龍鳴海峡とは、モロルド領本島北西にある海峡だ。
モロルド領と大陸の間に広がる長大な内海の西端であり、当初この地に入植した家祖たちは、ここに都市と港を設けようとした。
しかし、そこには海竜たちが多く棲息していた。
彼らは自分たちの棲処を人々が無断で通ることをけして許さなかった。
西から来る船舶は海峡にさしかかるたび、悉く嵐と激流に飲まれ沈没する。
人も交易品も海の藻屑と消える魔の海。
かくして、龍鳴海峡の悪名は遠く本国まで轟いた。
家祖は本島北西への建都を諦め、外海に最もせり出た本島南端に今の都を築いたのだ。
故にモロルドは、これまで灯台・寄港地としてしか機能していなかった。
しかし、もしも龍鳴海峡を船が通れるようになれば……。
「東側航路に内海という新たな航路が誕生する」
「龍鳴海峡以外は、比較的穏やかな海として知られているものな。たしかに、ここを航路として使えるなら、モロルドは港湾都市としての価値を取り戻せるかもしれない」
とはえい、家祖から誰も解決することができなかった問題だ。
龍鳴海峡の主にして、海竜たちの王――精海竜王は千年を生きる竜と聞く。モロルド領はおろか、内海を挟んだ大陸にまだ文明もなかった頃から海を支配する覇王だ。
その気位は恐ろしく高い。
到底、こちらの要望に応えるとは思えない。
歴代の領主たちは端からあきらめ、精海竜王との対話を避けてきた。
しかし、それはモロルドがレンスター王国の飛び領地だったからだ。
本国の意向に逆らえないのもあるが、まず前提として――。
王と地方領主という、絶対的な身分差がそこにはあった。
「つまり、王と王なら対等な立場で同盟を結べる」
「王と領主では主従関係が関の山だからな。なるほど、考えたなケビン」
「まぁもっとも、こちらは国の体もなにもまだできていない、新興国家だ。それといきなり対等な同盟を結べと言われても、難しいとは思うがな……」
そう言いながらも、俺は馬車に揺られ本島の龍鳴海峡へとすぐに向かった。
善は急げである。
都市機能の麻痺したモロルドは、何もしなければ赤字を垂れ流すばかり。
速やかな財源の確保――国の建て直しが必要なのだ。
迷っている暇さえなかった。
龍鳴海峡はモロルドの首都とはまた違う、異国情緒の溢れる場所だ。
切り立った崖に押し寄せ飛沫を上げる荒波。
辺りに砂浜はなく喫水も深い。海面に降りるのも一苦労だ。
まさに海竜の棲処と言うのにふさわしい場所。
とはいえ、今日の海は穏やか。風雨もなければ蜃気楼もない。
海の向こうには、大陸の姿がはっきりと見えた。
「今日の精海竜王はご機嫌のようだな。よかったなケビン」
「さてねぇ。嵐の前の静けさとも言うからな」
モロルド家に残る資料によれば、龍鳴海峡を船舶がさしかかった瞬間、その日がどんなに快晴だったとしてもすぐさま空は曇天に変わり、たちまち海は荒れ狂ったという。
この今は穏やかな海も、俺たちが船を出せばたちまちに、人をのみ込む魔性の海に姿を変えるのだろう。
というか――。
「来たはいいが、いったいどうやって精海竜王に会えばいいんだ?」
「おいおい、一番重要な所だろう! なんで考えなしなんだ!」
いやだって、なんか勢いで、行かなくちゃいけない空気だったじゃん。
建国するぞウォーってなってて、座ってるだけでじゃばじゃば赤字が発生する状況で、なにもしなかったらお前らだって怒るだろう。
そりゃ俺だって、もうちょっと勝算を持ってから来たかったさ……。
と、そんなことを思って嘆く俺の目の端に、ゆらりゆらりと龍鳴海峡を往く、一艘の手漕ぎ船の姿が目に入った。
危ない、すぐに離れるんだ。
そう俺が叫ぼうとした矢先――船に乗っていた釣り人は、おもむろに腰に結わえた水筒を持ち上げると、その栓を抜いて海に向かってまき散らした。
かと思えば手を叩いて、なにやら抑揚の効いた声でこの土地の言葉を叫ぶ。
嵐の気配は微塵もない。
悠々と手漕ぎ船は龍鳴海峡をたゆたい、釣り人は籠に溢れるほどの魚を釣った。
後に知ったが、これこそこの地に住まう人間たちが門外不出で行ってきた「精海竜王への儀式」であり、海竜の王への畏敬とその加護を受ける秘法だった。
そして、釣り人から俺は、さらなる情報を手に入れることになる――。
「精海竜王は、自らをあがめ奉る者に危害は加えません。領主さまには悪いですが、この地に古くから住む者たちは、精海竜王に命を救われる者も多くいます」
海竜の王はけっして、話が分からぬ相手ではなかった。
交渉の余地はある。