目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
第37話 セイレーンの末姫、髪を洗う

「ふっ……あぁッ♪ これが温泉かぁ……湯浴みとはまた違う心地よさだ」


「左様にございますね。地熱で温められた湯が、ここまで気持ちがいいものとは」


 島に上陸し、ララに案内されること四半刻。

 深い森林の中に草の民の隠し湯はあった。


 滑らかな岩を並べて作られた湯船。

 そこに満ちる天然の温水。


 広さは俺の執務室もあるかどうか。

 深さは膝の高さ。かがめば腹まで湯に浸かる。

 湯浴みでもこんなに贅沢に湯を使うことはない。

 そして、人肌には少し熱いお湯が、中央の岩から懇々としみ出している。


 昇り立つ湯気と硫黄の香りがまたたまらない。

 熱とともに、なにか特殊なものが身体に染み入っている気分だ――。


 あぁ! これが温泉!

 このまま蕩けてしまいたい!


 セリンと肩を並べ、俺は気の抜けた声を上げた。

 隣の海竜の姫も、いささか艶っぽい声を漏らし、その脚と腕を伸ばす。


 無防備になったその胸が、俺の目の前で揺れ――ない!


 なぜか?

 それは彼女がしっかり服を着ているからだ!


「この木綿の服も着心地がよいですね。水の中でも動きの邪魔にならなくて」


「そうだな。流石は草の民の知恵だ……」


 湯浴みをする前に、ララは俺たちに温泉の作法を教えた。


 汚れた身体で入らない。

 手ぬぐいなどを浸けて湯を汚さない。

 湯の中で泳いだりしない。

 飲食は迷惑にならないように。


 そして――。


「湯に浸かる時には、この入浴着を着用すること! その……事故がないように!」


 これもまた草の民の知恵。

 男も女も一緒に入る温泉。

 当然、そういうことにもなったりする。


 それを防ぐために、入浴着を必ず着用する掟があるのだ。

 おそるべし! 草の民! その叡智!


 おかげで裸の妻たちに迫られて目のやり場に困るという、嬉しいやら恥ずかしいやらの事態は回避できた。ほんのちょっぴり、残念だったけど……。


 そう、ここにいるのは全員俺の妻!

 だから裸を見たって問題ない!

 いったい何がいけないんだ!


 けど、そんなのどうでもいいくらい、気持ちいいわ――温泉!


 ずぶずぶと腰の位置が下がっていく。

 肩まで湯船に浸かり、俺は開けた空を見上げ、また声を上げるのだった。


「これ、なんとか都にも作れませんかね?」


「人力でお湯を温めてもいいが……金がかかりそうだなぁ」


「おに~ちゃ~ん! おね~ちゃ~ん! ステラもおんせんはいるぅ~!」


 まったりしていたところに、騒がし娘がやってきた。


 寝間着とそう変わらない格好。

 丈の短い入浴着をまとったステラだ。


 彼女はパタパタと翼をはためかせ、俺たちの方に飛んでくると――急に翼を畳み、湯船の中にダイブしようとした。

 あわてて俺は立ち上がると彼女を抱き留める。


「ダメだろステラ? 温泉に飛び込んだりしたら? ララが言ってただろ?」


「ぴぃ。わすれてたぁ……ごめんなさい」


「あと、湯船に入る前には、身体を洗わなくちゃいけませんよ?」


「ぴぇっ……! それも、わすれてたのぉ……!」


 まったく、世話の焼けるセイレーンの末姫さまだ。

 きっと着替えるや、いてもたってもいられずやって来たのだろう。

 そういうところが愛らしくもあり危なっかしくもある。


 まぁ、まだ子供だ。

 口うるさく言っても仕方ない。


 そんなことを思う俺の服を、ステラがぎゅっと握った。


「おに~ちゃん、あのね? おねがいがあるんだけど……いい?」


「なんだい?」


 金色の髪をふるふると揺らすと、少女は――。


「ステラね……かみのけ、ひとりじゃあらえないのぉ! めにはいるから!」


「ふむ」


「ステラのかみ、きれいきれいしてくれる?」


 と、父親にでも甘えるように言うのだった。

 もちろん断る理由なんてない。


「いいよステラ。それじゃ、向こうで洗おうか?」


「うん! おに~ちゃん、やさしいから、すきぃ~!」


 というわけで、俺はステラを連れ、少し離れた洗い場に移動した。

 桶で湯船からお湯を掬い。セリンが用意した香草を練り込んだ石けんを手で擦る。手の内で十分に泡立ったそれを、まずはステラのつむじにたらす――。


「ひゃうっ! おに~ちゃん、もう洗ってるの!」


 すると、ステラがびくりと翼と肩を震わせた。


 これは、難儀しそうだな。

 そんな覚悟をしながら俺は指を動かしはじめた。


 最初は怖がっていたステラだが――。


「あぁ~きも~ち~いぃ~のぉ~」


「それはよかった」


 次第にその声は、とろんとしたものに変わっていった。


「おに~ちゃんは、たたかいいがいはなんでもできて、すごいの。すてら、そんなおに~ちゃんの、およめさんになれて、とってもはながたかいよ」


「ははは、それもよかった」


「それにね? それにね? おね~ちゃんたちを、めってしてくれたのも! あと、めってしたのにゆるしてくれたのも! すてら、とってもうれしかったんだよ!」


 燕鴎四姉妹のことだろう。

 まぁ、アレについてはこちらにも非があった。

 むしろこっちが許してくれてありがとうと言いたいくらいだ。


 けれども幼い彼女には、そんなこと分からないのだろうな。


「ステラは、本当に家族想いなんだな?」


「うんっ! おね~ちゃんたちも! あとおなじふじんの、セリンおね~ちゃんや、ルーシーおね~さん! ヴィクトリアやララおね~ちゃんも、だいすきだよ!」


「そうか。これからもずっと好きでいてくれよ」


 力強く「うん!」と頷く金髪のセイレーン。

 そんな彼女の綴じられた瞼に、石けんの泡が垂れて来る前に、俺は桶のお湯で彼女の髪を清めるのだった。


「ぴぃっ! きれいきれいになったの! おに~ちゃん! ありがとう!」


「どういたしまして!」


「あ……あのね! あのね! おに~ちゃんのことも、だいすきだよ!」


「あぁ、分かってるよ」

コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?