が』とか『知り合いの知り合いが』とかさ、又聞き・・・じゃん?だからボクも信じてなかったんだけど……さすがにクラスメイトが経験したってなったら話は別っしょ!

 そのコ女子でノッコっていうんだけど、部活が終わって遅くに独りで帰ってたら、後ろから足音が聴こえてきたんだって。

『どばちゅん…どばちゅん』って」

 そんな、馬鹿な──

「それで怖くて動けなくなってたらどんどん足音は大きくなって、とうとうすぐ真後ろで──

『どばちゅんっ』

『ひいっ』

 彼女しゃがみ込んで目ぇ閉じた。

 でもそしたら静かになったんだって。

 しばらくじっとしてたけど、何の物音もしない。

 恐る恐る目を開けて振り向いてみたら、何もいない。

『良かった…いなくなった』って思って、前を向いたら。


 目の前にいた・・んだ。

 丸い体に脚が一本だけ生えたヤツが」


 ごくり。

 オレは固唾を呑む。

─嘘だろ…?

 本当にいたなんて・・・・・・・・


 文太さんが『オノマトペに追いかけられている』と話していたのは先月の事──ここ数週間で事態は一変していた。

 まずSNSに『「どばちゅん」という変な足音を聴きましたが一体何でしょう?』と誰かが書き込んだ。マヨ姉が気が付いて、教えてもらった時は鳥肌が立った。文太さんに確認したが自分ではないと言う。その時点では偶然の一致だと思った。

 しかしそれからその書き込みに呼応して、同様の体験をしたという報告が相次いでいく。下校中の中学生が、残業上がりのOLが、そして呑んで終電で帰ってきたサラリーマンが、『「どばちゅん」という音に追いかけられた』と口を揃えたのだ。

 そのうちヒロムの小学校でも『どばちゅん』の足音を聴いたという噂が広まり始めた。マヨ姉のママ友の知り合いも聴いたらしい。怯えた子供達に学校側は集団下校を指示し、夜間の塾では父兄の送迎が一気に増えた。

 今ではぎゃらん堂ウチに来る患者さんも口々に噂するようになったが、オレはしかし、まだ信じてはいなかった。キー坊同様又聞きだったからだ。何せ身近でその音を聴いたのは文太さんだけ──そんな化け物は〆切地獄を彷徨さまよっている亡者まんがかの頭の中にしかいないはずだ。

 はずだったのに──

「背丈は2メートルくらいあるんだって。

 でもすぐ近くにいるのに、真っ黒な影になってて全体の輪郭しか分からない。街灯は確かに薄暗かったそうだけど、それでもそいつ以外の道や周りの家は見える。そいつだけが真っ黒。夜より昏い。

 ノッコは金縛りに遭ったみたいに動けなかったんだけど、足が震えて、よろけて一歩後退ずさった。

 そしたら真っ黒な一本足も一歩前にぴょんと飛んで着地して──

『どばちゅん』

 ノッコ、悲鳴上げて逃げたって……

 ショックで二三日学校も休んでさ。何があったのか皆で訊いたら、最初は話したくないって。でも一番仲の良い女子が説得してさ、やっと話してくれたんだけど、今でも夢に出てきてうなされてるんだって。凄いやつれちゃってるんだよ、可哀想に──あれは嘘じゃない。

 それからだよ、他にも何人も足音聴いたって生徒が名乗り出るようになったんだ!もう噂とかじゃないっ……

 ホントにいるんだよ、妖怪〈どばちゅん〉っ…!」 

 ごくり。

 しぃん………

─いや、それでもオレの身近には……

 こつこつ。

「わあっ!」

 不意に背後で足音がして飛び上がるオレ。

「お帰り〜」

 マヨ姉の声に振り向くと、真見が待合室からこちらの施術スペースに入ってきた。そうだった。足が悪くて動けないお爺さんの自宅に、訪問診療に行ってもらってたんだっけ。「ご苦労様…」と言いかけて、オレは彼女の顔を見てハッとする。

 きっ。

 あのいつも無表情な真見が眉先を上げている。

 ポニーテールにしているので普段隠れている目も見えているが、こちらもいつもみたいに眠たげではない。何だか─凛々りりしい。 

 ことこと……

 ローヒールを鳴らしてキー坊の前に進む。

「その話、もっと詳しく聞かせてもらえますか?」

「え?」

 凛々しい分、いつもより目力めぢからが強い気がする。

 オレは気になって口を挟んだ。

「どうしたの真見クン、何か気になる事が?」

「いえ…


 私も今帰ってくる途中で『どばちゅん』って聴こえたので」


「え……」

 ええ━━っ?

 オレは両手で頬を包んでムンクの『叫び』みたいに固まる。

 マヨ姉も唖然としているが、真見は構わずキー坊への質問を始めた。

「それで、そのノッコちゃんの部活って何?」

「ハ、ハイ、それは……」

 もにゃもにゃ……

 気圧されながらも答えるキー坊。

 オレの耳には何も入ってこない。

─そんな、真見クンまで…… 

 どしゃどしゃっ。

「ひゃっ?」

 再び間抜けに飛び上がるムンクなオレ。

 今度は振り向く間も無く、駆け込んできた人物に背後から叫ばれた。


「見ちまったっ…俺、どばちゅん見ちまったよぉっ!」


 はあはあはあはあ……

 十二月には相応ふさわしくない汗だくの文太さんが息を切らしている。

「ついさっきだよ、〆切明けでぎゃらん堂ここの予約があったからさ、川沿いを歩いて来てたんだ。確かに外は真っ暗だけど、まだ夕方の帰宅時間だろ?いつもなら人通り結構あるのに、誰もいない。ヤなカンジしたんだ。

 そしたら聴こえてきたんだよ、例の『どばちゅん』が!

 段々近付いてきて、でもこの間も見たらいなかったろ?だから俺、油断して、まだ足音がしてるうちにパッと振り向いちゃったのよ。

 いた・・

 いた・・んだ……!」

 文太さんは青褪めながらも、受付カウンターで初診の患者さんに書いてもらう問診票の裏に鉛筆を走らせる。

 すらすら……

 流石、プロの漫画家。あっという間に自分が見たモノを形にして、受付前に集まってきたオレ達に向かって問診票を掲げた。

 丸い体に一本足の、真っ黒なバケモノ。

 まさにキー坊のクラスメイトが目撃した通りだ。オレの背中越しにその絵を見つめるキー坊もマヨ姉も顔面蒼白である。

「もう必死で逃げたよ!また後ろから『どばちゅん、どばちゅん』って聴こえて、でも二度と振り返らなかった。運動不足だし股関節痛いから死ぬかと思ったけど、逃げて、逃げてっ……ここの明かりが見えてほっとした時に初めて、もう足音がしてないのに気付いたんだ。助かった──」

「裸足なんですね」

 一番後ろにいた真見が口を挟む。

 見れば彼女は絵の足部分を指差している。

 それは普通の人間の足のバランスよりかなり大きく描かれていて、全身が2メートルという事なので、靴のサイズにして50センチ位あるのではないか。そして真っ黒ながら先端は確かに足の指らしき形に分かれている。

「私達が『足』と言う時はくるぶしから下の部分、爪先つまさきからかかと足部そくぶを指します。このどばちゅんと名付けられたモノの足は確かに巨大ですが、絵で見る限りその骨格は人間同様と思われます。膝から下に伸びているのはけい骨と骨という骨ですが、それらに直接繋がっているのがきょ骨としょう骨──踵の骨です。ですから自然に直立している場合、人間の足は踵側に重心があります。となると同じ構造の一本足のこの妖怪も、基本全体重を踵で支えているのでしょう。

 この体格でジャンプして安定して着地しようとした場合、当然最初に地面に接地する部分は踵寄りの足裏です。爪先寄りから着地したら自重を支えきれず、前のめりに倒れるでしょうから。しかし着地の衝撃を吸収しなければ脚の筋肉を傷めるのは、人間も妖怪も同じではないでしょうか。特に前十字靭帯が心配ですね。その為に重要なのは膝のクッションで、私達が両脚を揃えて前方にジャンプした場合、着地時には膝を曲げて前傾し、衝撃を緩和します。

 ですからこの異形のモノも自身の体を守る為に、同じ動きをすると思われます。つまり──


 まず踵が『どっ』と着き、続けて膝を曲げて前傾する事で爪先までの足部が『ばちゅん』と接地する。

 なるほど、『どばちゅん』ですね」


「ああっ、確かに!」

 何故妖怪の前十字靭帯損傷の話を聞かされているのかとまたあぶあぶと阿呆ヅラをしていたオレは、ようやく反応した。真見は妖怪には音声だけで実体が不明のモノも多いと言っていたが、どばちゅんはその奇妙な足音を発するのに理に適った体格をしている訳だ。間違いない、真見もコイツの足音を聴いたのだ。オレは文太さんの描いた絵を改めて見て背筋が凍る。

 本当にいるんだ・・・・・・・


 しぃん………… 

 真見が静かに言った。

これ・・が無害な事を祈ります」

 絵を掲げた文太さんを真っすぐ見つめるその表情は、やはりいつもより凛々しい。

「妖怪とは本来、身の回りで起きた不可思議な現象そのものを指す言葉でした。明治期の仏教哲学者であり〈妖怪学〉の創始者たる井上円了がその超自然現象の解明の為に〈妖怪〉を盛んにサンプリングして紹介した結果、何かしらの霊性を感じさせる怪物の名称として一般的になったと言われています。

 だから本来妖怪は人を脅かすだけで、危害を加えるモノは意外と少ないんです。例として妖怪と成立の過程が近しい〈雷神〉を挙げましょう。『ガリガリッ、ゴロゴロゴロゴロ』という怪しい音と激しい閃光は、正体を知らない人にとっては怪物そのものです。誰もが驚いて恐怖に震えるでしょう。しかし雷を目撃したからといって必ず落雷の被害に遭う訳ではありません。結果そんな超自然現象を基にした妖怪は見た目は怖ろしいけれど、危険な種類は稀という設定・・に落ち着いたのです。

婆裟婆裟ばさばさ〉の異名を持つ怪鳥〈波山ばさん〉は、羽をはばたかせてばさばさと不気味な音を立てても姿は現さず、口から赤々とした炎を吐き出しますが熱くないそうです。

 戸外で物音がするので障子を開けてみると巨大な頭が突然現れて驚かす〈大かむろ〉も、他には何もしません。

 どばちゅんもそれだけの存在…ただのオノマトペ・・・・・でありますように──」

 そう言って胸の前で両手を組んだ真見はどこか神々しくさえあった。

 オレも彼女と同感だった。今のところ目撃者がどばちゅんに危害を加えられたという話は一切無い。このまま大かむろの様な出オチ妖怪でいてくれたなら……


 けれど、そんな女神の祈りは届かなかった──



 カラカラ……

「う〜っ…寒みぃと思ったら雪じゃん」

 厨房の窓を開けた髭面の男は白い息を吐きながら、冷え切った両てのひらを擦り合わせた。ステンレス製の格子が取り付けられた小窓の外の闇に、屋内の明かりに照らされた細かい雪がちらちらと光って舞っている。

「いつ降り出したんだ?積もってっかもな…」

 都心に近い千葉県の北西部である。本来は雪が降っても大した量ではなく、道路も舗装されたこの地域で積もる事はほとんど無い。しかしここ・・─お好み焼き屋〈轟天ごうてん〉の隣は元は一軒家だったが、地主が新しくマンションを造る為に更地にして、今は土が剥き出しの空き地なのだ。薄っすらと積雪があるかもしれない。かと言ってわざわざ勝手口を開けてまで確認するつもりは彼─轟天の店長には無かった。そもそも午前二時を過ぎた深夜、住宅街にあるこの店の周りは寝静まって真っ暗なのだ。どうせよく見えない。

 轟天は繁華街からは離れているが、知る人ぞ知る繁盛店だった。二階建てで一階が大きな鉄板を囲むカウンター席、二階は貸切の宴会も出来る座敷になっている。各階十人程度で満席になる小規模な店舗だが、美味しくて値段も安く、長髪と髭がトレードマークの気さくな四十代の店長と若いスタッフの接客も好評で、平日休日問わずランチタイムから深夜まで地元客で常に賑わっていた。

 青い作務衣さむえを着た店長はポニーテールにまとめた頭をがりがりと掻く。日曜日の今日は宴会が入っていて忙しく、午前一時近くまでずっとお好み焼きを焼く煙を浴びていた。閉店後の片付けが済んで、スタッフも先に帰してひと息ついてみると、頭が結構痒いのに気が付いた。匂いが付きにくいように髪を少し湿らせて上にタオルを巻いていたので、その湿り気と汗のせいもあるだろう。幸い明日の月曜日は定休日である。帰ってざぶんと風呂に入ろう……

「ま、その前に──」

 自宅はここから歩いて帰れる距離だ。店長はいつも最後に戸締まりをして店を出る前に、独り〆の一服をするのが習慣ルーティンだった。店は禁煙ではないが休日は子供連れで来る客も多いので、喫煙者でも配慮して吸わない人が多い。店長自ら率先して吸うのは憚られて、今日は閉店後の煙草タバコを特に楽しみにしていた。窓を開けたのは換気扇も止めてしまったからだ。作務衣のポケットにあったお気に入りのラッキーストライクの箱から一本取り出し、口に咥えてライターを探す。

「あれ、どこやったかな……」

 きょろきょろ。

 調理台の周りを見回していた時。


 ……ばちゅ……


 何か聴こえた気がした。

 窓の外を振り返るが、音も無く雪が降っている。

 しぃん……

「……」

 気にはなったが、まあ何でもないだろう。結局ライターが見付からず、ガスコンロのスイッチを押す。

 カチカチ。

 ボッ。

 どばちゅ……

 振り返る。

 目を凝らしても、闇と雪。

 背中をどくどくと這い上がる寒気を感じて、ふと思い出す。

 何だか変な名前の妖怪が全国的に流行はやっているとスタッフから聞いた。SNSでも最初は後ろから足音が追ってきたという話だったのが、最近ではその姿を見たという報告が多数出回っている。しかもどうやらその噂というか都市伝説が広まる元になったのが、ここら辺の地域らしいと……

 名前の由来はその足音だと言っていなかったか?

 確か──


 どばちゅん。


 聴こえた。

─いや、まさか。

 空耳だ。疲れているんだ。

 もう帰ろう。

 店長はコンロの火を消し、窓を閉めようと近付いた。相変わらず外は暗く──

─待て。

 何故真っ暗・・・なんだ。

 さっきまで光っていた雪が何故見えない。

 止んだのか?

 そこまで考えて思い出した。


 SNSではそのバケモノの絵も拡散されていた。

 真っ黒な、一本足。

 そいつが窓の前にどほんと立っている。


 悲鳴を上げる間も無く、何か鋭いモノが店長の喉を貫いた。



 ざあざあ……

「嘘……」

 雨の降りしきる中、朝早く出勤してきたオレは、腰が抜けて待合室の長椅子にへたり込んだ。

 お好み焼き屋の轟天は、ぎゃらん堂から徒歩十五分程しか離れていないご近所さんなのだ。オレもランチで何度か行かせてもらったが、あの髭の店長はいつも笑顔で出迎えてくれた。紅生姜だけのお好み焼き─紅生姜天は一点突破の絶品だった。

 一昨日おとといの日曜日、その店長が何者かに殺された。

 昨日─月曜日の報道によれば開いた窓の前にいた店長は、屋外から鋭利な凶器で突き刺されたらしい。

 これだけでもとんでもない大事件だが、一夜明けた火曜日の今朝、マヨ姉から聞かされたのはもっと怖ろしい話だった。

「日曜日の夜って雪降ってたでしょ?それで轟天の裏の空き地に雪が積もってて、それがちょうど犯行のあった頃に止んだから窓の外に足跡が残ってたらしいの。ホラ、月曜日って轟天休みだから店長の発見も遅れてさ、それで警察の規制が入る前にその足跡見た人結構いるのよ!」

「それが…あの大っきな一本足の……?」

「窓に向かって空き地を横断して、その後引き返してたんだって。アイツよ、どばちゅんがやったのよ!」

 さすがのマヨ姉も怯えている。今朝もヒロムを小学校に送っていったが、休んでいる生徒も相当いたそうだ。当然だろう、今この街は危険過ぎる。警察でもどうしようも出来まい。人智を超えたバケモノが、いつどこから襲ってくるか分からない──

 ぴしゃあん…

「そうですか……」

「ひいっ」

 雨のしずくが垂れる音と共に人影が入ってきた。情けない悲鳴を上げてしまったが、よく見れば白いレインコートを着て赤い傘を携えた真見である。

「ああっ真見クンっ、とうとうどばちゅんがっ…!」

「ええ…恐れていた事が起きてしまいました」

 その口調の変化に思わず顔を見る。いつも目を隠している長髪の前髪が雨に濡れて額に貼り付き、右目だけ見えている。その異様な光を帯びた瞳に宿っているのは、怒りと悲しみ──

「烏頭先生、行きましょう」

「え?どこへ?」

 馬鹿ヅラで訊き返すオレに真見は決然と応えた。

「訪問診療です」


 ざあざあ……

 ツァリンツァリン。ツァリンツァリン。

『……ハイ?』

 インターホン越しに草臥くたびれきった声が聴こえる。

「お早うございます。ぎゃらん堂です」

『えっ?』

 真見の名乗りに驚いた声の主は、慌ててカチャンカチャンと鍵を外しドアを開けた。

 顔を覗かせたのは髪はくしゃくしゃで無精髭を生やしたジャージ姿の文太さんである。

「ど、どうしたんだ、二人揃って…?」

「訪問診療に参りました」

「はあ?」

 明らかに動揺している。それはそうだろう。今日オレ達が文太さんを訪問診療する予定など無かった。ここの住所はカルテに載ってはいるが、今まで来た事も無いのだ。

 この古いマンションの二階の部屋は彼の自宅ではない。自宅は駅二つ離れた場所で、独身の文太さんは週末はその母親が住んでいる一軒家で過ごしているそうだ。こちらは漫画家『やしろとらた』が平日泊まり込んでいる仕事場である。ここがぎゃらん堂まで徒歩十分の場所なので、通ってくれている訳だ。

「すみません、お仕事中でしたか?」

「いや、俺ぁ夜型だからよ。夜中の三時まで仕事して寝てたわ」

「それは重ね重ねすみません…」

 真見は深々と頭を下げる。

 オレも一緒にお辞儀しつつ、さっきから何も言えない。と言うか、何を言っていいか分からない。何故自分達がここに来たのか、真見から何も聞かされていない。

 ざあざあ……

「…とりあえず上がりなよ。雨降ってるし」

「ありがとうございます」

 再び頭を下げた真見は傘を畳んでずんずん中に入る。オレも慌てて続いた。

 玄関から続く廊下の先に広いフローリングの部屋があり、机が二つ並んでいる。他にはコピー機と様々な書籍が並んだ本棚、窓際には観葉植物の鉢植えも置いてあり、小さなオフィスの一室といった風情だ。ちょっとイメージと違う。目をぱちぱちしていたら、文太さんがからかう様に笑った。

「あ〜もっと汚いと思ってたな、薫ちゃんセンセ」

「い、いえ…」

「そこのドアの寝てる部屋はまあ散らかってて見せらんないけどさ、作業する場所は綺麗にしたいのよ、俺。毎週〆切が終わるとちゃんと掃除して帰るんだ。じゃないと次来た時、新しい気分でやろうって気にもならねえ」

 それはちょっと分かる。

「でもホラ、漫画のスタジオだから原稿用紙とか散らばってるのかと思ってました。ペンとかインクとか……」

 しかしそれぞれの机に置いてあるのはタブレットPCなのである。それが尚更オフィス感を出しているのだ。

「そりゃ俺も元々は紙にペンで描いてたけどさ、最近じゃ漫画もデジタルなのよ。ちゃんと作画専用のソフトがあってさ、このペンタブでのんのんってね。原稿もデータで送れるからわざわざ出版社行かなくていいし、ラクになったぜ〜」

 思わず文太さんの顔を見る。そんなカッコ良さげなソフトを使いこなしているとは。昔気質カタギのおっさん漫画家だとばかり思っていたが……

「一番いいのは画面がアップに出来るだろ?小っちゃい絵が見えないからさ、老眼で。助かるわ〜」

 おっさんはおっさんだった…。

 オレと文太さんがそんな無駄話をしている後ろで、真見が呟く。

「机が二つあるという事は、アシスタントを雇ってるって事ですか?」

 アシスタント…詳しくはないが漫画家のお手伝いさんの事だろう。

「ああたまにね。若い頃は仕事量も多くって結構人数雇ってたけど、最近は基本独りでこなせるページ数の仕事しか受けないし、イレギュラーで仕事量が増えた時にちょっと手伝ってもらうくらいだな」

「なるほど…」

 机の脇に立ってタブレットをジッと見下ろしていた真見は、そこでついっと顔を上げて文太さんを見た。

「どうですか、体調は?

 今日はこの間より顔色も良さそうですが、週末は少しはストレスを発散できたのでしょうか?」

 文太さんは勿論、オレも目を丸くする。

 ホントに訪問診療をしに来ただけ……?

 戸惑いながらも文太さんが応えた。

「ストレス発散…まあ少しは」

「そうですか……


 がさがさ……

 夕暮れ時に路地裏を歩いていると物音がしました。

 見ればゴミ捨て場のポリバケツに頭を突っ込んで、野良犬が残飯を漁っています。痩せこけたみすぼらしい犬です。何となく腹が立って、小石を投げ付けてみます。犬の動きが止まりました。ポリバケツから頭を出して、こちらをゆっくりと振り返ります。

 その顔は、人間でした。

 疲れ切った表情の中年の男性が、口元を残飯で汚しています。

『……放っておいてくれ』

 そう低く呟いて、その異形の犬は歩き去っていきました。


 これが〈人面犬〉の最もスタンダードな目撃談ですね」


「ちょっ…えっ?」

 オレは思わず前のめりになる。人面犬?いや突然何の話?文太さんもさぞ困惑しているだろうと横を見て、ぎくっとする。

 彼は真剣な表情で黙り込んでいた。

 真見はその文太さんを真っすぐ見つめたまま続ける。

「有名な〈口裂け女〉が登場したのは一九七九年だと言われていますが、人面犬はその十年後─一九八九年から翌九〇年にかけて全国で大流行した都市伝説です。もっとも当時の日本に『都市伝説』という用語はまだ定着していなかったそうですが、人面犬は現代の都市伝説を語る上でも重要かつ、特別な意味を持っています。

 それは、この人面犬の噂がどこから始まってどう伝播したのか、明確に分かっているからです」

「え?」

 それは意外だ。オレは都市伝説に詳しくはないが、昔の怪談や妖怪譚同様にどこか・・・誰か・・が出遭ったとして、それが人づてに広まっていった噂話だろう。キー坊が言っていた又聞きだ。その過程で似た様な話とごっちゃになり尾ヒレも付くだろうから、流行しきった頃にはもう原型を留めていないかもしれない。それを遡ってスタート地点を探すのは難しいと思うのだが……

「簡単な話です」

 オレの疑問を見透かした様に真見が言う。

「人面犬は自分が創作して広めたと、犯人・・が名乗り出ましたから」

「へ?」

「人間の顔を持つ犬の民間伝承自体は昔からありました。文化七年の江戸で或る牝犬の産んだ仔犬の顔が人間そっくりで、見世物として人気になったと当時の書物に挿絵付きで紹介されています。

 また同じく江戸時代の文人にして医師の加藤曳尾庵えびあんの随筆『我衣わがころも』にれば、文政二年四月二十九日、日本橋近郊で産まれた仔犬が人面と評判になり、見物人が詰めかけました。曳尾庵はその人面犬を、猿の様な顔付きで前足が人間の足だったらしいと書いています。

 そんな人面犬を現代に蘇らせたのは、とある雑誌と学生グループだったそうです。

 まずは若者向けの情報誌が読者投稿にあった人面犬の話に創作を加えて誌上で広めたのが発端だと、当時関わっていたジャーナリストが後に告白しています。

 それを都内の大学の都市伝説系サークルが、小学生の噂がどう伝播するのか─そのネットワークを検証する目的で、ケーススタディとして利用したんです。『こんな犬を見かけませんでしたか?』という人面犬のイラスト入りのポスターを作り、下校中の小学生に白衣姿で『研究所から人間の顔をした犬が逃げたが見なかったか?』などともっともらしく尋ね回った。『放っておいてくれ』という台詞も、現実感を出す為の学生のアドリブだったそうですよ。その内容がどのくらい拡散するかを確かめようとした訳ですが、それから一年後には人面犬は全国で大流行したのです。

 この人面犬のケースは都市伝説がどの様に生まれ拡散していくか、その仕組みを考察する為の好例だと言えます。しかも日本各地に広まっていく過程で『時速百キロで走る』『高速道路上の車が人面犬に追い抜かれると事故を起こす』『人面犬に噛まれた人間は人面犬になってしまう』等、新たな特徴がどんどん増殖していきました。そう、最初のスタートさえ上手く切れてしまえば、都市伝説バケモノは勝手に育ってくれるのです。


 貴方あなたがやった様に」


 真見は文太さんから目を逸らさない。

 文太さんも真見を見返している。

 しぃん………

 深夜に作業をする仕事場は防音もしっかりしているのだろう。雨の音も聴こえない。

「貴方はまず、自身が『オノマトペに追われている』と言い出しました。その時点では私も含め、誰もが文太さんは疲れている、気のせいなのだと思います。でもそれも計算通りですよね?最初からいきなり妖怪が出た、襲ってきたって騒いでしまうと、いかにも陳腐で嘘くさいですから。

 荒唐無稽な出来事は現実でも創作でも受け容れるのに時間がかかります。ですから最初は私達に何となく嫌な印象を抱かせて、これから起こる出来事の予兆・・を感じさせるだけでいい。流石ストーリー作りのプロですね」

「嫌な予感がするオープニング、てか?」

 漫画家は口の端を歪めた。

「そして次に知り合いやSNSのフォロワーさんに、『どばちゅん』という足音を聴いたと拡散してもらう。偏見かもしれませんが、漫画家さんの大きなお友達・・・・・・はそういう悪戯イタズラを面白がってやってくれる方が多いのではありませんか?それこそ人面犬の様な都市伝説の拡散実験だと言えば大喜びで」

「失礼だな〜その通りだけど」

「大事なのはこの『どばちゅん』というオノマトペをあらかじめ広めておく事です。同じ音を聴いても人によってどんな表現をするかは様々ですからね。先に『どばちゅん』を知っていて初めて、自分が聴いた変な足音を複数の人が同じオノマトペとして認識できる。

 だからその後実際に・・・足音を聴いた・・・・・・人達・・は、それが『どばちゅん』だと口を揃えたのです」

「あ……」

 そうだ…どばちゅんの都市伝説は文太さんの創作だと、オレも納得しかけていた。

 しかしSNSの報告やキー坊のクラスメイトだけではない。

 真見自身・・・・がどばちゅんの足音を聴いている。

 文太さんはにやにや笑っていた。

「おや〜?それじゃやっぱり、どばちゅんは実在するんじゃないの?」

「いえ、オノマトペが『どばちゅん』だと認識されていれば、それらしい音を出しさえすればいい。忙しい貴方はやはりお友達・・・にお願いしたんじゃありません?色々な場所でその音を出すように」

「いやいや無理だろう。だって足音だけ・・が後ろから付いてくるんだぜ?そんで最後は耳元で聴こえるんだ。通行人の後ろからそろそろ近付いてスマホ鳴らしたって、振り向いたらすぐバレるじゃん。即不審者扱いで通報案件よ」

 にたにたにたにた。

 文太さんは歯を剥き出してわらう。

 彼のこんな表情は見た事が無い。オレは思わず目を逸らす。

 しかし真見は逸らさない。

「近付く必要はありません。


〈指向性スピーカー〉を使えば」


 文太さんの顔から嗤いが消えた。

「空間において音声や電波の伝わる強度が方向によって異なる性質が〈指向性〉です。スピーカーで『指向性が強い』といったら、その出力された音が届くエリアが狭く、限定されている状態を指します。その特性を生かした指向性スピーカーは、ATMの操作時のアナウンスや、博物館でのボイスガイド等、特定の場所に特定の音を届ける場面で活用されています。

 その中でも特に指向角度が狭い〈超指向性パラメトリックスピーカー〉であれば、サーチライトを当てる様にピンポイントで音を送れるのです。最新技術では百メートル先の特定のエリアまで正確に届くそうですよ。

 しかし最近、このパラメトリック・スピーカーが嫌がらせの手段等に悪用されるケースも出てきています。

 気に入らない相手の寝室にだけ微妙な騒音を流し、不眠でノイローゼにさせる。

 狙った女性だけに不愉快な囁きを聴かせて、その反応を見て自身の歪んだ欲求を満たす。

 そして勿論、通行人に怪しい足音が追いかけてくるかの様に錯覚させて怯えさせる事も可能です」

 そうか……

「そうやって足音が浸透して世間がいったん未知の怪物を受け容れる態勢に入ると、後は早い。人面犬がイラストで具体性を与えられた途端に一気に拡散した様に、文太さんが目撃したとして描いた姿はあっという間に認知されました。音だけの超自然現象を怖れるあまりそれに名前と形を与えて安心感を得る、妖怪の成立過程そのものですね。

 こうして奇怪な足音と共に追いかけてくる真っ黒な一本足──どばちゅんという架空の妖怪が誕生したのです」

 そういう事か……

「ちょっと待て。忘れてやしないか?

 俺だけじゃない、キー坊のクラスメイトもどばちゅんを見てるんだぞ?」

「あ…」確かに。

 しかし真見は怯まない。

「貴方の関与を疑った私はキー坊君に連絡して、クラスメイトのノッコさんに確認してもらいました。

 彼女の部活は漫画研究会・・・・・で、貴方─やしろとらたの大ファンですよね?

 それで前からお願いしていたアシスタント体験をさせてもらう代わりに、どばちゅんを見たという嘘の目撃証言をしたと白状しましたよ。次の作品の取材として都市伝説の実験をしたいって頼まれたと…。彼女が学校を休んだのも妖怪を目撃したショックではなく、仕事場に泊まり込んでアシスタントをしていたからですね。その際窶れていたのも作画の作業が楽しくて、つい徹夜してたんでしょう?

 でも彼女は怖くなったんです。それはそうでしょう。

 嘘だったはずのどばちゅんが人を殺したんですから。

 一体何がどうなっているのか…まさか自分がいる・・と言ったせいで、架空の怪物が実体化してしまったのではないか……そう考え出したら心底怖ろしくなって、キー坊君に真相を告白したんです」

 文太さんは黙っている。

 真見が俯く。

「ねえ文太さん、どうしてですか?

 貴方のファンをそんなに苦しめてまで、都市伝説をでっち上げて……」

 そうだ、何で。

 何でこんな事を──

 さらさら。

 真見は髪をなびかせて、顔を上げた。


「どうして、轟天の店長を殺したんですか」


 今…何と?


「足音と姿が認知された妖怪が殺人を犯し、一本足の足跡を遺して消えた──そういうシナリオだったんでしょう?でも、もう駄目ですよ。他のお友達・・・もノッコさんみたいに、警察の取り調べですぐ自白します。そもそも化けの皮を剥がして考えれば単純な事件です。

 窓際に近付いた犯人が開いた窓から刺しただけなんですから。


 足音がパラメトリック・スピーカーなら。


 足跡は水泳用の足ヒレフィンを付けて、片足飛びすればいいだけです」


 あ。

 踵と足ヒレで──ど、ばちゅん。

 そう…だったのか。

 文太さんは静かに目を閉じる。

 観念したという事か。本当に彼が殺したのか。

 その犯行を誤魔化す為に、こんな大掛かりな事をして妖怪の仕業にするつもりだったのか?

─嘘でしょ…文太さん……

「でも分からないのは動機なんです。

 何故、殺したんですか」

 そうだ、よほどの事情があったんじゃないのか。

 オレが知っているこの人は、そりゃあ変人だけど、いつも陽気で物知りで、ぎゃらん堂を怪しく…じゃなかった明るくしてくれて……理由も無く殺人を犯す様な人じゃないはずだ。

 文太さんが、目を開けた。


「あっはあっは、バレちゃったか。

 いや、殺すのは誰でも良かったんだけどね。あそこの店長がよく窓開けて煙草吸ってんのは、夜中の散歩の時見かけてたからさ。その窓から刺してやりゃ簡単だな、キモチいいだろなって思ってたのよ。でもただ殺したって面白くないだろ?それで考えた訳。

 これは俺の手で新しい妖怪バケモノを生み出せるチャンスじゃないか?

 それもホンモノ・・・・をね。

 だからどばちゅんを生み出した。足音から始めて絵姿を拡散して、そろそろいいかなと思ったところで雪降ったから。こりゃ足跡も綺麗に残るな、チャンスだなって。それで黒い雨合羽ガッパ着て足ヒレ持って出かけてさ、持ってった傘で刺してやったのよ。ざっくざっくってね!

 口裂け女も八尺様もテケテケも、噂ばかりでホントの死人は出てないからな。でもどばちゅんは違う。ホンモノの都市伝説になるんだ。それを俺が創ったんだ!水木しげる大先生だってやってないぜ?

 そしたらそうだよ、殺したいヤツは皆殺せる。

 俺ぁ女の子描くのが得意なんだぜ。それが漫画家としてのアイデンティティなんだ、いつまでも可愛いコ描きたいんだよ。なのに若造の編集の野郎、俺の絵がもう古いとか言いやがった!アイツも殺す!

 あと裏のコンビニの店員、五千円渡したのに千円札だって言い張りやがってっ……ふざけんな!釣り銭泥棒がよぉ、ぶっ殺してやる!

 大家の婆あも逃げた親父も、どばちゅんがいりゃ殺せる。幾らでも殺せる。殺せるんだっ……

 いやあ、思い付いた時はうきうきしたね〜。わははわはは…!」


 大笑いする文太さんに向かって、オレは叫んだ。

「あんたおかしいよ!」

「だって、薫ちゃんセンセが言ったんじゃないか。


『真剣にストレス発散できる方法考えよう』って!」


 そう言って、ホンモノのバケモノはげたげたと哄笑わらった。



 ざあざあ……

 がやがや……

 冷たい雨の降り続くマンション前の通りは、駆け付けた警察官と野次馬で溢れている。

 通報したオレと真見は連行される犯人の背中を黙って見送っていた。二人の刑事に両脇を抱えられてエントランスホールを出ていく文太さんだったが、ふと振り返る。

「真見センセ…いつから俺が怪しいって思ってた?」

最初から・・・・ですよ・・・

 目を剥く文太さん。

 オレも「えっ」と真見を見る。

「人体を網羅する経絡のうち、縦に走る経脈は全部で十二本あります。この〈十二正経じゅうにせいけい〉が人間が生きていく為に必要な機能を備えた五臓六腑に繋がっていて、それぞれに気と血のエネルギーを運んでいるんですね。

 そしてこの十二正経とは別に背骨の真上を走っている〈督脈とくみゃく〉と、体の前面の中央を走っている〈任脈にんみゃく〉も重要です。背中とお腹の中心線─正中線ですからね。心と体のバランスを整える大事なラインとして、この督脈と任脈を十二正経と合わせて〈十四じゅうし正経〉と呼びます。

 全身の経穴ツボは全て、この十四正経上にあるのです」

 突然経絡の話が始まった。

 しぃん……

 文太さんのみならず、強面の刑事達も振り向いて固まっている。

 オレは──もう慣れたかも。

 そんな静止画の様なエントランスに真見の声が響く。

「ところがですね、この十四正経の経穴ツボには属さないのに、鍼やお灸がよく効くポイントがあるんです。東洋医学の先達せんだつが無数の症例に向き合っているうちに、経験的に見付けてきたんですね。

 例えばこめかみにある〈太陽〉は目の不調や片頭痛、歯痛等に効果があります。

腰痛点ようたいてん〉は手の甲にありますが、読んで時の如く腰痛の緩和や予防に良いと言われています。

 そして足の指の間にある〈八風はっぷう〉は、足の冷えに効くのです。

 他にもこの様なポイントはたくさんありますが、これらは経穴ツボと区別する為に『くすしい経穴』─〈奇穴きけつ〉と呼ばれています。

 十四正経の外にあるという事で〈経外奇穴〉とも言いますが──」

 くるっ。

 ピタリ。

 レインコートを翻してターンした真見が、こちら・・・を指差した。


この物語・・・・が始まった時から、不自然ではあったんです。時折描かれる音──

 ゆるゆる。

 しぃん。

 ごくり。

 こつこつ。

 ことこと。

 ざあざあ。

 ぴしゃあん。

 ここら辺ではまだ確信は持てませんが……

 もにゃもにゃ。

 どしゃどしゃ。

 ツァリンツァリン。

 どほん。

 のんのん。

 あっはあっは。

 わははわはは。

 ──もう間違いありませんね。


 全て、宮澤賢治のオノマトペです。


 この物語・・・・に出てくるのはどれも、賢治の作品中で使われているオノマトペなんです。よく調べましたね」

 いや、それを知ってるあんたが凄いんだけど…。

「〈テキスト〉とは書物や表現そのものを指す言葉ですが、その語源はラテン語のテクストゥス─『織物』です。その縦糸と横糸で編まれたテキストの様に、この物語・・・・が縦横無尽に張り巡らされた経絡だとしたら、そのポイントポイントに現れる効果的な演出─経穴ツボとして、賢治のオノマトペが使われているんです。

 ところがそんな中に一つだけ、賢治のモノじゃないオノマトペがある。

 それこそが『どばちゅん』です。

 それはまるで、経絡テキストから外れて、経穴ツボとは違う効果を与える奇穴です。

 では何故、そんな経外奇穴を混ぜたのか?

 それはつまり『どばちゅん』だけが違う・・──どばちゅんは偽物だというサインだからです。

 お前はそれに気付けるかって、トリック・・・・なんです。


 そうやって作者・・は、最初からからかっていたんですよ。

 読者あなたの事を──」

 にやり。



 真見が不敵に笑ってこちらを指差しているアップの一枚絵で、その漫画・・は終わっていた。

 オレが紙の束を両手で握ったまま呆然としているのを見て、横から覗いていた文太さんが嬉しそうに笑う。

「どう?ビックリした?」

 確かにビックリした──読む前から。

 漫画と言っても完成原稿ではない。雑誌の見開きサイズのB4判の紙に鉛筆でラフに描いたモノのコピーだが、コマ割りもしてありフキダシの中のセリフも書いてあるので普通に漫画として読める、下書きの前段階の〈絵コンテ〉というモノだそうだ。文太さんによるとまずこれを出版社の編集さんに見せて打ち合わせし、必要なら修正をして、OKが貰えたら作画に入るのだという。

 今日は十二月上旬の金曜日──まさにこの漫画の冒頭のシーンと同じ日付だ。文太さんが疲れ切って『オノマトペに追いかけられている』とヤバかったあの日から、三週間程経っている。

 オレがぎゃらん堂ここに昼休みから帰ってきたら、この絵コンテを読み耽る真見と横でニヤニヤしている文太さんがいた。『今日は〆切が早く終わった』という文太さんは妙に顔色が良く、何だか生気に溢れている。この間の惨状から一体どうやって快復したのかと疑問に思っていたら、読み終わった真見が言ったのだ。

 オレにストレス発散の方法を真剣に考えろと言われて、それを思い付いたのだと。

『一体どんな方法なんスか?』

『おう、俺は漫画家だぜ。

 漫画を描き過ぎて疲れた時は、別の漫画を描くと気分転換できるんだ〜♪』

『は?』

 どうかしている。

 しかしプロの漫画家の多くがオフの時間を使って、趣味の同人誌を描くのは普通なんだそうだ。『別腹だよ別腹』と訳の分からない事を言っていたが……

 どうかしている。

 それで描いたのがこの絵コンテで、まあとにかく読んでくれという。しかし真見の次はマヨ姉が読む事になっていたから、オレは待っている間独り掃除をしていた。すると待合室の長椅子に座って読んでいるマヨ姉が、時々ケラケラと笑っては『また薫ちゃんセンセが〜』とオレの名前を連呼する。首を傾げつつ掃除を終え、やっと順番が来て自分も待合室で読み始めたら、その謎が解けてまたビックリした。

 ラフと言っても漫画の内容を伝える為に、要所ではしっかり絵が入っている。

 特に力が入っているのが真見だ。

 作中でも触れているが、漫画家やしろとらたは角刈りダボシャツの五十男おっさんにも関わらず、可愛い女の子の絵を描くのが上手い。ぎゃらん堂ウチの鍼灸師のポスターにもそんな萌え〜なコを描いてもらった。そこにこだわりもあるのだろう、絵コンテの真見はサラサラの髪にキリッとした目が凛々しい、クールビューティなヒロインになっていた。表情も実物とは違って豊かで、途中女神にまでなっている。読み終わった真見本人がさっき『感想は後で』と複雑な顔をして出ていったのは、きっと恥ずかしかったのだろう。

 しかし驚いたのはそこではない。

 オレの絵は基本、顔の所にただ丸を描いて、そこに『かおる』と書いてあるだけだった。

 扱いの差に抗議したら、脇役はこんなもんだと。

 そのくせ時々描いてある表情は、間抜け、阿呆、馬鹿面……ひど過ぎる。マヨ姉が笑うはずである。

 そんなマヨ姉もショートカットの可愛いママさんに描かれていた。ズルい。


 そして読み終わって、本当に驚愕した。

 ストーリーも凝っていると思う。都市伝説の拡散実験のアイディアや指向性スピーカーのトリックも『へえ〜』と感心したし、オノマトペと経外奇穴を絡める辺りはいかにも真見が言い出しそうで、よく空耳の『どばちゅん』からここまで話を広げたものだ。

 そのオノマトペ──漫画なので実際に絵と一緒に字が書いてある〈書き文字〉な訳だが、その仕掛けも全く見抜けなかった。文太さんいわく特に無音状態を表す『しぃん』は宮澤賢治のオノマトペでもあるけれど、それを初めて漫画に取り入れたのはあの漫画の神様・手塚治虫との事で、リスペクトで繰り返し使ったのだという。

 また突然作中の真見が読者こちらに語りかけてきたのにも驚いた。メタなネタだというが、ちょっと何言ってるか分からない。

 しかし何よりも衝撃的だったのは、殺人事件の顛末とその犯人だ。ストレス発散の為にあっさりと人を殺し、反省するどころか見付からなければいつまでも続ける気でいる。これでは文太さんはとんでもない殺人鬼ではないか。描かれた表情も目を爛々と輝かせ、耳まで裂けようかというほど口を大きく開けて嗤っていて、悪魔染みている。正直ゾッとした。

「これ…自分をこんな風に描いてストレス発散になるんスか?」

 長椅子の隣に座る文太さんに恐る恐る訊いてみたら、満面の笑みが返ってきた。

「勿論、キモチ良かったよ〜っ!」

 やっぱり、どうかしている……


「〈感情解放〉ですね」

 ハッと見上げると、入口に真見が立っていた。

「映画や舞台に出演する俳優さんが、演技のトレーニングとして行なっているモノです。日常生活では決して表に出せない抑圧された感情─本音を、ポジティブなモノもネガティブなモノも全て人前でさらけ出すんです。

 例えばただのパイプ椅子を大好きな恋人だと思って、決して他人には見せられない様な態度で甘える。

 また自分が蜘蛛の巣に捕らえられた瀕死の蝶だと想像して、床に大の字になって泣き喚く。

 そして目の前に絶対に許せない相手がいるつもりで、壁に向かって罵声を浴びせて殴りかかる──

 その自覚があるか無いかは分かれるでしょうが、自身の感情を抑えていない人などいません。感情解放のトレーニングをしていくと自分でも知らなかった感情がどんどん呼び覚まされ、演技に必要な様々な心の機微が自然に放出されていくそうです。そうやって自らの感情を動かせる人間でなければ、他人の感情を動かせない──感動・・は生まれないという訳ですね。

 この感情解放は不快な感情を解消しストレスによる心身の負担を柔らげるとして、心療内科や精神科でセラピーとしても取り入れられています。

『相手を不快にさせるのでは』と必要以上に心配して、コミュニケーションが取れなくなる。

 逆に常にイライラして他人に理由もなく攻撃的になってしまう。

 そんな症状が自身のどんな感情によって引き起こされているのか、その現状と原因を医師やカウンセラーと共に探り、時間をかけて解放していくんです。

 文太さんは厳しい〆切に追われ、体も心も限界まで疲れ切っていました。ストレスでさぞネガティブな感情を抱えていたでしょう。しかしそれを現実で晴らす訳にはいかない──でも、漫画フィクションなら。

 俳優も物凄い悪人や犯人役、逆に無惨に殺される被害者役等は、思い切り感情が解放できるので演じていて愉しいそうですよ。

 今回も内容が内容なので、こういう言い方はどうかと思いますが……

 スッキリ・・・・しましたか?」

 文太さんはニヤリと笑った。

 オレは──やっぱりちょっと引いていた。

─まあ、でもいいか。

 それで彼が元気になるのなら……


「よっしゃ、もう眠いから帰るかな」

 文太さんが不意に立ち上がり、オレは意表を突かれる。

「えっ施術しなくていいんですか?」

 予約は入っていなかったが、てっきりこの後マッサージとかしていくと思っていた。〆切が早く終わったとはいえ徹夜はしたそうだ。

「何か今日はこのままぐっすり寝れそうだからさ。また来週頼むわ」

 絵コンテのコピーを手にさっさと出ていこうとする文太さんに、オレは慌てて言い忘れていたひと言を告げる。

 怖かったけど。扱い酷かったけど。

「えっと、面白かったっスよ」

 振り向いた文太さんはちょっと目を丸くして。

 照れた様に笑った。

 エレベーターに向かう足取りが何だか軽い。

─ホントに漫画描いてスッキリしたんだなあ…… 

 そう思って見送っていたら、真見が頷いて呟く。

「流石、烏頭先生。クリエイターの魂を揺さぶる見事な感情解放です。私はまだまだですね…」

「へ?」

 何の事?

 すると受付の準備をしていたマヨ姉が会話に入ってきた。

「確かに面白かったよね〜。初めて文太さんの漫画読んだけど、あんなカンジなのね。

 でも現実と嘘がごっちゃになってて、不思議な気分だったわ。妖怪のせいでヒロム達が集団下校とか、ホントになったらどうしようって読んでてドキドキしちゃった。

 あのどばちゅんを目撃したって証言したキー坊のクラスメイトのノッコちゃんって、ホントにいるのかな…?」

「先ほど確認が取れました」

「えっ?」

 オレとマヨ姉が揃って振り向く。

 真見はケーシーのポケットから出した自分のスマートフォンを指差して言った。

「キー坊君はまだ学校なので、外でキー坊君のお母さんに電話して聞きました。お母さんは私の鍼の患者さんですから」

 今この場を外していたのはその為だったのか。

「そ、それで何だって…?」

「お母さんはキー坊君のお友達を全員把握している訳ではないとしつつも、クラスメイトにそんな女の子はいないはずだとおっしゃってました。それにそもそも、彼の高校に漫画研究会は無いそうです」

「何だ〜良かった〜。ファンの女の子をあんな悪趣味なおっさんが仕事場に泊めるとか、マジだったら通報しようかと思ったわよ」

 さり気なく文太さんをディスるマヨ姉。

「それ以外にも事実と異なる要素は多いです。SNSにどばちゅんの目撃談を書き込んだ人はいませんし、足音を聴いたという人も勿論いません。

 私も美化されてますし」

「アハハ、真見ちゃんは美人よ。でもこんな男前な決め顔はしないかな。

 あたしも可愛く描いてくれてんのは嬉しいけど、ちょっと若過ぎて恥ずかし〜」

「そうやって現実を加工して、ちゃんとフィクションにしてるんですよね。それがきっと文太さんの作家としてのバランス感覚なのでしょう。

 だから、どうしても気になるんです」

「え?何が?」

 丸に『かおる』だけの顔には触れてくれないのかと思っていたオレは、きょとんとして真見を見る。

 前髪の隙間から覗く彼女の目の光は昏い。

「目撃者は架空の女子高生にしたのにどうして──


 被害者・・・実在・・人物・・なの・・でしょう・・・・?」


 それ・・はオレも気になったのだ。

 お好み焼き屋の轟天は本当にある。

 オレがランチで利用したのも実話だ。

 だから場所の記述が正確で、長髪と髭がトレードマークの店長が実在するのも知っている。

 真見が淡々と続けた。

「作中の文太さんは殺すのは誰でもいいと言っていました。

 しかし作者の文太さんはどうだったのでしょうか?

 さっきは自分を狂った殺人鬼として描くのが愉しいとの事でしたが、それだけだったんでしょうか?

 本当に殺したい相手・・・・・・・・・を漫画の中で殺したかった──その可能性はありませんか?」

 本当に殺したい…?

「そんな…文太さんと轟天の店長の間で何かあったっての?」

「いえ、具体的には知りません」

「だったら──」

 さすがに真見の考え過ぎだろう。そう言おうと思ったオレに、彼女は自分のスマホの画面を見せる。

「これはネットのグルメサイトなんですが、ここで地域の人気店として轟天が紹介されています。お客さんの口コミもおおむね高評価なんですが……」

 確かに五つで満点の星マークを三つ四つ付けている口コミばかりが並んでいる。最高の五つ星を付けて『紅生姜天しか勝たん!』と崇め奉っている人もいるくらいだ。


 だから目立つ──唯一の星一つ・・・が。

『住宅街にあるのに夜中まで騒ぐ常識の無い最低な店。次騒いだら通報します』


 オレと一緒にスマホを覗き込んでいたマヨ姉が声を上げる。

「ええっ?あたしもママ友の集まりで轟天よく使うけど、そんな話聞いた事無いよ?

 むしろあそこの店長もスタッフも騒いでる客がいたらちゃんと注意してくれるから、安心して行けるお店なのに〜」

 オレもそういう評判を聞いている。嘘の口コミを書き込んで嫌がらせをしているのだろうか?

 真見は静かにスマホを仕舞う。

「夜中にストーリーやアイディアを練る為にサイレント・ウォーキングをしている時、そんな酔っ払いの騒ぐ声が聴こえてきたら腹が立つでしょうね」

 え?

「そもそも今回の発端は、文太さんが聴いた『どばちゅん』のオノマトペでした。その時は烏頭先生も、自律神経の失調による三半規管の血行不良を疑ったでしょう?それで幻聴を起こしたのではないかと」

 それはそうだが……

「そんな聴覚異常の一つに〈聴覚過敏〉があります。

 その名の通り感覚過敏が聴覚で起きてしまい、身の回りの音が異常に大きく聴こえる症状です。

 本来私達人間は周囲で複数の音が重なり合う様な状況でも、聴きたい音とそれ以外の音を区別して認識しています。しかし聴覚過敏が起きると、音の区別が出来なくなったり、特定の音だけを必要以上に聴き取ってしまったりするのです。そうなると他の人には聴こえない様な小さな音でも非常に気になって、苦痛に感じたり、嫌悪感や不快感を覚えたりします。

 文太さんは繁華街を避けて静かな場所を散歩していると言ってました。轟天があるのはまさにそんな閑静な住宅街ですから、散歩コースに入っていてもおかしくありません。幻聴を起こすほど三半規管をやられていた文太さんが聴覚過敏も発症して、以前から騒がしい迷惑店だと誤認していた可能性は否定できません」

「じゃあ、この口コミは文太さんが…?」

「あくまでも憶測です。

 けれどそんな聴覚過敏が悪化してその苛立ちや不安がピークに達すると、その音と音を出している相手をと極端な感情を抱くケースもあるそうです。

 その願望を漫画の中で叶えたから、スッキリ・・・・したのかもしれませんね」

 嘘だろ…?

 だとしたら例えフィクションだとしても、歪んでいる……

「或いは──あの漫画はまだ絵コンテですからね。

 作中で殺人が起きるのは明後日あさっての日曜日ですけど、もしかしたら雪がチラつくかもしれないって天気予報が出ています。


 これから完成・・させる気かもしれません」


 無表情なので本気か冗談か分からない真見の言葉に、オレもマヨ姉も苦いモノを噛んだ様な顔になる。


 …ばちゅん……


 背を向けていた院内から何か聴こえた様な気がして、オレは振り向いた。

 何もいない。

「い、今、『どばちゅん』って聴こえた気が……」

「気のせいですよ」

 真見はそう言って、かぷかぷ笑った。 



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