それはカインが魔王と呼んだ女の叫びだった。
雪女の正体を知らぬのか、あるいは彼女には優しかったのか。
魔王はルーシーに斬られた殺人鬼に、涙とともにそんな声をかけた。
しかし、精霊にとっての心臓――精霊核は砕かれた。
もはや雪女はその身体を維持することも難しい。
勝敗は決した。
カインが止めるのもかまわず飛び出した魔王が、雪女へと歩み寄る。
徐々にその姿を留められなくなる雪女の肩を抱いて励ますも、その崩壊は止まらない。
雪の精らしく、彼女の身体は魔王の腕の中で、粉雪へと変わっていく。
憎むべき殺人鬼。
とはいえ、切ない思いが俺の胸を襲う。
これで本当によかったのか――?
「氷雨! ダメじゃ! 逝ってはならぬ! お主が逝ってしまったら……カインのようなダメダメ使徒しかおらんくなってしまう! いやじゃいやじゃ! 毎日奴から罵声を浴びせられるのは! お主がおらんと間が持たん!」
「おい! 聞こえているぞ、ダメダメダメ魔王! 誰がダメダメ使徒だ!」
いや?
愁嘆場にしては随分余裕だな。
同情したのは間違いだったかもしれない。
ふと、そんな中、魔王の頬を涙が伝う。
泣き濡れる彼女の頬に雪女は手を添えると――妖しく微笑みかけた。
「魔王さま、ワッチのために泣いてくるんどすな。ワッチのような、人を殺めることでしか、愛を感じられない、できそこないの妖魔を……!」
「なにを言うのじゃ! 氷雨はできそこないなどではない! 妾(わらわ)のことを守ってくれたではないか! カインのように、暴言を吐くことしかできないろくでなしと違って! 妾(わらわ)のことを魔王として敬い、接してくれていたではないか!」
「だから、わざわざ私をディスる意味はあるのか!」
よく分からないが、カインはこの娘たちにも迷惑をかけているんだな。
危険人物には違いないし、ここでちゃんと捕縛しよう。処刑も――身内を手にかけるのはあまり気乗りしないが、考える方向で。
これ以上、このモロルドで騒ぎを起こされたら困るものな。
弟のやりとりにますますと気が緩む。
もう既に雪女の身体は半分以上が崩れさっている。
なにも心配などない――。
そう油断したのが間違いだった。
雪女の前にいるのが妖魔を統べる存在――魔王だということに、俺は思いを巡らせることができなかった。
雪女は彼女に出会って以前より強くなった。
そのことを、俺はすっかり忘れていたのだ。
「大丈夫じゃ! 今、妾(わらわ)が力を分け与えてやるからのう! 魔王の魔力を使えば、この程度の傷――すぐに直すことができるのじゃ!」
「なっ、そんなバカな⁉」
それは魔王に、眷属に力を分け与える権能があるということ。
単に力を増幅するだけではない、致命傷を回復することだってできるだろう。
そんな当たり前のことを俺は忘れていたのだ。
身体が崩れていくことばかりに意識が行っていたが、よく見ると雪女の精霊核のヒビが塞がってきている。魔王の零した涙を吸って、結晶は再びその輝きを取り戻した。
ヒビが入る前より、まがまがしく巨大になって。
これはまずい。
そう思って身構えるよりはやく、俺たちの周囲を猛烈な吹雪が覆い包んだ。
「……魔王さん。見事な演技でありんした。おかげでこの通り、すっかり回復するどころか、パワーアップまでさせてもろて。かしこかしこでありんすな」
「…………演技? なんのことじゃ?」
「おや、気づいておらなんしたか……」
吹雪の中から響く雪女と魔王の会話。
声色から雪女は完全に復活したに間違いない。
こんなことなら、すぐにトドメを刺すべきだった。後悔する俺の後ろ襟を、ひょいと何者かがつまみあげる。
耳元にかかるくすぐるような声。
吹雪と同じくらい冷たいその響きは――ルーシーのものだ。
どうやら彼女が、この吹雪の中で、みんなを集めてくれているらしい。背中には、ステラ、ヴィクトリア、そしてララが既に乗っていた。
「旦那はん、ここは一旦距離を取りましょ。どうもあの魔王言うのんが、いらんことをしてくれはったみたい。今の殺人鬼には、ウチもきっと敵わへんわ」
「……そうだな、ここは一旦体勢を立て直そう」
「おっと、そうは問屋が卸しませんえ。さあさあ、せっかく魔王さんが、ワッチに力を与えてくれたんえ、それを使わな損いうもんです……」
逃げようとした俺たちを白い吹雪が襲う。
ステラの翼が凍り、トリストラム提督が丸くなる。プーちゃんがカチンという音をたてて結晶化し、ヴィクトリアが「排熱系に異常発生」と叫ぶ。
絶体絶命。
かくいう俺も、頬が凍りついてまったく動かない。
さらに――。
「ふふふっ! 力が、魔力が、ワッチの身体を溢れてますんえ! 今ならきっと、ワッチの力は神仙にも及ぶはず!」
「…………神仙に及ぶ? 待て、まずいぞ!」
「結界術『凍葬叛嚢』!!!!」
白く彩られた周囲の景色に、光の線が走ったかと思えば、たちまちのうちに結界が形成される。魔王の力を受けて進化した雪女は、ついに神仙の境地に至った。
彼らが人生をかけて編み出す結界術。
それを使ってみせたのだ。
「案外、簡単にできるんでありんすな。さあ、それではさっそく、ワッチの鳥かごのなかで、あんさんたちには死んでもらいましょか……!」
「くっそ、油断した。まさか魔王の力がここまでとは……!」
なんだか冗談のようなやりとりばかりで、本当に目の前の少女が魔王だなどと信じられなかった。魔王の権能があるだなんて、考えもしなかった。
これは完全に俺の判断ミスだ。
ますます強まる吹雪。もはや隣の人の顔さえ見えぬ暴威を前に、俺は石兵玄武盤を取り出すと、土の壁を召喚して吹雪を防いだ。
それが一時的な虚しい抵抗だと知りながら……。