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第三話  地縛霊の発痛点

 甲子園球場には魔物が棲む。

 そしてこのグラウンドには──


地縛霊・・・がいますね」


 黄昏時のナニモノカはそう言って、薄っすらとわらった。



「サイドランジー」

「ハイ!

 イチ・ニ・サン・シー…」

 夏空に子供達の声が響く。

「もっと左右に体重移動してー」

「ハイ!」

 オレのアドバイスに元気で素直な返事が返ってくる。可愛い。思わず頬が緩む。

 ここはオレが経営する整骨院〈ぎゃらん堂〉から自転車で十五分程の距離にある〈多目的スポーツ広場〉。陸上競技場や野球場、体育館等がある大きな市営の運動公園内にあり、金網のフェンスに囲まれた長方形の土のグラウンドだ。市民なら予約制で無料で借りられるが、大人がサッカーや草野球の試合をするにはちょっと狭い。

 だが軟式ボールを使う少年野球・・・・の試合なら充分可能で、目の前の子供達──小学生の野球チーム〈シラトリ野球部〉も、毎週ここで練習や試合を行なっていた。

 八月─お盆明けの土曜日、午後四時過ぎ。

 ぎゃらん堂ウチは土曜日の営業は午後三時までなのだが、オレはその終業後に野球部の練習にお邪魔して、ストレッチのやり方を指導していた。

「フロントランジー」

「ハイ!」

 キャプテンの六年生ユウタの指示に、彼を中心に輪になった十四名の少年少女が返事をする。その様子にユウタの隣にいるオレはまたニヤニヤしてしまう。上は六年生から下は二年生まで、小さい体でも真剣に頑張っている子供達が微笑ましくて仕方が無い。彼ら同様少年野球─正確には学童野球から始めて、中学、高校、大学まで野球一筋だったオレにとって、その光景は過去と未来が交錯する宝物だ。

「あ〜なんかニヤケてる、かおるちゃんセンセ!」

 ハッとして見ると、正面のヒロムがオレの顔を下から覗き込んでいる。

 今やっている〈フロントランジ〉は上半身は真っすぐ起こしたまま脚を大きく前後に開き、膝を地面スレスレまで落とすストレッチだ。オレも見本としてやっているので体勢は低いのだが、同じ動きを子供達がやると更に低く下から見上げる形になる。大人の威信を保つ為に俯いて隠そうとしていたニヤケ顔もすぐバレる。

 ちなみにさっきやっていた脚を大きく横に開き左右に交互に体重を乗せる〈サイドランジ〉とこの〈フロントランジ〉は、共に股関節の筋肉の曲げ伸ばしを行なってお尻の大殿筋だいでんきんや内もも大腿四頭筋だいたいしとうきん太腿ハムストリングス等の下半身の筋肉を鍛え、体幹を安定させる効果がある。どちらもスポーツの準備運動ウォーミングアップとして、怪我防止やパフォーマンスの向上に繋がる〈動的ダイナミックストレッチ〉だ。

「ホントだ、ニヤケてる薫ちゃんセンセ」

「何考えてんの薫ちゃんセンセ〜」

 ヒロムに続いて囃し立てる子供達にオレは苦笑するしかない。

 確かにオレのフルネームは烏頭うとう薫だ。 

 しかし彼らがそれをちゃん付けで呼ぶのは、ヒロムの影響である。

 二年生のヒロムはぎゃらん堂で働く受付のマヨねえの一人息子なのだが、そのマヨ姉がシングルマザーの為、放課後は小学校の敷地内にある学童保育施設か、母方の伯父おじ─ヒロムにとっては大伯父の家で母親の仕事の帰りを待つ。その大伯父というのがウチの整骨院が入るビルのオーナーのうえ様なのだが、彼の夕方の愉しみが刑事ドラマ『相棒』の再放送で、ヒロムは上様の家で留守番している時はいつもそのドラマを一緒に観ているそうだ。

 そしてその主人公の警視庁随一の切れ者刑事─杉下右京の相棒の刑事の名前が亀山薫─通称『薫ちゃん』なのである。寺脇康文という野性味のある男優が演じているのだが、大学まで野球をやっていた体力自慢の熱血漢、お人好しで、ちゃん付けで呼ばれる通り周りから慕われる人柄だが、刑事としての観察眼や推理力はどうも……ヒロムはしかしそんな脳筋男の薫ちゃんが大好きらしく、オレの名前を知った時には大喜びだった。以来顔を合わせる度に『薫ちゃんセンセ』と呼ぶようになり、それがチーム全体に伝播したのだ。

 確かにオレも薫ちゃん同様、バリバリの体育会系には間違いない。柔道整復師になったのも大学で右肩を怪我して野球を断念してから、そんな故障に悩むアスリートのサポートが出来たらと考えたのがキッカケである。誰かを助ける為に働きたい…曲がった事が嫌いな子供好き…亀山薫と共通点が多いのは認める。そしてこの野球部に指導に来るのも前回春に来て以来まだ二度目、それで皆に名前を覚えてもらえているのは素直に嬉しい。

 しかし…薫ちゃんセンセ……

 見ればグラウンドの端に集まった父母会の中にいるマヨ姉が、こちらを見てクスクス笑っていた。


「コラ、集中しろ。

 暑過ぎて練習時間短いんだぞ。メリハリ付けてキビキビやらないと」

 輪の外にいるコーチの一人──修造さんの喝が入った。

 それほど大きな声でもなく、口調もむしろ柔らかいのだが、途端に全部員がピリッとするのが伝わる。


 確かに最近の猛暑で屋外での運動は年々厳しくなり、このシラトリ野球部も夏休み中の八月は試合を組まず、練習も午前中の早い時間か日没前の二時間程度に制限している。それで今日もこのスポーツ広場を午後四時から六時まで借りているのだが、それでも現在の気温は三十度を優に超えていた。幸い広場の周りは林で木陰が多いのだが、暑過ぎて蝉も鳴いていない。集中してやらないと時間も体力も削られてしまう。

 しかし子供達の態度が変わったのはそんな事情を忖度したと言うより、修造さんとの関係性だろう。

 本名ではない。確か佐藤さんか鈴木さんだったと思うが、人の名前を覚えにくいオレの習性でマヨ姉や上様同様、その人の特徴から付けたアダ名だ。彼も息子が小学生の頃に選手とお父さんコーチとして一緒に入部したそうだが、その息子は既に成人している。それでもOBコーチとしてずっと部に残り、指導を続けてくれているという。五十代の会社員だそうだが、この活動の為に日課のランニングを欠かさない細身の筋肉質で、日焼けした顔付きも若々しい。白い練習着にチームロゴ入りの帽子を被って、輪の外でも選手と同じストレッチを誰よりも張りのある声を出して『イチ・ニ・サン・シー』とやっている。

 まさに夏の似合う熱血コーチ──だから修造さん・・・・なのだ。

 と言ってもオレは前回のストレッチ指導の時に初めて遭ったばかりなので、さすがにこのアダ名は内心こっそり呼んでいるだけだが…。

「整骨院の先生も忙しい中わざわざ来てくれてるんだから、しっかり教わろうぜ」

「ハイ!」

 修造さんの言葉に一段と大きな返事が返ってくる。その熱血ぶりが子供達にも伝わり信頼されているのだ。周りには現役部員のお父さんコーチが五人いるし、その後方では既に還暦を過ぎたベテランの監督さんがニコニコと見守っている。しかし実質的にこのチームをまとめているのは修造さんだと言っていい。


 オレはそんな修造さんに向かって頷きながら補足する。

「そうだよ、このストレッチちゃんとやらないと、怪我減らないからね」

「ハイ!」

 ──そう、そもそもオレがこのチームにストレッチの指導をする事になったのは、今年初めに開業したぎゃらん堂にシラトリ野球部の部員達が立て続けに来院したのがきっかけだ。マヨ姉が息子のチームメイトに紹介してくれたからなのだが、それにしても投球で腕を傷めた、バッティングで脇腹を捻った、走塁で足を挫いたと、入れ替わり立ち替わりやってくる。スポーツに怪我は付き物とはいえこれはちょっと多いなと思い、マヨ姉に確認してみた。ヒロムは今年入部したばかりだが、それ以前はどうだったのか──すると何年もこんな状態が続いていて、肝心な時に故障者が出てチーム成績も伸び悩んでいるという。

 監督、コーチは皆別に仕事を持っているボランティアながら熱心に指導してくれていて、そういう面では選手も保護者も不満は無いそうだ。ちゃんと全員スポーツ保険に加入していて、怪我人が出た時の対処も早い。特に修造さんはいつも全員に目を配ってくれていて、応急処置は勿論、動けなくなったコをおんぶして病院に走ってくれたり、怪我が治るまでの間チームとは別メニューの練習にずっと付き合ってくれたり、父母会も彼には特に感謝しているという。しかし──

『子供達は仲良くやってるし、チームの雰囲気も悪くないんだけどねえ……』

 そう溜息をつくマヨ姉も、せっかく野球を始めたヒロムを応援したい気持ちと心配とがぜになっていた。

 そしてそれはオレも同じ。何せヒロムに野球を勧めたのは他ならぬオレなのだ。


 だから提案したのである──ストレッチを見直してみたらどうだろうかと。


 スポーツや医療の分野におけるストレッチとは、筋肉を良好な状態にする目的でその筋肉を引っ張って伸ばす行為の事である。筋肉の柔軟性を高め、関節の可動域を広げる他、呼吸を整えたり精神的な緊張をほぐす効果もある。

 そしてそのストレッチには大きく分けて二種類あり、それが〈動的ダイナミックストレッチ〉と〈静的スタティックストレッチ〉だ。

 前述の通り運動にやるべきなのは動的ストレッチで、逆に静的ストレッチは運動に筋肉をゆっくりと伸ばし、柔らかくして可動域を広げる事で筋疲労を緩和させて怪我を防止する。こちらは練習の最後にクールダウンとしてやるべきなのだ。

 ところがかつてはこの静的ストレッチが『運動の実施でその後の怪我を予防してパフォーマンスを発揮できる』と言われていた。確かに素人考えだと、筋肉をじっくり柔らかくしたらいかにも怪我をしなさそうに思えるかもしれない。しかし現在では静的ストレッチで可動域を一時的に広げるのは、力の伝達をロスしたり関節が不安定になって怪我を発生しやすくするというのが、専門家の間では常識になっている。

 それで春先に練習にお邪魔してストレッチを見せてもらったら、案の定、最初のアップでアキレス腱をゆっくり伸ばしたり、座った状態で開脚して上半身を前屈したりという、静的ストレッチばかりやっていた。昭和の創部時からチームに伝わっている準備運動だそうだ。それが全ての怪我の原因ではなかろうが、明らかに一因にはなっているだろう。オレは監督やコーチ、父母会にそう伝えて、動的ストレッチに変えるよう提案した。子供を預けている親達は知識が無かった為に驚き、監督も代々続けてきた伝統に問題があった事に戸惑っていたが、いち早く反応したのは修造さんだった。

 自分もコーチングを勉強して動的ストレッチについても知っていた、変えるべきだと思っていたと──

 その修造さんの言葉に子供達も父母会も『流石だ』と沸き立ち、監督や他のコーチも賛同してくれたので、オレは小学生の体格と体力に合わせて考えてきた動的ストレッチのメニューをチームに伝授したのである。


 そして今日数ヶ月ぶりに来てみたところ、子供達はそのストレッチのメニューをしっかり覚えて実行してくれている。嬉しい限りだ。

 フロントランジに続きその場で太腿が地面と平行になる状態までしゃがむ〈空気椅子〉で骨盤を整えたオレ達は、次に地面に両手を着いて腕立て伏せをする様な体勢を取った。ここから背中を丸めお尻を上げ、続けて体を前方に反らす〈キャットアンドドッグ〉を行なうのだ。この背骨の関節の可動域を広げるストレッチは、名前の通り猫と犬の動きを合わせた様な──

「じゃあ次、アザラシゴリラー」

「ハイ!」

 思わずズッコケる。勝手に名前が変わっていた。しかし言われてみればゴリラの様に両手を着いて、アザラシの様ににょ~んと体を反らす動きなので間違っていない。子供の発想力はやっぱり面白い。

 やっぱりこのコ達に怪我なんてさせたくない。

 しかし──


「捻挫の場合のテーピングは、捻ったのとは逆の方向に引っ張るように固定します。

 テープは角丸かどまるにして──あ、角を丸くカットする事です。

 剥がれにくくなるのと同時にチクチクしたりかぶれたりするのも防げますから……」

 背後でボソボソと説明している声がする。

 ぎゃらん堂で働く鍼灸師──菜倉なくら真見まみだ。

 前回の春の時はまだウチにいなかったが、今回は父母会のママさん達に応急処置の仕方を教えてもらう為に同行してもらった。勤務時間外なので無理は言えなかったが、事情を話したら積極的に来てくれたのでありがたい。オレは痛みに苦しんでいる人がいる限り、休みだろうが何だろうが助けてあげたいと思っている。それが柔道整復師としての使命だと自負しているが、真見もオレより十歳も若いキャリア三年の鍼灸師ながら、この三ヶ月程の仕事ぶりを見ていてもしっかりした技術と矜持プライドを持ち合わせた尊敬すべき同僚である。

 そんな彼女がウチに来る以前、幾つもの整骨院や鍼灸院を短期間で馘首クビになっているのは不思議なのだが…。

 二人共仕事を終えてそのまま来たので白い医療用ユニフォームのケーシー姿のまま、真見は長い髪を後ろで束ねてポニーテールにしている。細身で色白、いつも俯き加減の無表情……残暑と言うにはこく過ぎる日差しを避ける為に一塁側の端っこに簡易テントが立ててあり、テーピング講座はその下で行なわれているのだが、それにしても彼女の周りだけ日陰が濃い気がする。

 テーピングの仕方を教える前には、捻挫や打撲、肉離れ等の外傷を受けた際の応急処置の基本──〈RICEライス処置〉についても説明していた。

 REST─安静。

 ICING─冷却。

 COMPRESSION ─圧迫。

 ELEVATION─挙上。

 この四つの処置の頭文字から名付けられたRICE処置は、 受傷直後、早期に行なう事で患部の内出血や腫れ、痛みを抑え、快復を助ける効果がある。

 例えばボールを取り損ねた突き指ならすぐに運動を中止して『安静』にし、症状を抑える為氷を入れた氷嚢ひょうのうやビニール袋で指を『冷却』、テーピングや包帯で固定して『圧迫』し、血液が集まって内出血が悪化しないよう手を心臓より高く持ち上げる『挙上』を行なうのだ。

 前回オレが来た時にはストレッチを教えるだけで時間が無くなり、応急処置については『とにかく傷めたら冷やせ』しか伝えられなかった。それを今回真見に細かく教えてもらう事にした理由──


 シラトリ野球部の不幸・・はまだ続いていた。

 不可解なほどに。


 勿論、準備運動のストレッチを動的に変えても絶対に怪我をしない訳ではない。しかし効果はあった。以前の様な投げる、打つ、走るの基本動作をしているだけで故障する選手は減ったのだ。

 ところがその代わり、予想外の事故が増えたという。


 例えばボールが当たったりした場合、応急処置として〈コールドスプレー〉を使う。これは液化ガスやエタノール等の液体が気化する時に熱を奪う原理─気化熱を利用していて、この冷たいスプレーを噴き掛ける事でボールが当たった皮膚の表面温度を下げ、痛みや腫れを抑える。試合では一塁と三塁の脇のスペースに走者ランナーの指示役として別の選手がランナーコーチに入るのだが、そのうち一塁コーチャーはこのコールドスプレーを携帯して、デッドボールで塁に出たランナーの患部を冷却してあげる役割がある。

 練習試合で腕にデッドボールが当たった六年生部員がこのコールドスプレーを受けた際、急に悲鳴を上げた。一塁の審判をやっていた修造さんが確認すると、そのコは腕が痛いと必死に手でこすっていたという。コールドスプレーは即効性がある反面、冷た過ぎるので直接素肌に使用してはいけないという注意点がある。ユニフォームやアンダーシャツの上から、長くても三秒以内の噴射に留めなくてはならない。しかしその時は初めてランナーコーチをやるという三年生が素肌に十秒近くスプレーを使ってしまい、凍傷になってしまったのだ。非常にレアな事故である。

 痛がる六年生ランナーを見て一塁コーチャーの三年生は泣き出してしまったそうだが、そこで修造さんは試合を止めて二人を慰め、六年生の腕はぬるま湯に浸したタオルで温めてあげたという。偶々たまたまコーヒー用に持ってきていた小型ポットのお湯を使ったそうで、凍傷の処置としては完璧だ。その六年生の両親も修造さんに感謝しきりだったという。


 また朝から一日活動する時には部員はお弁当を持ってくるのだが、その際怖いのがやはり暑さだ。今年は梅雨前から保冷バッグに入れてあったお弁当が傷んでしまい、それを食べたコが腹痛や嘔吐に襲われてしまう事が度々あったという。去年までは一度も無かったのに…。

 そういう時もいち早く気付いてくれるのは修造さんで、グッタリした子供を見守り当番のママさん達の所に連れていって『誰々が吐いちゃったので面倒見てあげて』と託しては、本人は吐瀉物を黙々と処理する。ママさん達は感激してやはり修造さんに繰り返しお礼を述べたそうだが、父母会は不安と疑念で頭を悩ませていた。確かに原因は酷暑だが、当然選手本人も周りもそれを承知していて、充分気を付けていたはずなのだ。


 そして一番不可解なのは、ストレッチを見直したにも関わらず、足の・・怪我・・だけ・・という事──


 先月マヨ姉からそんな話を聞き、オレはどうにも落ち着かなかった。勿論、常識的に考えればどれも偶然が引き起こした事故だ。しかし……

 その話を聞いた直前にも、レギュラーのショートを守る六年生のシンが練習中に足を捻挫したとヒロムが話していたという。


─シンくんはね、守りの天才なんだよ!ボクにもゴロのとりかた教えてくれてね。えっと、体ひくーくして、左足の前にグローブを立ててかまえるんだよ。シンくんはそれでサッとボールとって、パッとステップして、ビュンってなげるの。カッコいいの!

 でもノックしててね、いつもみたいにショートでカッコよかったのに、急にころんじゃったんだ。なんかにつまずいたみたいでさ。それで足ひねって、いたい〜って…。

 だけど、なんにもないとこだったんだよ?

 コーチが見てくれたけど石とかもなんにもなくて、なのにあの天才のシンくんがころぶなんて、おかしいよっ……


 なんにもなかったのに──


 これはもう一度チームの様子を見に行くべきではとマヨ姉と話していたら、真見が自分も行くと言い出した。鍼灸師としての使命感が言わせたのは間違いないだろう。

 しかし彼女はこう付け加えた。

『ただの怪我じゃないかもしれません』

『え?』

『確証が無いので詳しくは言えませんが……


 シラトリ野球部には魔物・・が取り憑いていると思います』


 ──そして後日、オレ達はチームに連絡して日程を擦り合わせ、今日を迎えたのだ。



「うん、皆しっかりやってくれてるね。準備運動は問題無いよ」

 ひと通りストレッチを確認し終わったオレの言葉に子供達は得意げに、大人達は安堵して笑みを浮かべる。真見のテーピング講座も既に終了していた。

「専門家の方にそう言ってもらえると嬉しいですね。やったな皆!」

「ハイ!」

 修造さんと子供達が盛り上がる。

「よーし、それじゃ全員でお礼言って──」

 オレは笑顔で修造さんを遮った。

「せっかくだから練習、最後まで見ていってもいいスか?

 良かったら練習後の静的ストレッチも指導しますよ」

「あ、それは嬉しい!ねえ監督?

 専門家が無料タダで見てくれるなんてラッキーですねーっ♪」

 オレの提案にマヨ姉が間髪入れず賛同する。タダ発言には苦笑いするが、まあそれは最初にストレッチを指導した時にオレの方から謝礼など要らないと断ったから構わない。

 押しの強い茶髪の陽キャママにおねだりされた好々爺の監督は、目尻を下げてニコニコと頷いた。

「そうですなあ、是非お願いします。練習メニューも改善点があるかもしれんし」

「そうよ〜、センセはバリバリの野球選手だったんだから。ね、ヒロム?」

「うん、ボク薫ちゃんセンセとキャッチボールしたい!」

「いいな、俺も!」

「あたしも!」

 マヨ姉の言葉にヒロムだけじゃなく、五年生のトモキや四年生女子のメイまで反応する。更に他のコ達も騒ぎ出したので、オレは両手を挙げてそれを制した。

「キャッチボールはまた今度ね。今日は練習時間短いんだから。

 それより同じ野球選手として、皆のカッコいいとこいっぱい見たいな」

 オレがそう言うと子供達の顔付きが変わった。ちょっと照れくさそうな、でもどこか誇らしげな……

 黙っていた修造さんがパンパンと手を叩く。

「よーし、それじゃシラトリ魂見せちゃおうか。

 給水したらキャッチボールいくぞ!」

「ハイ!」

 選手もコーチも近くに置いてあった水筒から水分を摂り、一塁側のテント前に並べてあるグローブを取りに走る。

 オレも水分補給をしようと思っていると、音も無く背後に忍び寄った真見が水のペットボトルを差し出した。

「あ、ありがと…」

「さあ確かめましょう。

 魔物・・の正体を」


 ジリジリジリジリ……

 不意にアブラゼミが鳴き始めた。


 シラトリ野球部には魔物がいる・・・・・──

 真見の言葉を最初に聞いた時はオレもマヨ姉も、『は?』とか『へ?』とか変な声を出した。確かに偶然の事故が重なり過ぎて嫌なカンジはするが、いきなり魔物とは……

 しかし、やがてピンときた。野球で魔物と言えばあれ・・だ。


『甲子園には魔物が棲む』


 野球ファンには有名な話である。好投を続けていたピッチャーが最終回に大きく崩れたり、無名の弱小校が強豪校をあっさりと打ち破ったり……そんな原因不明、理解不能な展開が、高校野球の聖地─甲子園球場では意外と高確率で起こる。そんな時選手も観客も、魔物の見えざる手の気配を確かに感じるのだ。大舞台のプレッシャーがそうさせるのだろうと思われがちで、実際にそれも一因ではある。

 しかし自身が野球に深く関わったオレは、実は意外な要因がある事を知っている。

 高校野球の甲子園大会の場合プロ野球とは異なり、一日で三、四試合が行なわれる。前の試合が長引けば次の試合が遅れてしまう。必然的に審判員は試合を早く終わらせようと考える。かと言って当然、大差のコールド負けにならない限り九回まで試合を続けなくてはならないし、ツーアウトでチェンジにする訳にもいかない。すると試合の端々で急ピッチに展開を進める巻き・・が必要になる。

 例えばアウトを取った後ランナーがいない場合に、守備側の選手はボール回しをよくやる。ピッチャーとキャッチャー以外はボールに触れる時間が少ないので、体をほぐしたりリズムを作る為のルーティンとして有効なのだ。しかし試合時間が押してくるとこのボール回しが認められなくなる。

 更には審判からの掛け声も変わる。攻守交代チェンジの度に審判はそれぞれベンチに『元気よくいこう!』などと声を掛けてくれるのだが、それが急ピッチの試合になると『急いで』とか『走って』とかかす言葉が増えていく。それまで励ましてくれていた審判の態度が急に叱責に変わって、戸惑う球児も多いだろう。

 極め付けがストライクゾーンの拡大だ。試合を早く進めるためにボール半個から一個分、主審の裁量でストライクゾーンが拡大するのだ。雨が降ろうものなら更に広がる。中断になる前に終わらせたいからだ。オレも現役時代、そんな『謎のストライクゾーン拡大』に悩まされた。甲子園には行けなかったが、一日の試合数が多い大会に参加すれば同じ現象に見舞われる。そうやって審判が試合を終わらせたがっているのに気付いたら、バッターは多少ボール気味でも振っていくしかない。それで強打の実力校が早打ちで凡打を重ね、負けてしまったりする訳だ。

 そんな無理な時間短縮が焦りやミスに繋がり、試合展開に影響する──これが魔物の正体である。


 そしてオレはこの魔物が、選手の怪我にも影響していると思うのだ。


 甲子園大会は今まさに夏の大会真っ最中だが、近年は猛暑対策で試合と試合の間隔を開けたり、試合中の休憩時間を増やしたりしている。ただそうすると試合時間が延びて試合数がこなせなくなるので、将来的には九回制でやっている試合を七回制にする案も検討されている。野球の醍醐味が失われるという反対意見もあるが、オレはそれもありだと思う。

 何故なら無理な巻き・・は、選手の故障にも繋がるからだ。ピッチングにしてもバッティングにしても自分のタイミングで動作に入らなければ、想定外の部位に負荷が掛かってしまう。

 アメリカのメジャーリーグでは集客率を上げる為に観客を飽きさせないよう、試合時間の短縮を大命題に掲げている。それで生まれた制度がピッチャーの投球間隔を制限する〈ピッチクロック〉だ。ランナーがいない場合は十五秒以内、ランナーがいる場合は十八秒以内に投球動作に入らなければならないというこの制度には、 違反するとボールカウントが一つ追加されるペナルティがある。これで確かにメジャーの試合時間は大幅に短縮された。だが同時に肘や肩を壊すピッチャーが増えたとして、選手から懸念の声が多く上がっているのだ。

 日本でも社会人野球でこのピッチクロックが導入されているが、それが成長過程の高校野球や中学野球、少年野球にまで広がってきたとしたら、怪我の発生率はきっと上がるだろう。だから……


 ジリジリジリジリ……


 そんな風に子供達をかして怪我を誘発させている魔物・・が、ここ・・にいるとしたら──


 子供達は二人一組でキャッチボールを始めた。十五人なので一人余り、ヒロムより後に入った新米の二年生は修造さんとキャッチボールをしている。だが実際にはこのチームの部員数は二十四人である。九人足りない。夏休み中の土曜日とあって、そのうち四人は家族旅行等で休みだ。

 けれど他の五人はまだ完治していないシンを含めて全員脚部──足首の捻挫や膝の打撲による欠席だった。

 本来野球でよくあるのは投球動作による肩や肘の故障で、特に体が出来上がっていない選手が未熟なフォームで投げる事で発生する〈野球肘〉が少年野球では最も多い。投球動作による負担で肘に炎症や損傷が発生し、痛みや可動域の狭まり、腫れ等の症状が出る。悪化すると疲労骨折や軟骨炎を引き起こし、最悪の場合は手術が必要になるので早期発見が重要で、シラトリ野球部が所属する地域の少年野球連盟も年に一度チーム単位での肘の検診を義務化していた。だから五人が野球肘で休んでいるというなら、まだ頷ける。

 だが揃って脚部あしとは不自然なのだ。

 勿論そういう偶然もあり得るが、そこに魔物・・が絡んでいるなら許せない。


 しかしキャッチボールでは特に変わった事は起きなかった。


 キャッチボールを終えた部員達はまた給水をし、それぞれ監督に指示された守備位置に散った。

 次はノックを受けるのだ。

 最初にサードでゴロをさばいた体格の良い五年生のリキヤが、ファーストの六年生ミツキに送球する。体が固いのか捕球時は腰が高かったが、肩が強いようで良い球が行く。

「ナイスプレー!」

 修造さんの大きな声と共にテントの下のママさん達からも拍手が起こる。しかしその脇に立っているオレは緊張していた。

 シンはショートの守備練習ノック中に、何も無い所でつまずいて足を捻ったのだ。

 ショートの守備範囲は二塁ベースと三塁ベースの間である。今もこのスポーツ広場にはチームが持ち込んだゴム製のベースが置いてあるが、その塁間には確かに何も無い。シンが怪我した時もコーチ達が確認しても何も無かったというが、それはそうだろう。普通の広場なら石や木の枝等が落ちている事もあるだろうが、公共の施設であるこの場所は普段からキチンと管理されていて、使用した後には必ず整備をしなくてはならないのだ。今見ても地面に選手のスパイク跡が付いているだけである。ここで躓く事があるとすればベースに足を引っ掛けた時だろうが…。

 人数が守備位置ポジションの数より多いので、四年生のテッペイと共にヒロムもショートを守っている。先にノックを受けたテッペイが、三遊間の速い打球に反応が遅れて捕り損ねた。直後に鋭い声がする。

「コラ!よそ見してたろお前っ!」

 ビクリと背筋を伸ばすテッペイ。

 声の主はコーチをやっている彼のお父さんだ。

「シンがいないんだからな、次の試合もお前がショート守るんだぞ!ちゃんとやれ!」

 ちょっと厳し過ぎるな…そう思っていてハッとした。テッペイはシンの代わりにレギュラーのショートを任されたらしい。

 つまり、シンの怪我でこの父子おやこ

(まさか……)

 見れば他のお父さんコーチも皆、我が子に熱い視線を向けていた。親として子供に活躍して欲しいのは当然だろう。それを応援したくて、自らもコーチとして休日を潰してまでチームの運営に関わっているのだ。

 だがそんな親心が、自分の子だけ・・が活躍すればいいというエゴに化けてしまったら…?

 残念ながらそういう親絡みの揉め事は、子供のスポーツでは結構ある。監督に贈り物をして、息子をレギュラーにしてくれと頼む。それが叶わなければよそのチームに移ると脅す。生々しい話だが色仕掛けをするママさんまでいるらしい。

 そんなエゴの果てに、誰かを傷付けてでも我が子にレギュラーを獲らせたいと思ってしまったら──


 このコーチ達の中に魔物・・がいるのか?


 テッペイに続き、監督が緩く打ってくれたゴロを必死に前に出て捕ったヒロムは、山なりのワンバウンドながら一塁に何とか送球した。

「いいぞヒロム!」

 再び修造さんが声を掛ける。既に息子が卒団して久しい彼には、選手は平等に可愛いのだろう。そこは現役コーチとは立場が違う。彼には『我が子だけ』というエゴは無い。

 笑顔を見せるヒロムにマヨ姉が手を叩く。

 オレもいったんホッとするが、再び気を引き締めてコーチ達の様子を伺う。今の修造さんの様な声掛けなら問題ない。

 だがもし、お父さんコーチの誰かが、狙っている選手の番で叫んだりして焦らせたら、それで躓いて怪我をする事もあるかもしれない。


 魔物・・はいつ仕掛けてくるのか…?


 しかし結局、ノックも何事も無く終わった。


 選手達は五分間の休憩の後、ヘルメットを被って一塁ベース脇に並ぶ。野球ではバッターは勿論、ランナーもヘルメットを被る。これから走塁練習をするのだ。

 走塁練習……

 オレはゴクリと生唾を呑む。

 ホームベース地点でバットを構えた監督が、コーチに向かって指示を出した。

「じゃあ私がノックするから、コーチの皆さんは守備に付いてください。ランナーはその打球を見て、走るか走らないか判断するんだぞ」

「ハイ!」

 監督に言われた通りコーチ達はそれぞれ守備位置に散るが、九つのポジションに対して全部で六人しかいない。ノック形式なのでとりあえずピッチャーは要らないし、キャッチャー役もノッカーの監督が打ち終わってからこなせるが、あと一人足りない。見れば内野の守備の要──ショートが空いている。

「どなたかショートを…」

 監督の言葉に外野の三人が顔を見合わせた。少年野球のお父さんコーチは意外に野球未経験者が多い。親の意向で始めさせるならともかく、子供が自発的に何のスポーツをやりたがるかは全くの未知数、両親共に縁の無い予想外の競技を選ぶ事はままある。それでも例え球拾いだけでも、親は子供のサポートをしてあげたいのだ。その類いのコーチ達が遠慮して外野に行っているのだろう。どうするのかと思って見ていたら、背中に視線を感じた。

 振り向くとまた真見が忍び寄っている。

 今度はグローブを持って。

「そうよ、センセがいるじゃない!」

「わあっ、薫ちゃんセンセが守るの?」

「えっ、いや…」

 マヨ姉とヒロムの歓声に動揺していたら、真見がボソリと囁いた。

「近くで見極めてください」

 そうか──

 オレは頷いてグローブを受け取る。

 そのままグラウンドに出ようとすると、真見に呼び止められた。


「あと、ひとついいですか?

 私は野球に詳しくないのでお訊きしたいのですが──」 


 部員と父母会の拍手に送られて、オレは借りたグローブを嵌めてショートの守備位置に付いた。さっき一緒にストレッチしたから準備運動はしているが…試しに一球ショートゴロを打ってもらう。何とか捌いてファーストに送球すると、それなりの速い球が行った。子供達が「おおっ」とどよめく。肩を傷めて引退したオレでも、少年野球用の軽いJ球なら投げられるのだ。セカンドの修造さんが笑顔でサムアップしてきたので、「どうも」とお辞儀を返した。緊張しながら腰を落として構える。コーチ達の中に魔物・・がいるのなら、確かに今はグラウンド内にいた方がいい。


 シン以外の四人の部員達が足に怪我を負ったのは、全て走塁練習中だったのだ。

 ここ・・で動く可能性は高い──


「よーし、ノーアウト一塁からな」

 監督の合図と共に最初のランナーとしてキャプテンのユウタが一塁ベースを踏み、続けて低い姿勢でリードを取る。

 カキィンッ。

 監督が打った鋭い打球がライナーでセンターとレフトの間に飛び、ユウタはスタートを切った。好判断だ。ボールが左中間を転がっている間にユウタは二塁を回り、スライディングする事なく悠々三塁に到達した。

「オッケー次!」

 その後も次々とランナー達が塁間を駆け回る。それぞれが自分の走力と打球の行方を見極めながら、ある者は二塁、ある者は三塁へ。チーム一の俊足だという六年生のショウタはライトが頭を越された打球を追いかけている隙に、一気にホームインした。

「ナイスラン、ショウタ!」

 修造さんの賛辞にガッツポーズで応えるショウタ。

 良い雰囲気だ。

 オレもつい楽しくなってショートライナーを横っ飛びで捕り、白いケーシーが土まみれになった。ちょうどランナーだったヒロムが慌てて一塁に戻る。オレが一塁に投げてランナーが戻るのが間に合わなかったら、ダブルプレーになるところだ。

「おっ分かってるなヒロム、優秀優秀♪」

「もおっ走れないじゃん、薫ちゃんセンセ!」

 ヒロムの抗議とママさん達の拍手に、オレは手を挙げて笑う。

 もう一度監督が今度はセンター前ヒットを打って、ヒロムは一生懸命走ったが、二塁に入った修造さんにセンターからボールが返ってきてアウトになった。

「おいおいヒロム、ちゃんとスライディングしなきゃ。教えたろ?低い姿勢で走ってきて足から滑る」

 修造さんに言われたヒロムはペコリと頭を下げて、先に終わった選手達がいる三塁側のファウルゾーンに走っていった。

 これで十四人が走り終わった。残るはヒロムの唯一の後輩・・の二年生──マキオだ。身長はヒロムと変わらないが痩せているので、彼が被るとヘルメットもブカブカである。

「マキオーがんばれー!」

 三塁側の先輩達の声援に、マキオは頬を赤くして口を真一文字に引き締める。本当に可愛い子供達だ。

 カキィ。

 監督の打ったボテボテの打球が、ピッチャーマウンド前に転がる。このケースはゴロなら必ず走らなければいけない。まだ入部間もない新人に自信を付けさせる為に、判断しやすいモノにしたのだろう。マキオも迷わず走った。

「いいぞマキオ!」

 子供達が沸く。ピッチャーゴロだがそのピッチャーが今はいないので、ショートのオレが急いで前に出る。同じ野球選手として手を抜くのは失礼だ。そう思いつつ捕球して振り向きざまに二塁に送球しようとしたが、その時にはマキオはもう、二塁ベース手前でスライディングしようとしていた。足の速いコだ。

(やるじゃん──)

 オレが思わずニヤリと口の端を上げた時。


 マキオの体が前につんのめった。

 まるで何かに躓いたかの様に。


 小さな体はそのまま二塁ベース上にうつ伏せに倒れ込んだ。脱げたヘルメットが地面に転がる。

「あっ!」「キャアッ!」

「うわああんっ……」

 ママさん達の悲鳴に重なってマキオの泣き声が響いた。オレからの送球を受ける為二塁に入ろうとしていた修造さんが、即座に彼のそばに屈み込む。

「マキオ、大丈夫かっ?」

「わああんっ……」

 マキオは泣き叫びながら右足首を押さえている。

 オレも叫ぶ。

「テントの所まで運びましょう!」

「よし行こう、マキオ!」

 修造さんはマキオを抱えて一塁側に走る。

 オレも転がったヘルメットを素早く拾って後を追いながら、父母会に向かって指示を出す。

「氷嚢を用意して。それからテーピングも。

 横に寝かせて足を高く上げられるスペースを空けてください!」

 テントの下に広げたブルーシートに寝かせたマキオの周りを、全部員とコーチ、父兄が大きな輪になって取り囲む。オレは彼らの視線を浴びつつRICE処置を施した。

 マキオは右足首の軽い捻挫で、とりあえず十五分程冷やす事にした。付き添っているマキオのママは、オレと修造さんに涙目で何度も頭を下げている。しかし応急処置が終わっても皆動こうとしない。子供達は心配そうにマキオの周りに座り込み、大人達はヒソヒソと囁き合う。あまりに続く不幸にこの場の誰もが、何か禍々しいモノを感じているのかもしれない。

 オレも混乱していた。てっきりコーチの誰かが何かすると思っていた。しかしマキオが転んだ瞬間、誰も近くにいなかったし、声も出していなかった──

『シンくんがころぶなんておかしいよ。

 なんにもなかったのに……』

 マキオも同じだった。

 足を怪我した全員がそうだったのか?

 そんな…まさか……

 教えてくれ、真見クン──


 ここには・・・・本当に・・・魔物が・・・いる・・


地縛霊・・・がいますね」


「え?」「は?」

 皆振り向いて声の主を見る。

 テントの外、真見は独り離れて立っていた。

 いつの間にかポニーテールをほどいて俯いているその顔は、長い髪で隠されて口元しか見えない。既に時刻も五時半に迫り、背にした夕陽にその姿は昏く霞んでいく。

 オレは恐る恐る彼女に歩み寄る。

「ま、真見クン、一体何言って…」

 魔物の正体が地縛霊だとでも──

 ゾクリ。

 近付いて見たその表情に凍り付いた。

 さっきまでは確かに見知った彼女だったはずだ。けれど──

 微笑わらっている。

 真見は仕事でもプライベートでも基本無表情なのだ。よっぽどじゃないと笑わない。見間違い…?

 いや。

 黄昏に輪郭を溶かしたナニモノカが、薄っすらと嗤っている。


 ジリジリジリ……

 アブラゼミが騒ぐ。


「……ある男性が夜の街を歩いていると、高層マンションの前の舗道にうずくまっている女性がいたそうです。

 暗い街灯にボンヤリ照らされているのは、どうやら赤いドレスの髪の長い若い女性。

 男性は具合でも悪いのかと思って近付くのですが、彼女はどうも地面を両手でまさぐって、何かを一心に探している様子です。彼は尋ねます。

『探し物ですか?』…」


 突然、真見らしきナニモノカが話し始めた。

 オレも含めて誰もが唖然として、黙ってその話を聞いている。聞くしかない。


「すると彼女は顔も上げずに言うのです。

『見えないんです…落としてしまったんです……』

 ああ、コンタクトレンズを落としたのか──彼は納得して、同情します。こんな夜中にそれは災難だと。それで一緒に探してあげようと屈みますが、街灯の明かりだけでは自分の手すらよく見えない。これではラチが明かないと、彼はスマホのライトをオンにして辺りを照らします。そして気付くのです。

 彼女のドレスは確かに赤い。けれど何故かその赤は所々薄かったりドス黒かったり、変なムラ・・があるのです。そして裾や袖が破れているし、髪も何だか濡れている……」


 嫌な予感がしてきた。

 オレの背後の皆も息を呑んでいる気配が伝わる。


「彼は恐る恐る彼女に訊きました。

『貴女は何を落としたんですか…?』

 彼女は繰り返します。

『見えないんです…落としてしまったんです……』

『だから何を…?』

『見えないんです……』

『だからっ…』

 恐怖を感じた彼が思わずライトを向けた先で、彼女は初めて顔を上げます。


 その赤黒い涙を流す両眼の部分には、ぽっかりと黒い穴が開いていました。


『落としてしまったんです……』」


「ひっ…」「キャアアッ!」

 またグラウンドに悲鳴が響く。

 恥ずかしながらオレも相当ビビった。何で急にそんな話をするのだ。貞子サダコっぽいビジュアルだけでもう怖いのに。


「…彼は後日、そのマンションから飛び降り自殺をした若い女性がいた事を知ります。かなり高い階から墜ちたそうなので、相当悲惨な結果になったのでしょう。


 以来その舗道では、よく通行人が転ぶそうです。

 登下校中の小学生から散歩をする高齢者まで、何も無いはずの舗道の真ん中で、急に何か・・に躓いて転ぶ──きっとそこに視えない誰かがまだ蹲っていて、探し物をしているのでしょうね」


 ──え?

『なんにもなかったのに』

 オレは思わず二塁の辺りを見た。

 まさか、そんな事…?

 真見らしきモノはまだ笑みを浮かべて立っている。やはりいつもの彼女とは違う。いつもならこんな怪談ではなく、『何故そんな事まで知ってるのか』という蘊蓄ウンチクを語り出すのだが……まさかその地縛霊とやらが取り憑いて──


「〈地縛霊〉という言葉は一九七〇年代のオカルトブームを牽引していた第一人者で、ドキュメンタリー作家であり超常現象の研究家でもあった中岡俊哉氏の造語です。近年では一部の国語辞典にも掲載されているくらい一般的になっていますよね。

 その地縛霊の定義は一言で言えば『自分が死んだ事を受け容れられていない霊』です。

 戦争や事故、災害等で突発的に亡くなった場合、人は自身の死をなかなか受容できない。また恨みや憎しみの感情を抱いて死んだ者も、そうした悪感情にのみ囚われて他の事──死すら意識の外に弾き出す。また自殺者は自分が死んでいないと思い込み、同じ場所で何度も自殺を繰り返す。こうした霊達は死の自覚を持てるまで何十年、何百年という時間を要し、それまでずっと地縛霊として地上近くに留まるのです。


 私はこの『地縛』というのは、日本各地を始め朝鮮半島にも分布するキク科ニガナ属の多年草〈地縛ジシバリ〉からきているのではと思っています。別名で〈岩苦菜イワニガナ〉とも呼ばれるこの植物は畑や土手等の地面に低く広がって枝を伸ばし、その節々から根を張り巡らせている。それがまさに地面を縛り付けている様に見えるのでこの名が付いたそうです。抜こうとしてもどこがどう繋がっているか分からず、こちらの枝を引っ張れば、あちらで咲いた黄色い花が散る。

 ですからジシバリの花言葉は『束縛』──

 地縛霊もそんな風に束縛された霊なのです」


 うん、どうやら真見だ…。

 背後がざわめき出した。子供も大人も何が始まったのか戸惑っているのだろう。


「日本各地に伝わる妖怪の中にも〈コロバシ〉と総称されるモノ達がいます。

 長野県の〈イジャロコロガシ〉はイジャロ─ザル変化へんげした付喪神つくもがみで、足元に転がってきた笊が人の顔に化けて驚かして転ばせる。

 高知県の〈タテクリカエシ〉は夜道を歩いていると、餅をつく手きねの様な形のモノがスットン、スットンと音を立てて転がってきて、出会い頭に転ばせる。

 福島県の〈鑵子かんす転ばし〉は、夜の山中で通行人めがけて鑵子という湯沸しの器を転がしてきます。 

 一方、岡山県には犬のような姿形で雨の降る夜に現れ、夜道を歩く人の足の間を擦りながら通り抜け、転ばせるとされる妖怪〈すねこすり〉の伝承も残っています。博物学者の佐藤清明の著作や、あの柳田國男の『妖怪談義』でも紹介されているメジャーどころですね。水木しげる先生の描かれたすねこすりは白黒模様でちんまりと丸まった、ちょっと仔猫にも寄ったキュートな姿で私は好きです。

 しかし転バシにしてもすねこすりにしても、自分から動いて転ばしにいくアクティブなタイプの妖怪です。今回のケースとは違うかと──」

「ちょっと待て!」

 遂に我慢できなくなったのか、オレの背中越しに修造さんが口を挟んだ。振り向いて見れば、その顔は戸惑いから苛立ちへと移っている。

「一体君は何を言ってるんだ?

 その地縛霊とやらのせいでマキオが転んだとでもっ…」

「彼だけではないでしょう。

 おそらく最近怪我をしたコ達は皆、地縛霊がトリガー・・・・になっているはずです」

「は?トリガー?」

 怪訝な声を出す修造さんを無視する様に、真見はオレの方に顔を傾ける。

 ハラリと揺らいだ髪の隙間から右目が僅かに覗き、逆光ながらこちらをジッと見ているようだ。まるでオレに何かを訴える様な──

(トリガー…?)

 勿論、直訳すれば『引き金』の事だが……


 あ。


 オレは再び二塁周辺を見渡す。

 ベース以外にはやはり何も見当たらない。

 だが──


「そうか…確かに地縛霊がいる……」


「そっちの先生まで何言ってんだ?

 とにかくもう練習時間は残り少ないんだ、次のメニューいきましょう監督!」

 痺れを切らした修造さんがそう叫んだ時。


 蝉の声が止んだ。

 ザザアアァ……

 辺りは不意に昏くなり、冷たい風が木々の葉を揺らす。

 真見は行く手を阻むかの如く、両手を大きく横に挙げていた。

 風に煽られた黒髪が翼めいて広がる。

 禍々しい黒鳥の様に。

「今このグラウンドに子供達を出すのは危険です。

 ご覧なさい、皆あんなに怯えて──」


 いや、それはあんたのせいだろう。


 修造さんが二の句を継げないでいると、上空から音がした。

 ゴロゴロ……

「あっ」「マズい!」

 皆慌てて上空を見上げる。

 雷だ。

 急に昏くなるのも冷たい風が吹くのも、雨が降る前兆である。だがマズいのは雨よりも雷だ。周辺より高いモノに落ちる雷には、平坦なグラウンドに立つ人間は格好の的だ。野球もサッカーもゴルフも雷雲が迫ってきたら即避難するしかない。

 監督が急いで指示を出す。

「全員すぐ荷物をまとめて!

 コーチも今日はグラウンド整備はいいですから、テントだけ畳んでください!」

「じゃあ私はベースを回収します!」

 修造さんがそう叫ぶより早く、オレはグラウンドに飛び出していた。

「二塁ベースはオレが行きます。

 三塁ベースをお願いします!」

「えっ、でも…」

「地縛霊に躓きますよ」

 出遅れて戸惑う修造さんと冷静な真見の声に重ねて、ヒロムも元気よく言った。

「そうだよ、薫ちゃんセンセはユーレイ見えるから平気だもん!」

 その声に「そうなんスよ!」と乗っかってオレが二塁にダッシュすると、修造さんは黙って三塁に走った。


 しかしヒロムよ、『幽霊が視える』は亀山薫のキャラ設定だ──


「ありがとうございました!」

 ナイター設備が無く辺りが真っ暗になる中、並んでグラウンドに礼をして、シラトリ野球部は雨が降り出す前にバタバタとスポーツ広場を後にした。入口の金網の扉には外から錠と鍵を掛ける。広場の使用期限は午後六時までなので、今日はオレ達が最後の利用者なのだ。鍵は公園の管理棟に返却して、また明日の朝、利用者がその鍵を受け取って扉を開ける。

 街灯に照らされた広場前の遊歩道で、監督がコーチ達に告げた。

「明日の朝一、七時からもウチで借りてるから。

 これから雨降ってぬかるむだろうし、まずグラウンド整備からやりましょう」

「分かりました!」

 街灯脇の暗がりから真見も声を掛ける。

「地縛霊も探してくださいね」

「わ、分かりました……」


 こうしてオレと真見は皆のお礼と微妙な半笑いに見送られて、その場を後にしたのである。




 カナカナカナカナ……


 ヒグラシが鳴いている。

 早朝と夕方に鳴く蝉である。毎朝聴くお馴染みの鳴き声だが、今はまだ午前四時──いつも走っている時間より一時間以上早い。こんな薄暗い時にもう鳴いているのか。

 運動公園の遊歩道には昨夜ゆうべの水溜まりがまだ残っているが、思ったほどではない。雨の量は大した事なく済んだようだ。

 道の先にスポーツ広場の金網フェンスが見えてくる。今日も晴れて気温が上がりそうだ。このまま日差しが照り付ければ地面も乾く。時間になれば予定通り、皆集まってくるだろう。


 やはり処理しておかなくては……


 辺りを伺う。

 ジョギングや犬の散歩をする人もまだいない。

 それでも用心して林の中に入り、遊歩道から死角になる側に回った。金網の高さは三メートル超あるが、広場裏手の公衆トイレが四角い箱型のコンクリート製の建物で、その上によじ登ると金網のてっぺんに手が届く。それで割と簡単に乗り越えられる事に以前から気が付いていたのだ。念の為着ていたウインドブレーカーのフードで顔を隠し、トイレの上から金網を越えて、半分程手と足を使って下りた後は一気に広場に飛び降りた。

 そのまま二塁地点まで走る。当然今はベースは置いていない。だが位置は分かる。

 二塁ベース手前の地面を、シューズの踵でガツガツと掘った。

「……ん?」

 少しズラして掘る。

 おかしい。更に周りを掘る。

 フードを外して周辺を見渡す。

 無い──


「よく見失うんスよね、これ・・」 


 振り向くと金網の向こうに、あの整骨院の先生が立っていた。

 その手に私の探していたグラウンド・・・・・マーカー・・・・を持って──



 オレは指でつまんだ〈グラウンドマーカー〉を顔の前に掲げる。

 それをスウェットにウインドブレーカー姿の修造さんが呆然と見つめていた。


 オレがショートを守る事になったあの時、野球に詳しくないという真見に訊かれた──

『グラウンドにベースを置く為の目印・・はあるのか』と。

 それがこのグラウンドマーカーである。

 構造は単純で、長さ十センチ程のに二十センチ程の紐が結び付けてある。その釘を地面に埋め込んで、そこから地上に数センチ出した紐を目印にするのだ。他のスポーツでも使われるが、野球の場合、ルールで決められた位置にこの目印マーカーを埋め、その上にベースやピッチャーマウンドを置いたり、ファウルラインやバッターボックスの線を石灰で引く。

 ただ釘と言っても今手にしているのはプラスチック製で、先も尖ってはいるがあまり鋭くはない。

「昔は本当に鉄の釘でしたよね。それが時間が経つと地上部分の紐が上から踏まれて潰れ、どんどん目立たなくなってくる。オレも現役の頃グラウンドの準備するのに、マーカーが見付からなくて探し回った経験は何度もあるっスよ。そしてやがて紐が千切れてしまうと、どこに埋まってるかもう分からない。その忘れ去られた釘が地面に何本も刺さったまま錆びて、それで子供達が怪我して問題になりました。だから最近ではこういう安全なプラスチックや、分解されて土に還る樹脂製のモノに変わってきたんですよね。

 でも釘が鉄だろうがプラスチックだろうが、変わらない事があります。それは──

 グラウンドにいる人間はマーカーなんて気にしてないって事。

 石とかが落ちてるならともかく、ただ紐がちょこっと出てるだけですからね。プレーに支障が無ければ、それは無いのと同じでしょ?ベースの下に隠れてるってのもあるけど、ベースを外したグラウンドを見回してマーカーが目に入っても、野球に慣れた人ほど『何も無い』って思うでしょう。選手でもコーチでもね。

 そう、野球をやる人間にとってグラウンドマーカーは、目に入っていてもそこにあると認識されない── 

 まさに幽霊・・です」

 その幽霊が無害ならばそれでいい。

 だけど。

 オレは手にしたマーカーの紐部分に目を遣る。この紐は根元が釘の頭に結び付けられ、その先は本来二本に分かれているモノだ。


 しかし目の前の紐はその二本が結ばれて、輪っか・・・になっていた。


 そして目印として目立つよう、普通は赤や緑のナイロンの紐を使うのだが── 

「この輪っかになった紐は、何故こんな透明な・・・ナイロン・・・・を使ってるんですか?

 こんなモノが今貴方が掘ってた所に埋まってたら、気付かずにスライディングしようとしたランナーは足を取られて躓きます。スパイクの底にはゴム製の突起がありますから、輪っかには引っ掛かりやすいでしょう。


 そう、これが地面に取り憑いて害を為す幽霊──地縛霊・・・の正体なんスよ」


 修造さんは自分が掘っていた足元を見る。

 二塁ベース手前約一・五メートル──スライディングを始める目安とされる位置だ。ランナーはスピードを落とさず姿勢を低くしたまま走ってきて、その目安位置で足を前に突き出す。そこにこんながあったら──だから走塁練習の時に怪我人が集中したのだ。

 また上手い内野手ほど低い姿勢で滑る様にステップする。ヒロムが天才と称するショートのシンが躓いた時は、サードの手前にこのマーカーが仕掛けてあったのではないか?サードにスライディングするランナーを転ばせるつもりだったのだろう。

 いずれにしても普通に走って踏むだけなら影響は無いので、他の選手やコーチはこのマーカーに気付く事は無い。野球の動きをよく分かっている人間だからこその犯行である。

「グラウンドマーカーは普通、そんな場所には埋まっていません。貴方はこの広場に侵入して、即座にその場所を掘り始めた。そこにあるって知ってたんスよね?

 つまり、これ・・を埋めたのは貴方だ。

 子供達を転ばせて、怪我をさせる為に。

 今までは練習前に隙を見てはこのマーカーを仕掛け、怪我人が出たドサクサに回収してたんじゃないですか?こんな不自然なモノが見付かったら騒ぎになるから、証拠隠滅スよね。貴方はいつもグラウンドにいて、子供達に何かあったら一番に駆け付ける。貴方ほど証拠隠滅をやりやすい人はいません。最悪回収できなくても、紐の輪っかを切っておけばいい。そうすれば普通のマーカーです。ただ間違った場所に埋まってるだけって誤魔化せますからね。

 でも昨日はそんな回収も細工も出来なかった。マキオ君の怪我の後、二塁に近付けなかったですからね。それで今日そのまま集合時間になってグラウンド整備を始めたら、この証拠マーカーが誰かに見付かるかもしれない。しかも地縛霊がいるなんて脅されて、皆念入りにチェックしますよ。だからその前に取りに来たんでしょう?

 でもおあいにく様。このマーカーは昨日、オレが二塁ベースを取りに行った時に見付けて、回収しといたんです。確かに見えにくいけど、そこにあるはずだと思って見れば見えるもんスね。しかもマキオ君が躓いた時にだいぶ引っ張られたのか、緩んでいてすぐ抜けましたよ。

 それで仕掛けた犯人がこっそり探しに来るなら朝になってからだろうと踏んで、隠れて待ち伏せしてました。金網乗り越えて不法侵入までしてるんだから、言い逃れは出来ないスよ」

 話している間に修造さんは二塁地点を離れ、オレのいる一塁側の金網の前に歩いてきていた。金網を挟んで二メートルも無い位置で立ち止まり、こちらを真っすぐ見つめる。

「……何故分かった?

 あんたはショートにいただろ。私はセカンドの守備位置でその輪っかが目立たないよう、上から踏んだり土を掛けたり、マメにチェックしていたんだ」

 修造さんは隠し通せないと思ったのか、開き直った様に自白した。昨日の熱血コーチの時とは全く違う、昏い目でオレを見据える。金網を挟んでいても逃げ出したくなる様な嫌な目──

 魔物・・の目だ。 


「トリガーですよ」


 そう言いながら、オレの背後の木陰から白い影がユラリと現れた。

 真見である。

 日曜日もぎゃらん堂は営業しているが、出勤前なのでオレ達は私服である。ジャージ姿で来たオレに対して真見は白いワンピース、そして髪を顔の前に下ろして俯き加減で悄然と立っていた。完全に森の奥の井戸から這い出てきたヒトの風情だ。気付けばヒグラシの声も止んでいる。

「ご存じないかと思いますが、私や烏頭先生の専門分野で『トリガー』と言ったら〈トリガーポイント〉──〈発痛点・・・〉の事です。

 一言で言えば『痛みが出る原因になっているポイント』ですが、その発痛点自体は痛くない・・・・事があるんですよ」

 真見の言う通りだ。

 トリガーポイント─発痛点とは、人が痛みを感じる感知装置センサーが異常をきたして過敏になり、常に痛みを感じるようになってしまったポイントの事である。まさに痛みの引き金トリガーだ。そんな発痛点は人体のあらゆる場所に出来るが、分かりやすいのは皮膚表面だろう。擦り傷や火傷は出来た瞬間に発痛点と化し、治るまでずっと痛い。

 しかしこれがオレ達の専門の筋肉の場合、発痛点は凝り固まった筋肉のとなる。例えば肩や首が疲れると、コリコリと筋状の凝りや強張りを感じるだろう。それを索状硬結さくじょうこうけつと言うが、その索状硬結の中に更に敏感な小さいしこり状の塊が出来る。それを押したり揉んだりして特に強い痛みを感じたり、経穴ツボを押される様な〈響き〉を感じれば、そこがその人の肩凝りや首凝りの発痛点の一つだ。

 例えば腕の使い過ぎで前腕に発痛点しこりが出来ると、肘痛や手首の痺れ等の症状の原因となる。

 デスクワークで椅子に座りっ放しだと体重が掛かり続けるお尻が鬱血して発痛点しこりが発生し、臀部や下肢の痛みを引き起こす。


 そんな発痛点で特徴的なのは関連痛・・・である。

 触った場所が即痛い皮膚表面とは違って、筋肉の場合、凝り固まった発痛点しこり自体は痛くなく、そこを押さえると周りの部分に痛みが出る事が多い。例えば大腰筋だいようきんは腹部から脚の付け根に繋がる筋肉なので、この大腰筋の上の方のヘソの横の発痛点を押すと、離れた股関節が痛かったりするのだ。これが関連痛である。押した部分が直接痛いのは〈圧痛点〉と言って、発痛点とは全く別物だ。

「痛みを生むポイントがその場にあるとは限りません。離れた場所から作用するトリガーがあるなら、それを見付けなければ痛みを取り除けないんです」

 オレは真見の言葉を引き継ぐ。

「真見クンのトリガー発言はオレにしか気付けない暗号でした。

 確かにマキオ君が倒れ込んで痛がったのは、ベースに滑り込んだ後。だけど彼女は『発痛点トリガーは離れた場所にある』と伝えてきてる。そして直前に訊かれた目印・・の件、地面に根を張る地縛ジシバリの話──

 全てが繋がりましたよ。

 このグラウンドにはランナーを躓かせる発痛点しこり──マーカーが巧妙な位置に仕掛けてある。それを見付けて回収しろって事だと」


 正直、真見が地縛霊云々言い出した時はどうしようかと思った。彼女の真意は聞かされてなかったし、普通に怖かったし。

 しかし昨日の帰り道で告げられたのは、真見自身もグラウンドマーカーが使われているのは現場で初めて気が付いたという事。

 それで咄嗟に地縛霊の怪談を捻り出し、皆を怖がらせてグラウンドに入らせないようにしたのだ。勿論、犯人に証拠を隠滅させない為である。そうやって誰も近付かない状態で、オレだけが真相に辿り着けるように誘導した訳だ。そこにちょうど雷雲が来て練習が終了となったのも、こちらとしては動きやすくなって助かった。

 そして真見は最初から修造さんに『怪しい・・・』と目を付けていた事を打ち明けた。

 ヒロムに密かに調べさせていた事も。

 六年生がコールドスプレーで凍傷を負った件では、一塁審の修造さんが『素肌にしばらく吹き掛けろ』と囁いたと、ランナーコーチの三年生が告白してくれたそうだ。

 傷んだお弁当でお腹を壊した選手の保冷バッグのチャックをこっそり開けて、中身を直射日光に晒している修造さんを目撃したという四年生の証言も得られた。

 いずれもヒロムのお手柄だが、チームメイト達は修造さんのそんな言動も普段の信頼度からあまり不審に感じていなかったらしい。しかし確かに彼は事故が起きた現場に常にいた。それで真見は疑い、ヒロムに調査を依頼したのだ。ヒロムは『ボクがおねえちゃんの!』と喜んで、刑事気分で捜査・・したらしい。

 そんな無邪気な子供達を。


「…子供達にあんなに慕われてるのに……

 何でこんな事したんですかっ…貴方っ──」


 オレは修造さんを睨む。

 OBコーチとして分け隔てなく子供達に接している彼に、特定の誰かを怪我させて我が子を活躍させたいという動機は当て嵌まらない。気に入ったコを贔屓している可能性も考えたが、コールドスプレーやお弁当の件は成功するかどうか運任せだし、グラウンドマーカーの罠は誰が躓くか分からない。

 真見によると今回のケースは〈プロバビリティーの犯罪〉というモノらしい。確実性は無いが『そうなるかもしれない』手段で、相手を傷付けたり死に至らしめる罠を仕掛けておく。例えば階段の上に転びやすいよう瓶を置いておいたり、喫煙場所に燃えやすい薬品を撒いておいたり……この場合成功しても偶然の出来事に見える為、犯人が捕まる可能性が極めて低くなる。

 つまり修造さんは自分の犯行だとバレにくい方法で、シラトリ野球部の部員達を無差別・・・に狙い続けていたのだ。

 一体何故──怒りのままに問い詰めようとしたが、本名が思い出せない。佐藤か鈴木か……

 真見が静かに言った。


「田中さん。

 貴方は〈代理ミュンヒハウゼン症候群〉の可能性があります」


 田中だったか……

 いやそんな事より。

「代理ミュンヒ…何だって?」

 修造─いや、田中より先にオレが訊いてしまった。

「元々の〈ミュンヒハウゼン症候群〉は『自らに負わせる作為症』という虚偽性障害に分類される精神疾患です。一九五一年にイギリスの内科医リチャード・アッシャーによって発見され、〈ほら吹き男爵〉の異名を持つドイツの貴族─ミュンヒハウゼン男爵にちなんで命名されました。

 この疾患の患者は病気を創作したり、既に罹患している病気を殊更に重症であるかの様に誇張し、通院や入院を繰り返します」

「な、何の為にそんな事を…?」

「注目してもらう為ですよ。

 そうやって怪我や病気を口実に同情を買ったり、懸命に病気と闘っている姿をアピールして『頑張ってるね』『偉いね』と言ってもらいたい。それで承認欲求を満たして、快感を覚える訳ですね。

 そしてこの疾患がただの虚言癖と違って深刻なのは、自分が重症だと見せかける為にわざと怪我をする自傷行為や、薬の過剰摂取オーバードーズを繰り返したりしてしまう事です」

「自傷行為…」

 真見は無表情で淡々と話すが、オレは顔を歪める。そして気が付いた。

 ミュンヒハウゼン症候群が自身を傷付けるなら、代理ミュンヒハウゼン症候群とは──

 更に顔を歪めたオレに真見が頷く。

「ハイ、代理ミュンヒハウゼン症候群とは自分の分身──子供・・をわざと病気にして、熱心に面倒を見る事によって周囲から関心を集めようとする精神疾患で、虐待の一種だと言われています。

 加害者となるのは子供に一番身近に接している母親の例が最も多く、一九九六年にはフロリダ州の母親が児童虐待の容疑で逮捕されました。難病と闘う八歳の少女とそれを支える健気な母親としてしばしばメディアに登場していましたが、実は娘に毒物を飲ませたり、バクテリアを点滴のチューブに入れたりしていたそうです。その少女─ジュリー・グレゴリーは二百回の入院、四十回以上の手術を受けて、内臓の一部を摘出されていました。

 日本でも二〇〇〇年代のある年の厚生労働省の統計で、虐待死した児童六十七人中三人が、保護者の代理ミュンヒハウゼン症候群が原因で死亡しているというデータがあります。


 そして子供の世話をしている他人が加害者になるケースもあるんです。

 テキサス州の准看護師であるジェニーン・ジョーンズは自身が担当する乳幼児三人を殺害した容疑で起訴されましたが、彼女には一九七〇年代から一九八〇年代にかけて、六十人あまりを殺害した疑いがあります。その動機は幼い子供を危篤状態にして、命を救う事で自身のエゴを満たしたい──そんなジェニーンは『死の天使』と呼ばれていたそうですよ」

「死の天使……」

 怒りで目が眩み、戦慄で背筋が凍る。

 昨日の光景が目に浮かぶ。

 捻挫をしたマキオを抱えて走り、マキオママから何度も感謝されていた田中──

 いつも彼には感謝していると誰もが言っていた。

 そうやって注目を集めて自己満足を得る為に、子供達を怪我させていた?

 その為に、自身の息子が卒団してもOBコーチとして残っていた?


 死の天使ならぬグラウンドの魔物が、目に異様な光を宿らせる。

「あんたらがちゃんとしたストレッチなんか教えるから、選手達の怪我が減ったんだ。

 だから色々やらなきゃいけなくなったんだぞ…」

─コイツは怪我をしやすいと分かってて、準備運動で静的ストレッチをやらせ続けてたんだ。

 ずっと前から──

 田中は口元を歪めて嗤った。 


「人がせっかくたのしんでいたのに──」


 ガシャッ。

 オレは思わず金網を両手で掴んだ。

 ホントは胸倉を掴んでやりたかった。

 怒りで言葉も出てこないオレを嘲るように田中は言う。

「あいにく証拠不十分だからな。不法侵入はしてしまったが、早くグラウンド整備したかっただけだ。そんなグラウンドマーカーなど知らない。私が埋めた証拠は無い」

「色々やったって白状してただろ?マーカーが目立たないよう踏んでたって言ってたじゃないか!」

「さあ?」

「コールドスプレーやお弁当の件でも子供達の証言がある!あんたが全部やったんだ!」

「子供の言う事だ。私は監督や保護者から信頼されているからな、何とか誤魔化せるさ。そう、この野球部は私がいなきゃ始まらない。あんたら部外者が騒いだところでどうにもならんよ」

 オレは歯軋りして黙る。

 真見がボソリと呟いた。

「代理ミュンヒハウゼン症候群には『病院等の医療機関に対しては愛想が良くて協力的』、『子供の病気についてよく調べて、全力で看病している様に見える』、『極めて計画的』という特徴がありますからね。確かに周囲の人達は、付き合いの浅い私達より貴方の事を信じるでしょう」

「そういう事だ。ハハハハッ…!」

 それはまさに邪悪な魔物の哄笑だった。


「なので、対策はしてあります」


 そう言って真見が右手を横に挙げた。釣られてそちらに視線を向けた田中から笑みが消える。

 木の幹の陰から、黒いパーカーのフードをスッポリ被ったマヨ姉が歩み出た。手には小型カメラを構えている。ずっと隠れて動画を撮影していたのだ。

 愕然としている田中に真見が告げる。

「貴方の言う通りマーカーを埋めた証拠はありませんし、子供の証言もこの動画も警察が動くほどの証拠にはならないでしょう。

 でも野球部の皆さんが動画を観たら、貴方はこの町にはいられなくなるんじゃないですか?

 ママさんのネットワークは凄いですよね?」

 真見に振られてマヨ姉が頷く。既に『子供の敵』認定されている田中に向ける親の視線は、オレの千倍熱い。

 怯んだ田中がその場で後退ずさり、オレは別れの言葉を投げ付けた。


「ゲームセットだよ、あんた」


 もうコイツの名前は憶えておく必要も無い。



「それであの後練習来なくて、連絡も無かったでしょ?

 先週の土日も来なかったから、心配した監督が電話してみたら、夏休み明けに急に単身赴任が決まったんでコーチ辞めるって…その準備で忙しいからもう顔も出せないってさ」

 八月最終週の月曜日。

 出勤してきたマヨ姉は開口一番、修造…いや、ヤツ・・のその後を伝えてきた。

 あの動画はまだ誰にも観せていない。オレ達はヤツに『これ以上野球部に関わってきたら観せる』と伝えてあの場を離れたのだ。真見の脅しが効いて、社会的な立場を失う前に逃げたのだろう。口実を作って自宅に引きこもってるのかもしれないし、単身赴任が本当なら自分から志願したのかもしれない。いずれにしてもこれでシラトリの子供達が危険に晒される事は無くなったのだ。

 しかしオレはまだ不安だった。

「…よそのチームでコーチやったりしないかな。そしたら今度はそこのコ達が……」

「大丈夫、あの人の奥さんと監督の奥さんは仲良いから、何かあったら知らせてもらうわ」

 マヨ姉は笑うが、やはり心配だ。

「でもホントに単身赴任して、そこで少年野球チームに入るかも…」

 オレが言い終わるより早く、横で鍼灸の道具を準備していた真見が応えた。

「そうしたらあの動画をネットで拡散するって、メールを送っておきました。

 そんな暇があるなら、ちゃんと病院行って代理ミュンヒハウゼン症候群の治療してくださいって」

「流石、真見ちゃん!」

 ……怖。


 そしてオレにはもうひとつ気懸かりがある。

 あの日、子供達を守る為とはいえ、真見は急に地縛霊の怪談を語り出したのだ。明らかに不審人物である。ヤツ同様我々ぎゃらん堂も、シラトリ野球部を出禁になってしまったのではなかろうか?


 マヨ姉が思い出した様に声を上げた。

「あ、真見ちゃん、今週末の土曜日の夜って時間ある?

 野球部のレクリエーションで毎年、夏休みの最後は小学校の体育館でお泊まり会するのね。皆でご飯食べた後は花火とか肝試しとか、年によってイベント違うんだけど、今年何がいいって子供達に訊いたらさあ──


『あのお姉ちゃんの怖い話、もっと聞きたい』だって!」


 真見は珍しくちょっと目を丸くして──僅かに微笑んだ。

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