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第二話  人魚姫の大腿四頭筋

人魚・・ってなぁ、白身か赤身、どっちだろうねえ?」

「は?」

 何でこんな話になったのだろうか──



 紫陽花アジサイの葉は少し厚くて固いけれど、見た目は大葉に似ている。味も同じアジサイ科のアマチャみたいな甘味があって、天ぷらにしたら普通に美味しいそうだ。

 だから彼にお弁当を作ってあげた時、大葉みたいに刻んで、胡麻とおかかと和えた混ぜご飯にしてみた。彼は『凄い、こんなの作れるんだ!』って驚いていたけれど、私が料理をするとは思っていなかったのだろう。でも普段から骨や筋肉──人体に関して研究しているのだ。その体作りの基本は食であり、五大栄養素をバランス良く摂取しなきゃ。サプリメントだけじゃ駄目。その為に私は料理を独学で身に付け、毎日の食事のメニューを工夫している。

 そんな私のお弁当を彼は喜んで全部平らげてくれた。私も嬉しかった。彼が美味しそうに食べているのを見ながら、こんな風に毎日ご飯を作ってあげられたらいいのにって夢想していた。

 だけどそんな日は来ない。

 来るはずがない。


 だから紫陽花アジサイのご飯を作った。

 紫陽花アジサイの葉には天然の毒素が含まれていて、料理の飾りに出てきたのを間違えて食べた人が食中毒になったってニュースで観たから。

 彼がそれで死んだら、私も紫陽花アジサイを食べて一緒に死のうと思ったから──


 でも彼は死ななかった。

 お腹を壊しもしなかった。

『また弁当作ってきてよ!』

 そう言ってニッコリと笑う彼を、私はマトモに見られなかった。


 ああ…紫陽花アジサイじゃダメなのか……




「とお」

 カーテンの向こうから抑揚のない掛け声が聞こえる。

「おっ、やってるな」

 うつ伏せに寝ている文太ぶんたさんが面白がるような声を上げる。オレはその五十男おっさんの凝り固まった全身をほぐすべく、マッサージを始めながら応えた。

「文太さんも今度やってもらったらいいのに。この腰とか硬過ぎて、奥の方は指じゃ届かないスよ」

「いやあ、前の整骨院で股関節にやってもらったのが痛くってさあ…あれがトラウマなんだわ」

「なるほど……でもやる人の実力でもだいぶ違いますから。彼女は巧いっスよ」

「とお」

 オレが褒めた声が聞こえたかどうかは分からないが、再び棒読みの『とお』が聞こえた。どうも患者にはりを打つ時にあの気合いが要るらしい。


 彼女の名は菜倉なくら真見まみ

 このオレが経営する整骨院─〈ぎゃらん堂〉で最近働き始めた〈鍼灸しんきゅう師〉である。


 国家資格を持つ医療従事者の〈柔道整復師〉であるオレは、骨折や捻挫等の怪我を施術・・できる。しかし常連患者の文太さんにも言った通り、投薬や手術で治療・・が出来る整形外科とは違って、手技中心の柔道整復師オレたちでは届かない深い部分での筋肉や神経の痛みもある。そういう分野を鍼灸治療で担当してもらおうと思って採用したのが真見だ。

 そもそもヒトの体には病気や怪我を自身で治す自然治癒力や、細菌や病原体から身を守る免疫力が備わっている。その為傷害を受けるとそれらの自己・・防衛・・が働き、体に様々な反応が起こるのだ。例えば血管を拡張させ新鮮な血液を多く循環させて新陳代謝を高める。例えば異物と戦う白血球を動員して傷口からの感染を防ぐ。鍼灸治療は皮膚や筋肉にわざと微細な傷や火傷を作る事でそのシステムを作動させていく。だから適切な部位に正確に鍼や灸を施せば、筋肉の血行が良くなって肩凝りや腰痛が緩和したり、傷付いた細胞を修復したり出来る。更には自律神経を整える効果もあり、血圧や内臓の不調をも改善し、ホルモンバランスの調整やストレスの緩和まで期待できるのである。

 だがそんな高度な技術を身に付けるのは簡単ではない。日本で鍼灸の施術を行なうには柔道整復師同様に国家資格が必要となる。その資格の取得には高校卒業後に鍼灸の専門学校や大学等に三年以上通う事が必要で、その卒業試験に合格した後、国家試験に合格してようやくはり師・きゅう師の国家資格を得られるのだ。

 そして勿論これは柔整師も同様だが、ただ資格さえ取れば良いという訳ではない。自動車の運転免許を取ったからといって、突然プロドライバー並に運転が巧くなるはずがないのと同じだ。資格を得たのをスタート地点として常に知識を蓄え技術を研鑚し続けなくては、十人十色な症状の患者に対処する事は出来ない。オレ達の商売は肩書きではなく、そんな日々の積み重ねによる『この先生に診てもらいたい』という信頼があってこそ成り立つのだ。初診で来た時からぎゃらん堂オレたちファン・・・になってもらわなくては、誰もリピーターにはなってくれない。

 しかし真見はウチで働き始めて二ヶ月足らずで、既に多くの患者の信頼を得ていた。年齢はまだ二十五歳でオレより十歳も若く、鍼灸師としてのキャリアも三年と浅い。けれど全身に三百六十一ヶ所存在すると言われる〈経穴ツボ〉──東洋医学で経験的にそこを刺激すると症状が特に良くなると伝えられてきた部位の位置と効能を全てマスターしている知識量は勿論、ツボ以外でも全身のどこをどのように刺激するべきかを患者の年齢や性別、骨格の歪み具合や筋肉の硬さ、更には当日の体調や精神状態までかんがみて最適解を導き出せる観察眼と洞察力は、オレが今まで出遭ってきたどんなベテランの鍼灸師より上かもしれない。まさに初めてウチに面接に来た際の『まことを見る』の名乗り通りである。

 そして肝心の技術ウデの方も確かで、試しにオレに鍼を打ってもらった時も、何も言わなかったのに大学まで野球をやっていたオレの筋力の左右差を見抜いた。オレは右投げ右打ちだったので体の右側ばかりが酷使され、その右から左へ回転する動きを受け止め続ける左の腰にも常に負担が掛かっていた。その偏ったボディバランスとダメージはそのままオレの体のクセとして染み付いており、今でも無意識に右ばかり使い過ぎて右肩の三角筋や右背中の僧帽筋に疲労が溜まりやすく、痛みは左腰周りの腹斜筋や腸腰筋に出やすい。

 真見はそんなオレの体の具合に合わせて、ステンレス製の鍼の太さ─直径約〇・一ミリから〇・三ミリ─と長さ─約十五ミリから九十ミリ─、そして十七種類ある打ち方を使い分けて、手際良く施術を行なっていった。

「とお」

「鍼灸には〈響き〉という、鍼を刺した時の独特の感覚を表す言葉があるんスけどね。凝り固まった筋肉に鍼が当たる際の反応なので、この響きを感じるという事は治療すべき部位に正しく届いているって証拠なんだけど、その感じ方はズーンと重く感じたり、ジワッと広がる様な感覚だったり、様々なんスよ。

 真見クンの鍼はスウッと入ってきてフワリとラクになる、何と言うか──清々しい鍼だったなあ」

「へえ…」

 感心する文太さんをよそにオレは更に思い出す。

 その時最も辛かった右肩甲骨内側のツボ〈膏肓こうこう〉に、彼女は刺し置いた鍼の上部にもぐさを丸めて付着させ火を付ける〈灸頭鍼きゅうとうしん〉を施した。この膏肓は五十肩や慢性的な肩凝り等の肩疾患、腕や背中の痛みや張り、呼吸難、更には血液の循環が悪く手足が冷えている時にも有効なツボである。しかし位置が肺に近く、鍼を深く刺すのは危険な扱いの難しい部位としても知られている。そこで真見は細めの鍼を浅く刺し、その分灸頭鍼にして、艾が燃える事で生じる熱と鍼のダブル効果を狙ったのだ。

 オレは背中がポカポカと温まっていく気持ち良さに浸りながら、彼女の手腕に感心していた。そして採用を即決したのだった。

「今では真見クンの鍼が目当てで来る患者さん──彼女のファン・・・も増えてますよ」

「そっかあ…じゃあ俺も一回やってもらおうかな、鍼」

 長時間の座り仕事で頑固な首凝りを抱えている文太さんには、真見の鍼はかなり効くだろう。

 ただ。

「とお」

 あの気の抜ける掛け声は何とかならないか。

 いや、気になるのはそれだけではなく──

(あんなにウデが良いのに、何で他の整骨院や鍼灸院をクビになったんだ…?)

 それも、三年間で五ヶ所も………




 彼は私を認めてくれた。

 居場所の無かった私を受け容れてくれて、上手だと褒めてくれた。

 でもどんなに優しくしてくれても、彼が私なんかを恋愛対象にしてくれる訳がない。ただ仲間の一人として接してくれているだけ。一生分の勇気を出してその一員になった私に、リーダーの責任として親しくしてくれているだけだもの。じゃなかったら明るくて、優しくて、確かな実力でたくさんのファンにも愛されている彼が、こんな地味で暗くて、コミュ障で、普段ずっと部屋に引き籠もっている私なんかと仲良くなってくれる事は絶対に無かっただろう。

 私が彼に想いを伝えたら、きっと全てが終わる。 

 私はまた独りになる。

 今までだってそうだったから。

 彼の前に出遭った人は皆そうだったから。

 だから私は──


 何の毒なら効くのだろう…? 




「それで、アダ名は決めたの?」

 文太さんの不意な台詞にオレは息を呑み、視線を彷徨さまよわせた。

 何せ個人経営の小さな整骨院である。2DK程の広さがあるワンフロアにオレが文太さんをマッサージしているベッドと、隣の空のベッド、その奥の真見が患者に鍼を打っているカーテンで囲われたベッドが三床あるだけだ。

 あとはパーテーションで区切られた向こう側に受付と小さな待合室。

 今はそのパーテーションのこちら側にもパイプ椅子が一脚置いてあり、そこに座っている制服姿の男子高校生と目が合った。部屋の隅に設置した〈超音波治療器〉を使っているのだ。

 超音波療法は人間の耳では聴き取れない高い周波数の超音波を患部に照射して、その自然治癒力を高めていく施術だ。照射の時間やタイミングを変える事で血流の促進や筋収縮力の回復、鎮痛作用、炎症の治癒力向上等の様々な効果が期待できる。

 その器械の見た目は例えるなら据え置き型のカラオケで、操作パネルがある本体からコードが伸びたその先にマイク・・・が付いているが、マイクではなく超音波が出てくるプラグである。そのプラグをジェルを塗った患部に小刻みに動かしながら当てるのだ。

 ぎゃらん堂では患者さんに一回五百円で自由に使ってもらっている。骨折や捻挫、打撲等の治癒促進に有効なので、今日みたいな平日の夕方には学校帰りの中高生がよく陣取っている場所だ。そこで左肘にプラグを当てている男子高校生が、挙動不審なオレを不思議そうに見ている。

「いや…何でもないから、キー坊……」

「何でもなかったらそんなヒソヒソ声にならないでしょ〜?」

 応えたのは目の前のキー坊ではなく、その左横の受付カウンターにいるマヨねえだ。半袖・ハイネックの医療用ユニフォーム〈ケーシー〉を着てはいるが、彼女は柔道整復師でも鍼灸師でもなく普通に従業員として受付業務を担当している。だからオレと真見が白いケーシーなのに対して彼女のケーシーはピンクにしていて、そのピンクにショートカットの茶髪が似合うぎゃらん堂の看板娘である。と言っても小学生の息子がいるシングルマザーだが…。そのマヨ姉がクスクス笑いながら続ける。

「センセったら採用してすぐ真見ちゃんにいつもの調子で訊いたの、『何かアダ名付けていい?』って。そしたらさあ…」

 オレは口元に人差指を当ててお喋りなマヨ姉を牽制するが、全く効果は無い。

「真見ちゃん、センセの顔をしばらく無表情でジッと見て、そして冷た〜い声で言ったのよ。

『いいですけど………』って。

 センセ、ビビっちゃって裏返った声で『オーケー、真見クン・・・・でいこう!』だって──」

 やめて、彼女に聞こえる。

 そう、オレには周りの人達にすぐアダ名を付ける習性・・がある。しかし今回は、あの長い前髪の隙間から覗く眠たげなのに目力めぢからのある眼差しに負けた…。

 目の前の高校生─キー坊がゲラゲラ笑い出す。

「センセがアダ名付け損なうのウケるな〜!ボクにも問答無用で付けたのにさ。ホント、体育会系のノリだよね〜。まあ相手が嫌がるアダ名は付けないからいいけど」

 確かに小・中・高、大学まで野球一筋だったオレが、手っ取り早く周りと仲良くなる為に昔からやってきた事ではある。しかしオレは本名が烏頭うとうなのだが、よく間違えられる鳥頭とりあたまよろしく記憶力に自信がない。その人の特徴を反映したアダ名を付けておくのはうっかり相手の名前を忘れた時の予防策でもあるのだ。それで小学校の時のチームメイトに高校の練習試合で再会した時なんかの『コイツ誰だっけ』危機を乗り切ってきた。だからここでも角刈りと赤いダボシャツがトレードマークの『トラック野郎』好きを〈文太さん〉、マヨネーズ大好きママを〈マヨ姉〉、そして軽音楽部の部長でキーボード担当の男子高校生を〈キー坊〉と呼んでいるのである。




 アダ名…私もアダ名で呼んでもらえたらもっと親しくなれるのだろうか…?

 毎日そばにいるのに…今だってこんなに近くにいるのに…私の想いは彼には届かない。気付いてもらえない。アダ名で呼び合えればもしかして、彼との距離が縮まって──

 いや、あり得ない。

 私なんか。

 私なんか……


 スイセンの葉はどうだろう。

 ニラによく似ているけれど猛毒が含まれていて、間違って食べて死んだ人もいるらしい。

 スイセンをニラみたいに卵と一緒に炒めて、二人で食べたら──


 駄目だ、スイセンの葉は今の季節には枯れている。

 他に何か……




「うははは、センセがゴリ押せない相手もいるんだな!こりゃいいやっ……ぐええっ!」

 高笑いする文太さんの両脚のふくらはぎをゴリ押して黙らせる。

「しかし文太さん、首も酷いけどこっちも大概スね。この腓腹ひふく筋もパンパン」

「しっ仕方なっ…い〜っ!」

「ヒラメ筋も──」

「ああーっ!」

 悶絶する文太さん。座りっ放しの仕事で首から肩、背中、腰、股関節とどこもかしこも凝り固まっている彼だが、脚にはまた別の症状が出ている。長時間同じ姿勢で動かさない為に血液や水分が重力で下に集まって、むくんでしまうのだ。この様なむくみは立ち仕事や冷え、過度の塩分やアルコールの摂取等でも生じるが、その影響は脚のだるさや痛み、靴が入らなくなる等の局所的なモノだけでは済まない。

 ふくらはぎは『第二の心臓』とも呼ばれ、重力に逆らって血液を心臓に戻したり、リンパ液等の体液を全身に巡らせる重要な働きをしている。

 そのふくらはぎがむくむと静脈が圧迫され血液が心臓に戻る道が渋滞・・する。お盆や年末年始の高速道路と同じで血液が心臓に里帰り・・・しにくくなる為、待っている心臓が余計に働いて負担が増え、全身の血流バランスも崩れてしまう。

 またリンパ管も圧迫されてリンパ液の流れが悪くなる為、老廃物や毒素を体外に排出する事が出来なくなり、免疫細胞の働きも鈍くなる。更には自律神経も乱れる。──つまり、ふくらはぎの不調は全身の不調に繋がるのだ。

 そう、一見繋がっていない部位も全てが繋がっている。この仕事をしていると日々痛感する事である。

 筋肉や骨についてだけではない。

 入れ替わり立ち替わりやって来る年齢も性別もバラバラな患者さんから、オレは施術中に色んな話を聞く。

 或るお婆ちゃんが犬の散歩中に若い男に話しかけられたそうだ。犬好きだというその青年はしゃがんで、バロンという名のビーグル犬の頭を撫でながらにこやかに世間話をしてきて、そのうち独り暮らしのお婆ちゃんの暮らしぶりも聞いてきたらしい。お婆ちゃんは『孫と話してるみたいで楽しかった』とニコニコしていた。

 別の日に男性患者が話してくれた。インターホンが鳴って宅配便が来たと言うので玄関を開けたら、宅配業者は彼を見るなり酷く驚いて『間違えました!』って逃げていったのだそうだ。身長が190センチ近くあり、筋トレが趣味で自室にベンチプレスがあるという屈強な男性患者は『怖かったのかな…』と落ち込んでいた。

 それぞれ全く関係ない話だと思っていた。

 しかし後に逮捕された連続窃盗団の一人の顔をニュースで見て、お婆ちゃんは驚愕した。それはあの犬好きの青年だったからだ。しかも彼は窃盗団の中でも襲う相手を調査する役目だったそうで、お婆ちゃんの生活パターンを把握する為に接触してきたと思われる。しかし彼女は小さなアパートで細々と暮らしている年金生活者であり、窃盗団に狙われる様な資産など全く無い。楽しみと言えば毎朝のバロンの散歩だけである。

 ただし、お婆ちゃんのアパートはペット不可だ。

 だからに住む・・・資産家・・・一家・・が、飼っている犬の散歩を彼女に好意で任せてくれている。

 つまり窃盗団の調査役は、豪勢な屋敷からバロンを連れて出てくるお婆ちゃんを資産家の老婦人だと勘違いして調べていたという訳だ。そして独り暮らしとの言質げんちを得ていざ乗り込んでみたら、プロレスラーの様なその家の一人息子が出てきてひ弱な悪党共はさぞ驚いただろう。

 全く関係ないと思っていた話が繋がっていた。オレはその時背筋が寒くなるのを感じながら、取り返しの付かない大事に繋がらないよう、目の前の部位をしっかり診ようと決意を新たにしたものである。

 そして目下の大事はこのふくらはぎ──それを構成する腓腹筋とヒラメ筋を解すと全身に効果があるが、その分文太さんの様に全身に不調を抱えた人ほど刺激を感じる部位なのだ。

 息も絶え絶えの文太さんが呻く。

「そ、その、ヒ、ヒラメ筋ってっ…」

「え?」

「魚のヒラメに似てるからっ…?」

 この状況でその質問?

「えーと…魚に似てるのはそうなんだけど、ただのヒラメじゃなくて舌平目シタビラメスよ。牛の舌みたいな形の魚だからそういう名前だとか…写真見た事あるけどペタンとした細長い楕円形で、ヒラメ筋もふくらはぎを包む平べったい筋肉だから確かに似てます」

「へえ……うぐあっ!」

「でも舌平目はヒラメじゃなくてカレイの仲間らしいけど」

「えっ、そうなの?」

 思わず声を上げたのはオレと文太さんの会話を聞いていたキー坊である。

「アハハ、ややこしい〜。まあヒラメもカレイも白身で美味しいけどね。…今晩は白身フライにしようかな」

 いつの間にか受付カウンターから出てきたマヨ姉は、キー坊の横に立ってニヤニヤしている。白身魚のフライならマヨネーズは合うだろう。

「でもヒラメ筋は深層筋─内側の深いとこにある筋肉なので、しっかり指で押し込める訳じゃないスけどね。このほんの外側…縁側エンガワが押せるくらいで──」

「うひいっ…!」

「ヒラメのエンガワならお寿司もいいわね〜♪」

「ふう……ヒラメで思い出した──」

 ふくらはぎのマッサージが終わってひと息ついた文太さんが言った。


人魚・・ってなぁ、白身か赤身、どっちだろうねえ?」

「は?」


 またこの人は何を言い出すのか。 

 マヨ姉とキー坊も目を丸くして固まっているが、文太さんはお構い無しに続ける。

「人魚の肉を食べて不老不死になり八百歳まで生きたっていう女─〈八百比丘尼やおびくに〉の伝説は日本各地にあるけどさ。中でもかつての隠岐おきの国─今の島根県の伝承を書き記した書物には、その肉は甘くて物凄く美味だったって書かれてんだよ。それでそんなに美味しいのって白身かな、それとも赤身かなって気になっちゃって…。

 白身魚のヒラメや鯛なんかは脂肪が少なくて味が淡白って言うだろ?

 一方、マグロやカツオとかの赤身の魚はあぶらが乗ってる。脂自体には甘く感じる成分は無いそうだけど、その脂が分解されて脂肪酸とグリセリンに変わると味蕾みらいが活性化され、甘味や旨味の要素を強く感じるようになるってさ」 

「じゃあ赤身なんじゃないの?人魚…」

 半ば呆然としたままマヨ姉が答えるが、文太さんは「でも─」と返す。

「調べたら白身魚は〈速筋〉が発達してて、赤身の魚は〈遅筋〉が発達してんだって。つまり白身魚の方が速く・・泳げる・・・。そうだろセンセ?」

 オレは頷いた。ヒトを初めとする骨と筋肉を備えた動物の体をその収縮によって動かしているのは、骨格に沿って付いている〈骨格筋〉である。一般的には単に筋肉と言う場合この骨格筋の事を指すが、確かにその骨格筋は速筋と遅筋の二種類の筋繊維で構成されている。

 速筋は収縮スピードが速く瞬時に大きな力を発揮できる。オリンピックレベルの短距離走者スプリンターはその太腿ふとももの筋肉の八〜九割が速筋だ。そして筋肉には酸素を蓄えるミオグロビンという蛋白質が含まれていてその量が多いと赤く見えるのだが、速筋にはそれが少なく、白っぽい色をしているので〈白筋〉とも呼ばれている。そう、ヒラメやカレイ等の白身魚はそんな白い速筋を多く持ち、素早く泳げる短距離型の魚なのだ。

 一方遅筋は収縮スピードが遅く瞬時の出力は難しいが、繰り返し収縮しても疲れにくく、長時間に渡って同程度の力を発揮し続ける事が出来る。やはりオリンピックのマラソン選手の太腿の筋肉は八〜九割が遅筋で、そしてミオグロビンの量が多い為赤い色の〈赤筋〉だ。そんな赤い遅筋を多く持つマグロやカツオは、ミオグロビンが蓄えている大量の酸素でエネルギーを豊富に作り出して、広い海を長く回遊できる長距離型の赤身の魚なのである。

「魚の脂ってなぁ本人達にとっては、餌を食べられない時でも体内からエネルギーを生み出せるスタミナ源な訳よ。速筋が発達してる白身のヒラメは普段は近海の海底でジッと身を潜めスタミナを温存して、獲物を追いかける時や敵が来た時だけサッと素早く動く。だからそんなに脂が要らない。一方遅筋が発達している赤身のマグロはずっと泳ぎ続けている為、スタミナ源の脂が多い。

 だが脂が多いと水分も多くなって、死後に腐りやすくなるんだな。刺身にすると赤身は柔らかく、白身はコリコリしてるだろ?ありゃあ水分量の違いなんだ。だから赤身の魚は白身魚に比べて圧倒的に鮮度が落ちるのが早い。

 ところがだ、魚には〈グルタミン酸〉と〈イノシン酸〉という二大旨味成分があってな、 この二つが合わさって旨い魚・・・になる。このうちグルタミン酸は最初から身に含まれてるんだけど問題はイノシン酸でな、こっちは魚が生きてる時にはほとんど無い。死後に体内で別の酸が分解されて初めて生成される成分なのよ。つまりイノシン酸だけを考えれば、捌いた魚をすぐ食べずにしばらく置いといた方が美味しくなるって訳さ。

 そう、だから白身魚は刺身にしてすぐは淡白でも、時間を置く事でイノシン酸が発生して味が良くなっていく。ホラ、鯛やヒラメ、スズキなんかを昆布で包む〈昆布こぶじめ〉なんて、長ければ丸一日寝かせるじゃん。そしたら昆布の旨味成分のグルタミン酸まで染み込んで、もう絶品の旨さだからな。それは鮮度が落ちやすい赤身には真似できない。


 で、八百比丘尼の伝説では調理した人魚の肉を持ち帰った男の奥さんが、後からそれが何かを知らずに食べちゃうってのがテンプレなんだ。新鮮な刺身なら赤身の方が『甘い』だろうけど、それじゃそんなに日持ちしないだろ?焼き魚なら赤身も美味しいだろうけど、時間を置いて干物とかにしたなら旨味が増した白身の方が『甘い』可能性は高い。

 ちなみに人魚の味について触れた文章は江戸時代中期の百井塘雨ももいとううって旅行家が書いててな、当時の調理法なら味噌󠄀や醤油、みりんとかで魚を煮込むのも普通にやってんだよ。だからその時代なら人魚の煮魚も作れたんだが、伝承では八百比丘尼が人魚を食べたのは四百八十年──飛鳥時代の大化の改新より前、古墳時代ってされてるからさ。その頃は塩漬けの干物はあっても煮魚はどうかな…?


 って訳で果たして人魚は赤身か白身か──どうも決め手に欠けるんだ。なあ、どう思う?」


 一言で言うと、知らんがな。

 見た目と長時間の座り仕事による体の傷み具合はいかにもトラックドライバーな文太さんだが、実のところは『やしろとらた』というペンネームの漫画家・・・である。様々なジャンルの作品を描いているそうで怪しげな知識も多く、こうやって時々謎質問が飛んでくる。しかし人魚の煮魚について語る漫画はあまり読みたくないが…。

「いや、もうすぐ夏だろ?季節に合わせて可愛い人魚の女の子が主人公の漫画描こうと思ってんだけど、肌が白っぽいか赤っぽいかハッキリしないと、カラーイラスト描けないからさあ〜」

 確かに間もなく七月、梅雨明けも近い。

 しかしこだわる方向が変だ。

 オレとマヨ姉は返答に困って顔を見合わせていたが、いつの間にか超音波治療を終えていたキー坊が真面目な顔で腕組みしながら応えた。

「青魚って可能性もありますね…」

「おおっ、確かに!」

 興味を持たないで少年!

 余計ややこしくしないで!


「それはどうでしょう」 

「わっ」


 振り返るといつの間にか背後に真見が立っていた。

 鍼治療中のベッドを囲っているカーテンが僅かに揺れているので、音も無く抜け出てきたのだろう。

 仕事中はトレードマークの長い髪はポニーテールにしているが、俯き加減の顔に両耳の前からまとまって垂れたおくれ毛がその表情を隠している。それで華奢な体を白いケーシーとズボンで包んで悄然と立っているのを見ていると、良くないと思いながらも最初に浮かんでしまったアダ名─貞子サダコを思い出してしまう。勿論絶対に言えないが──

 感情の込もっていない声が響く。

「塘雨が日本各地で集めた奇談・珍説を収めた紀行文『笈埃随筆きゅうあいずいひつ』には、人魚の肉を食べてしまった奥さんについてこう書かれています。

『久しくしてさめて気骨すこやかに目は遠きにくわしく耳にひそかきこえ、胸中明鏡の如しという。顔色ことうるわし』──

 つまり、人魚を食べて時間が経ってから気付いてみると全身の疲れが取れてて、目は遠くまで良く見えるようになり、耳はほんの小さな音まで聞き取れるようになり、精神的にも安定して心が澄み渡る様な気分になった。そして顔色も今までになく美しくなったと…。

 確かに青魚の脂に多く含まれるというDHA─ドコサヘキサエン酸は、中性脂肪を減少させ血液もサラサラにします。当然疲労も取れ体調も顔色も良くなるし、脳神経も活性化させるので視力や聴力の回復・向上も期待できます。そうなれば人間、気分が良くなって心も落ち着きますが……」

「じゃあやっぱり、人魚は青魚っ…?」

 キー坊が座っていたパイプ椅子から腰を浮かせるが、そのままの姿勢で固まってしまった。

 俯いていた真見が僅かに顎を上げ、サラリと流れた後れ毛の隙間から眠たげな目が覗く。その無表情のままジットリと見つめる目力はやはりどこか人間離れしていて、キー坊は完全に気圧けおされていた。

「人魚の肉は不老不死の仙薬と言われる一方で、命を奪う猛毒だという話もあります。長野県に伝わる伝承では漁師が捕まえて持ち帰った人魚の肉を戸棚に隠しておいたところ、腹を空かせた子供達がそれを食べてしまう。すると子供の体にうろこが生えてきて、そのうちに亡くなってしまうんです。これ、『人魚を食べた者は人魚になってしまう』って奇譚に聞こえますが、私は別の解釈が出来ると思います。

 つまり、人魚の肉を食べた子供が湿疹等を伴う中毒症状を起こして亡くなったのではないか──

 そこで思い当たるのがフグの様な毒を持つ魚です。猛毒のテトロドトキシンを体内に含有するフグですが、一方で美味として重宝されていますよね。石川県ではそのフグの卵巣を使ったぬか漬けが珍味として人気だそうですが、卵巣はフグの中でも最も危険な部位で一匹で三十人を殺せる程の毒がある。その糠漬けは無毒になるまで三年以上かかるそうですから、そこまでの手間をかけても食べたいと思うのは余程美味なのでしょう。

 また深海魚は浮力を得る為に体内に脂を蓄積するので、金目鯛などは脂が乗って非常に美味しいと人気です。しかし同じ深海魚でもバラムツの脂は人間が体内で消化できない種類のモノなので、食べ過ぎると猛烈にお腹を壊します。その為バラムツは市場にも出回らないのですが、それでも『深海の大トロ』と評される絶品をギリギリのところまで食べてみたいと、漁師さんに譲ってもらったりして手を出す人が多いそうです。

 私は一連の人魚を食べる伝説はそれらの『珍しい魚を食べてみたら毒があった』という実話を基にした、寓話の類いがほとんどなのではないかと思います。そこには『美味しかったら毒があってもやめられない』──すなわち『不老不死になる為なら死んでもいい』という、人間の浅はかな欲望への皮肉アイロニーが込められているのではないでしょうか?」




 そう、毒を食べさせるにはやはり美味しくないとダメなのだ。

 だから紫陽花アジサイ

 だからスイセン。

 それこそフグなら確実だろう。テトロドトキシンはホントに効くそうだから。致死量は2ミリグラム位って言うし、美味しい美味しいって喜んでる間に死ねるならそれがいい。彼にあまり苦しんで欲しくはないから……

 でも漁師でもない私にはフグの卵巣もバラムツも手に入らない。


 やっぱり食べ物の味を損ねない薬品を混ぜるのがいいのかな。

 だけど青酸ナトリウムとかなら少量で済むから気付かれないだろうけれど、簡単には手に入らないもの。この間も大学の研究室から青酸ソーダ盗んだ元学生が逮捕されていたし…風邪薬とか界面活性剤とかは結構大量に摂取しないといけないから、こっそりお弁当に混ぜてもバレちゃうだろうな。

 だったらいっそ魔法・・で……


 また実験・・してみようか──




「……つまり…」

 不意に展開された真見の『人魚毒魚どくざかな説』に絶句していた文太さんが呻く様に言う。

「人魚は…深海魚?」

 オイ、そういう話じゃなかったろ。


「人魚は魚じゃないんですよ」

「えっ?」


 その言葉には全員、うつ伏せだった文太さんも半身になって、発言主の真見をまじまじと見てしまった。

「日本の文献上に人魚が初出したのは奈良時代──『日本書紀』の琵琶湖の人魚ですが、それが聖徳太子に献上されたという逸話を後の時代に描いた『聖徳太子絵伝』の絵では、ただ魚の頭が人間になっているだけです。また鎌倉時代の『古今著聞集』では漁師の網に人魚が掛かるんですが、その頭部は人間の様だが歯が魚みたいに細かく、口が突き出ていて猿に似ているが、胴体はまた魚の様だと書かれています。

 一方、同じく鎌倉時代の『吾妻鏡』の人魚は『手足を持ち鱗が重なり、頭は魚と変わらず』と形容され、『本朝年代記』にも『形は人の如し、腹に四足あり』との記述があります。

 更に同時代に人魚の絵が描かれた〈人魚供養札〉が秋田県の遺跡から出土しましたが、それは顔は人間だけど髪は無く、顔以外は鱗で覆われた魚体なのに両腕と両足があり、尾ビレも付いているんです。

 つまり日本古来の伝承に出てくる人魚は単に人の顔をした魚─〈人面魚・・・〉か、アシカやアザラシ、或いは山椒魚の様な手足の生えた水の生き物だと思われます。

 要は『人間の要素を備えた魚っぽいモノ』ですね」

「魚っぽいモノ……」

 自分以上に怪しい知識を披露する真見に呆然と呟く文太さん。前から思っていたがこのコは本当に色んな事に詳しい。

 オレも唖然としつつも、文太さんの施術を続ける。ちょうど半身を起こしたのでそのまま横向きになってもらって、肩甲骨周りをてのひらさすって緩めていく。彼の商売道具の腕の張りや首肩の凝り、そこからくる眼精疲労等に有効なのだ。

「…あっでも、手足のあるヤツはともかく人面魚は体は魚だろ?それならやっぱり、白身か赤身かはあるんじゃ──」

 肩甲骨を解して少し頭も冴えてきたのか、文太さんが話を引き戻す。キー坊もまた「青魚…」と言いかけるが、真見が冷たく返した。

「だからこだわるべきはそこじゃないんです。

 文太さんは可愛い人魚の女の子を描きたいんでしょう?

 それは人面魚ですか?山椒魚ですか?」

「あ…」

 文太さんは口をポカンと開けて、憑き物が落ちた様な顔になる。

「人面魚的な体型が主流だった日本の人魚が西洋の影響を受けて変化し、新たなイメージが江戸時代後期に定着したという説があります。これは蘭学者の大槻玄沢が、ポーランドの博物学者ヨハネス・ヨンストンによる人魚の説明や画像を紹介したのが大きいとされていますが、あの作文芸の代表作であり日本の長編伝奇小説の古典の名作、曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』の挿絵でその新しい人魚が描かれているのを考えれば、確かに江戸の庶民層にもそれは広く認知されていたのでしょう。


 ヨーロッパ発祥の、美しい女性の上半身に魚の様な尾の下半身を持つ水棲生物──文太さんの描きたいのはそっち・・・でしょう?

 あれは哺乳類・・・です」 


 マヨ姉が手を叩いて笑う。

「そうよ、可愛い人魚って言ったらそっち・・・よ!

 白身も赤身も青魚も関係ないじゃない。

 確かジュゴンが元なのよね?」

 それならオレも聞いた事がある。

 写真で見ただけだがクジラやイルカみたいな感じで、魚と違って鱗は無くて……

 真見が言葉を継ぐ。

「哺乳類海牛カイギュウ目ジュゴン科に分類されるジュゴンは、赤道を挟んで太平洋からインド洋、紅海、アフリカ東岸、更には日本の沖縄の周辺の海域にも棲息しています。

 学術的にも海牛目はラテン語で〈Sirenia〉といい、ギリシャ神話に登場する〈セイレーン〉に由来します。セイレーンは航海者を美しい歌声で惹き付け難破させるという海の魔物で、元の神話やホメロスの『オデュッセイア』には容姿について語る文章はありませんが、古代ギリシャ美術では女性の頭と鳥の体を持つ奇獣に描かれていたセイレーンが、中世ヨーロッパの美術では女性、鳥、魚の混合獣の姿になり、やがて上半身が女性で下半身が魚という人魚に統一して描かれるようになっていきます。

 そして十六世紀以降、ヨーロッパ人が植民地で見聞したジュゴンや、やはり同じ海牛目のマナティをそのセイレーンの伝説と結び付けて、実在の人魚として母国に喧伝したのです。それがすっかり定着して、以降人魚と言えばジュゴンとなりました」

「そーそー可愛い人魚のジュゴンちゃん♪」

「へえ…ジュゴンってそんなに人魚に似てるの?」

 マヨ姉の合いの手に続き尋ねたキー坊に、真見は淡々と答える。

「平均値で体長三メートル、体重四百五十キログラム。過去には一トン近くある個体も発見されている巨大な哺乳類です。

 体色は灰色で、全身が長い柔毛と短い剛毛によってまばらに覆われており、厳しい寒さや外敵の攻撃から体を保護しています。

 その胴体から伸びる尾ビレは立派ですが、胸ビレは短いしゃもじ型で、とても人間の腕の様には見えません。

 そしてジュゴンは草食で浅瀬の海底に生える海草を食べるので、口と鼻面が一体となって幅広のホースの様に下向きに伸びています。その上に鼻の孔が二つ、更に上に小さな目がポツンポツンとくっ付いていて、例えるなら鼻から下が垂れ下がったカバみたいな顔ですね。

 大きさ、見た目、顔、全て人魚のイメージには程遠いです」 

「え……」

 真見の身も蓋も無い物言いにキー坊がまた固まる。写真で見ただけのオレもジュゴンがそんなに巨大で異形な生き物だとは思わなかった。「相変わらず梅雨空ね〜」などと言いながらとぼけて窓の外に目を逸らしているマヨ姉に、文太さんが恨めしげな声で言う。

「全然可愛くないじゃんよ…」

 しかし真見は平然と返した。

「それでも人魚がジュゴンの様な哺乳類なのは間違いありません」

「可愛くないのに?」

「容姿の問題ではありません。

 よく言われるのは乳頭が左右の脇の下にあり、直立して子供に哺乳する姿が一見すると人にも視えるので、それが人魚伝説の由来になったという説です。

 そしてジュゴンは『ピヨピヨ』と鳥の様な声で鳴きます。どうやってそんな鳴き声を発しているのかは未だ解明されていませんが、イルカやクジラのげい類も人間の様な声帯がある訳ではないのに鼻や喉の器官を振動させて発生させた音波でコミュニケーションを取ります。ジュゴンも同様に仲間と鳴き交わして互いの位置を確認したりしていると考えられていて、その声がセイレーンの歌声に重ねられもしているんですが──」

「赤ちゃんにお乳あげて、歌ってるって…何か頑張ってるママさんってカンジ〜」

 シングルマザーのマヨ姉がママ友目線でジュゴンに感心しているが、真見は構わず続ける。

「それ以前に人魚は生物学的─いや、動物形態学モルフォロジー的に魚ではあり得ないんです。


 もし人魚が魚だったら、泳げません・・・・・


「泳げない?」

 オレの脳内は混乱してママさんがピヨピヨと沈むが浮かぶ。

「動物の泳ぎ方には幾つかの種類がありますが、その第一は〈魚類型〉─普通の魚の泳ぎ方です。想像してもらえれば分かりますよね?

 体を横に・・、尾ビレで推進力を得る泳ぎ方です。

 魚の場合、尾は胴体の延長ですから、魚が尾を左右に振る動きは胴体を左右にくねらせる動きと連動しています。魚の体は横幅が薄くて上下に長いので、左右にくねって泳ぐのが効率的なんです。だから尾ビレも横を向いて付いている。

 またその魚類から進化した爬虫類もこの泳ぎ方をします。蛇も手足のあるイグアナも、胴体と長い尾を左右にくねらせて泳ぐんです。

 ではジュゴンの泳ぎ方はどうでしょう?

 見た事ありませんか?」

 真見はこちらを見てくるがオレは首を振る。だから写真でしか見ていないんだって。

「では同じ泳ぎ方をするイルカやクジラを想像してみてください。

 体を縦に・・泳ぎ方ですよね?

 イルカが尾ビレを上下に動かして推進力を得ているのは見た事あるでしょう?」

 それはある。いわゆる〈ドルフィンキック〉─水泳選手がレースのスタート時に、まだ潜水したまま上半身は伸ばして固定して、両足を揃えて上下にうねらせて進むあれと同じ動きだ。

「これは〈イルカ型〉と呼びますが、水棲哺乳類である彼らが横ではなく縦に体をうねらせて泳ぐのには理由があるんです。

 それは、イルカやクジラ、ジュゴンやマナティの祖先が陸上生活をしていたから。

 陸上で四足歩行をする哺乳類の走り方を思い出してください。背骨は縦に屈伸しながら走るはずです。そんな哺乳類特有の動きは海に進出してからも変わらず、それがイルカの泳ぎ方に残っているんです。イルカの背骨は尾ビレの手前で終わっていて、尾ビレ自体には骨はありません。硬質のゴムのヒレを尻尾の先にくっ付けている様な状態です。それを縦のうねりで上下運動させて泳ぐんです。だからイルカの尾ビレは魚と違って縦─上下を向いているんです。

 全ての哺乳類がイルカ型という訳ではなくアシカは前脚をはばたかせるように動かして泳ぎますし、両生類のカエルの様に脚で水を蹴って泳ぐ生物もいます。ですがここでは魚類型とイルカ型だけ覚えていてください。

 では人魚の泳ぎ方は?お分かりですよね。大きな尾ビレを持っていても上半身が人間なら、その背骨は上下運動をし易い構造になっている。となると全身を一体にして横にくねらせるのは難しい。そう、イルカの様に縦にうねって泳ぐのが自然なんですよ。

 だから人魚は、哺乳類なんです」

「むう、なるほど……」

 文太さんが感心した様に唸るが、オレも同感だ。ビジュアルは全く伝説のセイレーンに似ていないのにジュゴンが人魚だと認識されたのは、その振る舞いが妙に人間っぽかったからか。昏い海に蠢く未知のモノがまるでヒトの様に哺乳し、歌い、ドルフィンキックで泳ぎ去る──

「…でも何かヤダな」

 そう言って文太さんが顔をしかめた。

「正体が分かってみると、人間っぽい動作が妙に気味悪くね?何か無理やり人間おれらの仲間のフリしてるっつうか──ちょっと人魚の漫画描くの考え直そうかな……」




 正体が分かったら──気味悪い。

 仲間のフリ。

 人魚談義についつい惹き込まれていたら、不意打ちで心臓を抉られた。

 そうだ、私は今彼の仲間として不自然が無いよう振る舞っている。ホントは愛して欲しいのに、そんな想いを悟られないように自分を偽り続けている。

 人ではない。

 でも魚でもない。

 そんな私の本当の姿を、気持ちを、彼は知らない。

 知らせる事は出来ない。


 だから、一緒に──




「…そんな人魚について、最も正確に記した文献があります……」

 背後から真見の呟きが聞こえたのは、文太さんのやる気が萎えて話が済んだと思ったオレが施術の仕上げに彼をベッドに座らせて、首周りの調節を始めた時だった。肩越しに見れば彼女はまだ、カーテンが曳かれたベッドの脇に立って俯いている。声がさっきより暗くなった気がするが…?

「なあに?人魚の研究論文とかあるの?」

 マヨ姉は呑気に訊く。超音波治療器の横に座って手持ち無沙汰にしていたキー坊もジッと真見を見て、次の台詞を待っているようだ。

「それが発表されたのは1837年のデンマーク。その二年前に初めての小説『即興詩人』で好評を博した作者が、子供向けに書いた童話集の一編でした」

「童話って、もしかして──」

 思い当たったらしい文太さんが口を挟むが、真見は反応せず続けた。

「王妃を失って久しい男やもめの人魚の王には六人の娘がいました。その人魚の姉妹達は一歳ずつ年齢が異なり、毎年一人ずつ海の上に行っていたのですが、末の姫が十五歳の誕生日に海上で出遭った美しい人間の王子に恋心を抱くのです。しかしその夜の嵐で王子の乗った船は難破し、彼は意識を失って海に放り出されてしまう。末の姫は間近に流れてきた彼が水中にいると死んでしまうと気付き、一晩中海面に持ち上げ続けた──」

「ちょっ、それ、アンデルセンの『人魚姫』よね。それが最も正確な文献?」

 マヨ姉の怪訝そうな言葉にも真見は平然と応える。

「ハンス・クリスチャン・アンデルセンは『即興詩人』の前にも『アグネーテと人魚』という戯曲を書いています。人魚に対して長く、深く考えていたのでしょう。だから今挙げたシーンでも、人魚が魚類ではなく哺乳類だとちゃんと分かって描いていた」

「えっ?」

 オレは文太さんの首の根元─第七頸椎を両手で固定して整えていたのだが、思わず振り向いてしまった。その文太さんも回らない首を懸命に捻って真見の方に目線を送っている。

「だって王子を海面に持ち上げ続けるには立ち泳ぎ・・・・しなきゃ無理です。人間なら踏み足、巻き足、あおり足という脚を使った立ち泳ぎのやり方がありますが、下半身が尾ビレの人魚姫にそれは出来ない。

 また普通の魚にも無理です。エラ呼吸が必要な魚はエラが水中から出ると呼吸が出来ない。海面で一晩中立ち泳ぎしていたら、王子の前に魚の姫の方が息絶えてしまいます。

 この描写を実現できるのは水棲生物の中でもイルカくらいしかいません。水族館のイルカショーをご覧になった事はありませんか?彼らの運動能力は高く、胴体を水上に持ち上げる立ち泳ぎが出来るんです。どのようにしてイルカが立ち泳ぎを実現しているのか、力学的、解剖学的な解析は現在進行形ですが、アンデルセンは十九世紀の時点で人魚はイルカ型の泳ぎ方をする哺乳類であると明示しているのです。

 私は『人魚姫』ほど人魚の生態を解き明かした文献は他に無いと思います」

「そう…なの?」

 オレの口調に猜疑心を読み取ったのだろう。真見は上目遣いでこちらを見据えた。

「こんな描写もあります。

 人魚の姫達はどんな人間よりも美しい声を持っていて、嵐で船が沈みそうになるとその船の前を泳ぎながら、綺麗な声で海の底が如何に美しいかを歌う。だから怖がる事はないのだと…。けれど船上の人々にはその人魚の言葉は理解できず、風が唸る音にしか聴こえない──

 さっき言いましたよね?鯨類も音波でコミュニケーションを取る。イルカは陸から海に生活の場を移した事で、それまで餌を噛んで食べていたのが海水ごと丸呑みする形になり、その物を噛む筋肉が必要なくなった。最新の研究ではその咀嚼そしゃく筋が、〈音響脂肪〉に〈トレードオフ進化〉を遂げたという事が分かってきたのです」

「音響脂肪?トレードオフ進化?」

 高校生のキー坊がオレやマヨ姉に物問いたげな視線を向けるが、大人のオレ達は揃って目を逸らす。代わりに一応物知りな文太さんが応えた。

「俺も詳しくはないけど、イルカやクジラが水中で音が聴こえるのは外皮にぶつかった音波が頭部に溜まった脂肪をブルンって揺らして、その振動が内耳部分に伝わるからでさ。それを音響脂肪って言うんだ。

 トレードオフ進化ってのは何かの器官が無くなった代わりに別の器官が発達するってヤツだから、まあ行って来い・・・・・なカンジ?」

「ブルンと行って来い……」

 オレ達が何となく理解したのを察して真見が再び口を開く。

「その音響脂肪によってイルカは非常に優れた聴覚を発揮できます。当然、彼らの会話・・は人間には感知できません。まだそんな研究が進んでいない時代に、人魚の言葉は人魚にしか聴き取れないと記したのはアンデルセンの慧眼です」

「はあ…」としか言いようがない。

 前からそうだが真見は基本どんな話題も無表情で話すので、本気か冗談かの区別が付かない。と言うか、そもそも何を考えているのか分からない。

 オレは何も返す言葉が浮かばなかったのだが、キー坊が呟く。

「何か、アンデルセンの描写はジュゴンではなくイルカ寄りなんですね…ちょっと印象変わってきたな」

「そうね、人魚が可愛いってイメージ戻ってきたかも…」

「うん、やっぱ漫画描こうかな」

 マヨ姉の言葉に文太さんがフムフムと頷く様に首を動かす。調節がはかどらないからジッとして欲しい。

 真見が続ける。

「アンデルセンが書こうとしていたのはラブ・ストーリーですからね。主人公はやはり溌剌と泳ぐ若く美しい人魚でなくてはと思い、イルカをイメージしたのでしょう。彼の故郷デンマークもイルカが多く生息する地域ですから。

 そして逆にジュゴンの生息地域からは大きく外れています」

「えっ、そうなの?」

 オレは驚く。それは意外だ。世界に認められた人魚のモデルと言えばジュゴン、世界一有名な人魚と言えば人魚姫。なのにそれがイコールで結ばれないのか…。

「じゃあ真見クンも、そんな『人魚姫』が正確だって言うなら、人魚はジュゴンよりイルカ寄りって考えてるって事?」

「いえ、私が正確と言ったのはそこじゃありません。確かに海牛目のジュゴンはラクに潜水する為に骨が重く、その為泳ぐスピードは遅い。若い人魚姫のイメージには合わないでしょうが、反面、威厳のある人魚の父王のイメージには合致します。一族としての人魚はジュゴンもイルカも含めた水棲哺乳類全般として捉えていいのではないでしょうか」

「じゃあ…」何が正確なのか。

 真見はその眠たげな目を少し細めた。


「人魚姫の恋は実らない──それが残酷なまでに正確なんです」




 人魚姫の恋は実らない。

 そうだ…お話の続きでは嵐の海から王子を救い出した人魚姫が、朝になっても意識を取り戻さない彼を海岸に横たえる。すると現れた修道女が王子を見付けて連れていき、人魚姫は黙って海の底に戻っていく。

 そして人魚姫は王子を恋い焦がれるけれど、人魚と人間ではあまりに違い過ぎて苦悩するのだ。


 同じだ…私と同じ……




「人魚姫は祖母から人間について教わります。

 三百年生きられる自分達とは違い人間は短命だが、人魚は死ねば泡となって消える。しかし人間は魂というモノを持っていて天国に行けるのだと。

 その魂を手に入れる為にはどうしたらいいのかと姫が尋ねると『人間が自分を愛して結婚してくれれば可能』だと祖母は答えました。

 けれど同時に『人間が異形の人魚われわれを愛する事はないだろう』とも告げるのです」




 人魚わたし人間かれは違う……


 ああ…その苦悩はまるで──私。




「そこで人魚姫は海の魔女の許を訪れ、舌を切られ美しい声を失うのと引き換えに、尾ビレを人間の脚に変える魔法の薬・・・・を貰う。そして『王子に愛される事が出来なければ、お前はすぐに海の泡となる』と警告されるのです」




 魔法の薬……




「それでも人魚姫の意思は変わらず薬を飲みました。海岸に人間の姿で倒れている人魚姫を見付けた王子は声を掛けますが、人魚姫は声が出せない。

 そしてその脚には、歩く度にナイフで抉られる様な激痛が走るのです。

 そんな人魚姫を王子は城に連れ帰ってくれますが、声を失った彼女は彼を救った出来事を話せず、彼も彼女が命の恩人だとは気付かなかった……

 ホラ、正確でしょ、烏頭先生」

「んあ?」

 よく細かいお話の流れを覚えているなあ…と感心しながら聞いていたオレは、急に話を振られて変な声を出した。

「え、な、何が正確だって?」

「まずは声が出ない事。

 この様な魔女や悪魔との契約を描いた物語では、望みを叶えてもらう代わりに代償を支払うのは定番です。ゲーテの『ファウスト』が有名ですが、元はドイツの錬金術師であり降霊術師でもあったゲオルク・ファウストが、己の魂と引き換えに悪魔─メフィストフェレスを召喚して自身の欲望を満たそうとしたという伝承ですね。このファウスト伝説が広く知られて格好の創作対象となった訳ですが、人魚姫の場合『代償として魔女に舌を切られた』という描写は、アンデルセンの一種の暗喩ではないかと思うんです。水棲哺乳類として声帯以外で音を出しコミュニケーションを取っていた姫が、陸に上がって喋れないのは当然だ──という。

 そして脚の痛みです。

 元々陸にいたイルカやクジラには退化したとはいえ骨盤がありますので、人魚姫にも骨盤はあったと思われます。しかしそこから生えた左右の大腿だいたい骨、膝蓋しつがい骨、骨、けい骨、足骨と続く下肢骨、そしてそれらを支える脚の筋肉は、今までの下半身とはまるで違う構造をしている訳です。

 そんな肉体の急激な変化の結果、人魚姫の脚には大きな負担が掛かり、故障して激痛に襲われていたのではないでしょうか?

 私は〈足底腱膜そくていけんまく炎〉を疑っています。足の裏のかかとの内側から指の付け根へと及ぶ筋肉を覆う靭帯性の膜─足底腱膜の炎症ですよね。これを発症すると朝起きて最初の一歩を踏み出した時に、踵に耐え切れない程の強い痛みが走ります。しかししばらく歩いているうちに痛みが少し治まっていくのも特徴です。人魚姫は激痛に襲われながらも全く歩けなくなる事はなく、彼女の歩き方自体は軽やかで美しかったとの記述があるんです。足を引きずったりしている様子も無い。

 足底腱膜炎の大きな要因として、歩行や運動等によって足底に繰り返し負担が掛かる事が挙げられます。普段歩いているだけでも踵や土踏まずは知らず知らずのうちにダメージを負っています。それが例えば過度のランニングや、高いジャンプや激しいステップを伴うスポーツ等で足底に強い圧力と急な刺激を与え続ける事でより負担が蓄積し、足底腱膜炎になる危険性が増す訳です。

 足底腱膜炎の発症を予防するにはまず『激しい運動を急に行なわない事』ですが、人魚姫は使った事のない脚をいきなり軽やかと評される程派手に使ってしまった。本来運動不足の人が新たに運動を始める場合は、少しずつ運動強度を上げて体を慣らすのが大切にも関わらずです。

 そして足底に負担を掛けない為にはもう一つ、『体重の著しい増加を防ぐ事』も重要です。しかし人魚姫の場合、今まで海水の浮力で感じていなかった自身の体重が、全てその脚から足底に掛かってきたのです。急激に太ったのと同じですよね。

 これらが重なって『ナイフで抉る様な痛み』が発症してしまったのでしょう。アンデルセンの描写は理に適っています。我々が診てあげられたら治癒へのアドバイスも出来たかと思うと悔やまれますね」

 そう聞くと脚を傷めた人魚姫が待合室に座っているイメージが浮かび、喋れないなら問診票を書いてもらって、まずは冷却や超音波で炎症を抑えてから下肢全体のストレッチ…とつい治療計画を考えてしまう。これも柔道整復師のさがか…。

「あ、だったら水中トレーニングとかいいんじゃねえか?元々人魚なんだから泳ぎも得意だしさ!」

 文太さんが得意げに言う。

 確かに浮力で体重が軽くなる為、膝や股関節等を傷めた患者のリハビリとして水中でのエクササイズやウォーキングは効果的だ。脚を傷めた人魚姫も陸上での運動は難しくても、重力に抗する筋肉の大腿二頭筋や大殿筋等に負担を掛けずに、歩行の為の前脛骨筋や大腿直筋を鍛えられるだろう。水の抵抗が加わる事で短時間でも多くの運動量になるのもメリットだし、水圧が適度に血管を圧迫して静脈の血液が心臓へ戻るのを助けてくれる為、心臓の負担も減る。心拍数が上がりにくく、ラクにトレーニングできる。

 しかし真見は冷ややかに言い放った。


「人魚姫は泳げないと思いますよ」


「え?」「は?」文太さんだけでなくマヨ姉やキー坊からも疑問の声が上がった。オレもつい反論してしまう。

「いや、尾ビレが脚になったからって、元々人魚は哺乳類なんだろ?イルカみたいに立ち泳ぎしてたって言ってたじゃん。だったらクロールや平泳ぎはともかく、ドルフィンキックは出来るんじゃ──」

「人間のドルフィンキックは、イルカのそれとは全く原理が違います。同じなのは下半身を上下にうねらせる動きだけです。

 イルカの尾ビレに骨が無く硬質のゴムみたいなモノだというのは先程も言いました。しかしその尾ビレの先端は上─海面側には曲がりますが、下─海中側には曲がりません。これが泳ぎ方の秘密です。尾ビレを上に曲げるとその場所に前方から水が流れ込み、その水が無くなった空間にイルカの体が吸い込まれる。それでイルカは前方への推進力を得るのです。尾ビレを上げる為には当然体の上部の筋肉を使いますから、イルカは背中側の筋肉が発達しています。人間で言えば背骨を支える僧帽筋や広背筋、脊柱せきちゅう起立筋群が尾ビレの寸前まで発達して伸びているカンジですね。逆に下ろす時にはあまり力が要りませんので腹部には目立った筋肉がありません。

 一方、人間の足は構造的に踵側にはあまり曲がりません。大きく曲がるのはツマ先側ですよね。ドルフィンキックをする際、人はそのツマ先側─海中側に曲げた足を踵─海面側に伸ばす動きで水を蹴って進みます。

 つまりイルカの尾ビレは水が逃げるように上に曲がり下に戻り、人の足は水を蹴る為に下に曲がり上に戻る──イルカと人間のドルフィンキックでは、その動き方が上下逆・・・なんです。

 当然、人間のドルフィンキックではイルカと違い、体の下部─お腹側の筋肉を使う必要があります。と言っても腹筋そのものは背筋と共に上半身を固定させるのが役目です。ドルフィンキックはあくまで下半身をうねらせて進む泳法ですからね。では最も重要な筋肉はどこなのか──

 そう、大腿四頭だいたいしとう筋です。

 太腿前面の筋肉ですよね。人間が歩く為にも重要な、脚が無かった人魚姫には元々無かった筋肉です。上手く使えるはずがありません。それで歩くのも不慣れで、足底腱膜炎にも繋がったのではないでしょうか。そういう意味で私は、尾が脚に変わった人魚姫は泳げなかったと思うんです。


 彼女は人魚ではなくなった。

 けれど人間でもなかった。

 魂も無い、言葉も通じない…見せかけの形だけの存在。

 だからその恋は実らない──『人魚姫』はそんな残酷な真実を正確に描いていたんです」




 そう…私は人魚姫。

 どちらでもない・・・・・・・存在。

 そんな人魚姫の恋は実らない。魔法の薬で形だけ手に入れた見せかけの恋は、やっぱり実らないのだ……


 童話の『人魚姫』もこの後、当然の様に悲劇的な結末を迎える。

 王子は人魚姫を可愛がってくれたけれど、やがて隣国の姫との縁談が持ち上がる。その姫こそ王子が自分を助けてくれた修道女として想い続けていた女性だった。修道院へは教養を身に付ける為に入っていただけ。王子は喜んで婚姻を受け入れて姫をお妃に迎え、人魚姫は絶望する。

 そこに現れた人魚姫の姉達が髪と引き換えに魔女に貰ったナイフを差し出し、王子を刺して返り血を浴びれば人魚の姿に戻れると言う。人魚姫は眠っている王子にナイフを振りかざすけれど、隣で眠る花嫁の名前を呟く王子の寝言を聞くと、手を震わせて、ナイフを遠くの波間へ投げ捨てた。

 みるみる真っ赤に染まる海。

 愛する王子は殺せない。

 彼の幸福も壊す事は出来ない。

 だから彼女は自ら死を選び、海に身を投げて泡となった──


 ナイフの代わりに私は紫陽花アジサイを使った。でも彼は死ななかった。スイセンでもフグでも魔法の薬でも、どんなに実験・・してもきっと失敗するのだろう。

 私は人魚姫だから。

 見せかけだけの、愛される魂の無い存在だから。


 だったらせめて、最期も人魚姫みたいに終わろう。


 …ゴメンね。

 独りで泡になるね……


 サヨナラ………




 ──その時、カーテン越しに声がした。


「それでは鍼、抜きますね」




 ひとしきり『人魚姫』の話をしていた真見は、カーテンを僅かに開けて施術中のベッドに戻った。

 鍼の技法の一つに刺した鍼をしばらく放置する〈置鍼ちしん術〉というのがある。時間の経過によって刺激量をコントロールできるのが特徴で、短ければ五分、長ければ二十分程度置鍼する事もあり、当然長時間刺しっ放しにするほど血流が促進され筋肉が緩む。真見は患者の状態に合わせ置鍼術を選択して、その待ち時間に人魚談義に加わっていた訳だ。

「じゃあ今日はこれでいいですよ」

 真見がそう声掛けして先にベッドを離れ、しばらくしてカーテンが中から開かれた。着替えを終えた患者が出てくる。

 その患者にキー坊が声を掛けた。

「どう、ラクになった?」

 キー坊の人懐っこい笑顔に対して、その相手は俯いたままぎこちなく笑って答える。

「うん……」

 か細い声は内気な性格のあらわれだ。

 しかしその患者──キー坊と同じ制服の男子高校生は身長190センチの筋骨隆々、例のビーグル犬─バロンを飼っている資産家の息子の筋トレマニアである。

「シュワちゃんの筋肉凄過ぎて、オレの指入んなかったからね。真見クンの鍼の方が解れるだろうと思ってバトンタッチしてみたけど、ラクになったんなら良かった」

 そう声を掛けたオレにシュワちゃんはまた小さく笑う。やはり目は合わせない。ホントにシャイなコだ。トレーニングのし過ぎによる筋疲労の為以前何度か来院していたが、また別の理由で下半身を傷めて先週からマメに通っていた。それはその時からいつも一緒に来ている同級生のキー坊と関係している。

「いやあ、軽音楽部に今ドラム出来るのいなくてさ。秋の文化祭でコンサートやるのにどうしようって悩んでたら、コイツが名乗り出てくれたんだ。それで毎日猛特訓してんだけど、頑張り過ぎて膝とかふくらはぎにきちゃってさ…バスドラムって足でやるから」

「ゴメン…なかなか上手くならなくて……」

「何言ってんの、上手くなってるって!筋肉凄いから力あって迫力満点だし。

 それにさセンセ、コイツ、筋トレマニアでしょ?体のケアにも詳しくて、ボクもキーボードで腕が疲れてるって言ったらここに連れてきてくれたんだ。 

 栄養学も勉強してて料理も上手いんだよ。日曜日の練習の時ボクの分もお弁当作ってきてくれてさあ…この間の混ぜご飯、ホント美味しかったなあ〜っ」

 キー坊はシュワちゃんの肩にニコニコと腕を回した。シュワちゃんは若干頬を染めながら「ありがとう…」と相変わらず小声で返す。『気は優しくて力持ち』を地でいく様なシュワちゃんはこんな風に周りから慕われているのだろう。実際キー坊は自分の超音波治療が終わっても、毎回シュワちゃんの治療が終わるのを待っている。微笑ましい高校生同士の友情だ。

 彼の家の犬を毎日散歩させてあげているお婆ちゃんも、そのバロンが最近体調を崩した時、シュワちゃんが気に病んだら可哀想だと彼を気遣っていた。何でもバロンが庭の紫陽花アジサイを間違えて食べてしまったのだとか──

 文太さんの施術を終えたオレは、気になっていた事をシュワちゃんに訊いてみた。

「栄養学も勉強してるって事は、ちゃんと食事で体作りしてるって事だよね?サプリメントも良いけど頼り過ぎちゃ駄目だからね」

「ハイ……」

「まさかとは思うけど魔法の薬・・・・は使ってないよね?」

「魔法の薬?」

 シュワちゃんより早く反応したのは文太さんである。まあ知らない人には何の事だか分からないだろう。

「俗にそんな言い方するんスけどね、〈アナボリック・ステロイド〉─筋肉増強剤の事ですよ。海外ではボディビルダーなんかが日常的に使っていて、日本でも更年期障害や骨粗鬆こつそしょう症なんかの治療薬になる為医師の処方があれば入手できるんですが、オリンピックや多くのプロスポーツでは使用は固く禁じられてます」

「あ、ドーピングってやつ?」

「そうそう、で何でそうやって規制されてるかっていうと、確かに筋肉量は増やせるけど副作用のリスクも大きいんスよ。血圧やコレステロール値の上昇。循環器疾患や冠動脈疾患のリスク増加。長期の使用は癌や白血病にも繋がりますし。

 またホルモンバランスが崩れる為、男性が使用すると乳房が女性化して発育したり、声の高音化や無精子症なんかも引き起こしちゃうんです。女性はその逆に男性化するし…。

 特に思春期の摂取は骨の成長も止めてしまいます。

 だからシュワちゃんくらいの年頃のコには絶対に使わないで欲しいんだ。ね?」

「ハイ……」

 オレが力説するのには理由がある。勿論、使ってないという言葉を疑いたくはない。しかしそれにしては彼の肉体は見事過ぎるほど鍛えられている。しかもアナボリック・ステロイドは現状、海外からの個人輸入なら医師の処方が無くても手に入ってしまう。資産家の息子である彼なら入手可能なのだ。しかしそんな魔法の薬は、得られるモノもあるが失うモノも大きい。

 そう、まるで人魚姫が魔女から貰った薬の様に──




 私は嘘をついた。

 お世話になっている整骨院の先生を騙すのは申し訳ないけれど、言える訳がない。

 引き籠もりで不健康だった自分を変えたくて筋トレを始めた。ジムに通う勇気は無かったから自室にベンチプレスを設置したけど、食事とサプリメントだけでは痩せていた体はなかなか育たなくて…だからお父様に頼んで魔法の薬を手に入れた。

 全ては今隣にいる彼に釣り合う人間になりたくて…明るくて優しくて、軽音楽部を引っ張る部長リーダーで、一流のキーボード奏者としてファンもたくさんいる人気者…そんな彼に認めてもらいたくて。

 愛してもらいたくて……

 そしてようやく自信が付いて、勇気を出して彼に言えたのだ。軽音楽部に入れて欲しい、仲間にして欲しいと──


 でも、やっぱり駄目。

 彼は私の入部を喜んでくれて仲良くしてくれるけど、あくまでトモダチ。それ以上は無い。私が告白したら全てが終わる。

 だって私は、ホントの自分を筋肉の鎧に閉じ込めた見せかけの人魚姫。

 自分自身の欲望の為に、彼を道連れに殺そうとした魂の無い異形の者。

 バロンまで実験台にして…。

 彼の為にも泡となって消えよう。


 そうだ…魔法の薬をいっぺんに……




「それにしても『人魚姫』って可哀想なお話ね〜。真見ちゃんの言う通りなら初めから絶対に結ばれない設定で、ラストもその通り海の泡になっちゃうんだもん…」

 オレがパーテーションに寄りかかりながら施術を終えた文太さんとシュワちゃんのカルテを見て料金を計算していると、それを受付で待っているマヨ姉がボヤいた。するとベッドの横で鍼の道具を片付けていた真見が応える。

「アンデルセン自身が失恋したショックを癒そうとして書き始めた物語だそうです」

「は?じゃあ腹いせで、人魚姫ちゃんも不幸にしたって事?」

 途端にご立腹なマヨ姉。しかし──

「違いますよ」

「え?」マヨ姉と共にオレもつい真見の方を向く。

「何が違うって?」

 パーテーションの向こうの待合室にいる文太さんの声も聞こえた。当然キー坊とシュワちゃんにも真見の声が届いただろう。

「そう思っている方は多いんですが、『人魚姫』のラストは姫が泡になって終わりじゃないんです。

 彼女が泡になった後、原作はこう続きます。


『そのとき、お日さまが海からのぼりました。

 やわらかい光が、死んだようにつめたい海のあわの上をあたたかく照らしました。人魚のお姫さまはすこしも死んだような気がしませんでした。

 明るいお日さまをあおぎ見ました。すると中空に、すきとおった美しいものが何百となくただよっていました。それをすかして、むこうのほうに船の白い帆と空の赤い雲が見えました。そのすきとおったものの話す声は、美しい音楽のようでした。といっても人間の耳には聞えない、まことにふしぎな魂の世界のものでした。その姿も人間の目では見ることができないものでした。つばさがなくてもからだが軽いために、空中にただよっているのでした。

 人魚のお姫さまはそのものたちと同じように、自分のからだも軽くなって、あわの中からぬけ出て、だんだん上へ上へとのぼっていくのを感じました』──


 そう、人魚姫は泡になってそのまま消えてしまうのではなく、風の精霊に生まれ変わるんです。

 どこに行くのか戸惑う彼女に他の精霊が言います。貴女は自分達〈空の娘〉の仲間になり、暑さで苦しむ所に涼しい風を送ったり、花の匂いを振り巻き、物を爽やかにする仕事をするのだと。

 空の娘も人魚と同様に魂は無いが、人魚と違い人間の助けを借りずとも三百年勤め続ける事で魂を自力で得られる。貴女は今までの苦労が報われてこの世界に来られたのだと、新しい仲間達は人魚姫を励まします。

 生まれ変わった人魚姫は海の泡を悲しそうに見ている王子と花嫁を見付け、花嫁の額にそっとキスをしました。そして愛しい王子に微笑みかけた後、薔薇色の雲の中を飛びながら『あと三百年で神様の国に行けるのね』と呟きます。


『「でも、もっと早く行けるかもしれませんよ」と、空気の娘のひとりがささやきました。

「あたしたちは、人に見られないで子供のいる人間の家にはいっていくのです。そうしておとうさんやおかあさんをよろこばせて、おとうさんやおかあさんにかわいがられているよい子供を毎日見つけるのです。そうすると神さまがそれをごらんになっていて、あたしたちをおためしになる時を短くしてくださるのです。

 その子には、あたしたちがいつお部屋の中を飛んでいるのかわかりません。でもそういう子供を見つけると、あたしたちはうれしくなって、ついにっこりと笑いかけてしまいます。そうするとすぐに三百年のうちから一年へらしてもらえるのです。

 けれどもその反対に、おぎょうぎのわるい、よくない子どもを見ると悲しくなって、思わず泣いてしまいます。そうすると今度は涙をこぼすたびごとに、神さまのおためしになる時が一日ずつのびていくのです」』


 そして太陽に向けて両手を差し伸べた時、人魚姫の頬に生まれて初めての涙が零れ落ちるんです。

 それは見せかけだけだった彼女が本当の魂を得られるかもしれない、希望の涙なんです。

 人魚姫は自分の恋を成就させたい為だけに魔女と契約を交わしました。そうやって本来の自分を隠し、様々なモノを犠牲にして、しかしそんな偽りの姿には魂は宿らなかった。結局、そんな独りよがりな恋愛をしていただけだと、アンデルセンは自身を省みたのでしょう。

 だけど最後の最後で人魚姫はナイフを捨てた。その自己犠牲の覚悟が、自分が死ぬか王子が死ぬかの二者択一を超えたもう一つの結末──未来への希望を呼び込んだんです。それは作者が込めた願い・・だったと思います。


 時間はかかるかも…三百年かかるかもしれないけれど、やっぱり駄目かもしれないけれど、それでも希望を抱いてニッコリと微笑んでいれば。


 もしかして。

 いつか。

 きっと──」


「あれ、どうしたの?」

 不意に待合室からキー坊の声がした。

 それに応えるシュワちゃんの声が震えている。

「何でも…ないよ……」

「涙出てるじゃん、目痛いの?」


 何だろうと思いながらふと真見の顔を見ると、彼女は今日初めて、薄く笑った。

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