見上げれば夜空に人影が舞っていた。
人の身体よりも随分大きな翼を広げた女は、金色の髪を月明かりの下で輝かせ、こちらに真紅の瞳でこちらを見つめている。
赤く色づいた口元の端には、下弦の月よりも鋭い歯が見えた。
意味もなく身体が震える。
それが女への畏怖からくるものだと気づくのに、時間はかからなかった。
間違いなく強者。
精海竜王と同じ、人智を超えた力を持つ者。
人の身なりをしているが、次元が違う存在。
そして、精海竜王とはまた違う――。
おそらく彼女とはわかり合えない。
満天の星空から赤い流星が降り注ぐ。
それが、彼女の繰り出した攻撃だと気づいた瞬間、石兵玄武盤に魔力を籠めた。
厚い岩の岩盤が、降り注ぐ赤い矢を弾き飛ばす。
見た目よりも剛性の強いそれは、岩盤に突き刺さり、その表面を抉り、砕き、ひびを入れた。なんとか砕ける寸前で攻撃は止まったが、もしも相手の力量を見誤っていたなら、俺は命を落としていただろう。
死の実感が背中を湿らせる――。
「ほう、なるほど。その歳にしては随分と死線をくぐり抜けてきたと見える。妾(わらわ)の攻撃に即応し、防いでみせるとはな。見事というものよ」
「貴様……いったい何者だ! なぜ、カインを助ける!」
「カインは我が第一の使徒。まあ、性格がクズで、人間としても終わっており、たいした取り柄もなく、頭もそんなによくないが……臣下を守るのは王の務めよ。そう、この魔王カミラの目が紅いうちは、我が使徒たちに危害は加えさせん」
「……魔王、だと?」
どうしてそんなものがモロルドにいるのだ。
いや、精海竜王も、黒天元帥も、エルフもいた時点で、魔王が出てきたくらいで驚いても仕方ないか。それでなくても、これまでの俺たちの施策により、モロルドは東洋一の港町としての活気を取り戻しつつある。やって来てもおかしくない。
「いや、けど魔王ってなんだ? どういうことだ?」
「マスター! 気をつけてください! あの女――魔王を自称するだけあって、たしかな実力を持っています! 内に秘めている魔力量は、全盛期の精海竜王さまにもひけを取りません! 気を抜いて相手ができる敵ではないです……!」
「全軍、構え! 夜空に飛ぶ女に向かって、一斉掃射!」
「「「「ヤーッ!!!!」」」」
緊張した会話を俺とヴィクトリアが交わす横で、イースが小人たちに声をかける。
地面に展開したゴーレム部隊。彼らは礫を手にすると、それを夜空に向かう女に向かって一斉投擲した。
もちろん、そんな攻撃が効くはずない。
無駄なあがきと思ったのだが――。
「のわぁああああッ! やめっ、やめるのじゃ! 石を投げるでない! そういうの、弱い者いじめというのじゃぞ! ひぃん! 今、当たったのじゃ! 落ちる! 当たり所が悪かったら、落ちてしまうのじゃ! 助けてたもれ、カイン、氷雨ぇ~!」
「……うん? なんだかいきなり雰囲気が変わったな?」
ゴーレムたちの投擲攻撃は、思った以上に効果があった。
夜空に向かって飛び交う小石に、魔王はひんひんと泣きながらよろめき、そして威厳もなにもあったものではないくらいに狼狽えた。
なんだろう、この怖いくせに、謎にか弱い生き物は?
ヴィクトリアが言う通り、魔力は魔王に相応しいものを感じる。
なのに、なぜここまで弱い……?
魔王の狼狽する姿を俺たちは黙って見つめる。
ついでに、使徒と彼女に呼ばれたカインも――。
「おい、小娘! せっかく魔王らしくキメて、ケビンの奴らがビビっていたのに、なにをやっているんだ! お前がアホだとバレたら、せっかくの威圧感も台無しだろ! 魔力の前に、まずは演技力を鍛えろ!」
「し、仕方ないであろう! 妾(わらわ)がこの覚醒状態になれるのは、満月の夜だけなのじゃから! 普段からこの状態であれば、なんとでもえばることはできるが……!」
「だからこそ演じられるようにしておくのだ! 暗渠暮らしですっかり引きこもり気質になりおって! 魔王なのだろう! そういうところが自覚が足りぬというのだ!」
「なにおう! せっかくお主のピンチを助けてやったというのに! この恩知らず!」
なにやら随分と親しげだな。
うぅん。
憎い仇だが、同時に長く一緒にいた義弟でもある。
彼がこんな風に、感情を丸出しにして相手にできる人物は、はたして俺が家宰をしていた頃にも、いただろうか……?
「……いや、カインに情けは無用だ! ララにしたことを、俺はけして許さない!」
「くっ! ほれ、今度はケビンの攻撃が来るぞ! 身構えろ、カミラ!」
「唸れ石兵玄武盤! その自称魔王を地に這わせるのだ!」
土を操り巨大な手をつくり、ハエを払うように魔王に向かって振り下ろす。
金色の髪を揺らして振り返った吸血鬼。
だが、もう間に合わない。
どうやら戦闘の駆け引きは不慣れなようだ。
カインの忠告もむなしく、あっさりと石兵玄武盤の手にからめとられると、その身を地面に叩きつけられた。
あまりにもあっさりとしていて、歯ごたえのない決着だった。
これが本当に魔王……なのか?