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糟糠之妻(そうこうのつま)3話

「いや、母上!仮病とは、いったい!」


「し、しかも、曹操様へのお仕えを、お断りしていたのですよね」


「仮病を使ってまでって、そんなに、父上は、曹操様の事がお嫌いだったのか……」


榦!!!と、長兄の叱りを受けて、榦は、小さくなった。


「そう!榦の言う通りだったのよ。正しくは、おきらい、ではなく、おいやだったようだけど。それで、謀っていたみたい……」


いやはや、覇者、曹操を相手に、仮病を使ってまで謀るとは、父も、なかなかの猛者だと、兄弟は開いた口がふさがらなかった。


呆れるを通り越し、どうして、屋敷の者まで、騙すような事をしていたのかと、不思議に思う。


母は、息子達の気分を見越したようで、実はね、と、話を続けた。


──もう、漢王朝は終わりだろう。


仲達の部屋で、書物を紐解いている春華は、幾度となく、その呟きを耳にした。


特に、意見を求められる訳でもない。


それは、春華が、妻として幼すぎるという点が邪魔をしたのだろが、仲達は、嫌だ、と、言う訳でもなく、ただ、今は、もう、だめだ、と、そんな、ぼやきに近い呟きを吐き、脇に座る春華へ書物を薦めたのだった。


そんな、仲達に、春華は、何かを感じ取っていた。


だめだ。という響きには、絶望が含まれていなかったからだ。


何か、遠くのものを、待つような、そう、じっと機会を狙っている、例えるならば、餌を狩ろうと、茂みに隠れる獣のような、虎視眈々とした、企みの匂いが漂っている気がした。


思い違いかもしれない。


──もう、だめだ。


と、仲達が言う時は、続いて、あいたたーと、痛みを訴える叫びを上げる。


だめだ。というのは、言葉の通り、自身の体の事かも知れないと、春華も、正直迷った。


今なら、いや、もう少し大人であったなら、上手く言葉のあやを掴んで真意を探れるのだが、いかんせん、その時は、子供。


しかし、仲達と、ほぼ同等に書物が読める利発さが、これは、何か裏があると、感じさせていた。


おそらく、仲達の言葉通り、朝廷は崩れてしまうのだろう。その、消えてしまう場所に、仕えるつもりはないということではなかろうかと、半信半疑ではありながらも、事は、仮にも、帝のまつりごと。消えてしまう、失くなってしまうなど、春華のみならず、仲達すら、口にする事など、できる話ではない。


きっと、思い違いだろう。


旦那様は、お体の調子がすぐれず、自暴自棄になっている。


春華は、そう、思うことにした。


そう、思わなければ、何かしら、辻つまが合わないような、モヤモヤとした感じに襲われ、落ち着かないからだ。


そんな、毎日が続いていたある日の事、春華は、手に取った書物に、カビの跡を見つけた。


黙って、仲達に指し示すと、


また、あいたたー、と、叫び、侍女を呼んでくれと、仲達は、言った。


春華は、慌てて、部屋を出る。


そして──、暫く後。


洗い物を干す裏庭に、むしろが、敷かれ、風通しの為か、開いた書物が並べられていたのだ。


退屈になり、何とわなし、使用人達が働いている姿でも眺めようかと、春華が、出向いた時のこと……。


カビが気になった仲達が、命じたのだろう。


ならば、あの時自分に、言えば良かったのに。


やはり、子供と相手にされていないのかと、なんとなく、寂しい思いをしながら、春華は、自分の部屋へ戻ったのだった。


そして、春華は、空が雲って来たことに気がついた。


まるで、自分の胸の内の様だと思いつつ、ふと、裏庭で、虫干しされている書物の事が気にかかった。


取り入れた方が良いのだろう。


風はいくらかあったが、どうも、雲行きは、怪しく思え、なにより、天日干という意味がなくなっている。片付けた方が良いのだろうが……。


言いつけられた訳でもなく、それなのに、書物を勝手に扱っては、仲達の怒りを買うことにならまいか。


床に臥せるだけしか出来ないから、と、言う訳ではなく、揃う書物を見る限り、仲達という人物は、相当な読書家で、所蔵する物もそれなり貴重なものが多かった。


あの書物は、おそらく、お気に入りの物、そして、手に入り難い物に違いない。


書物好きの春華だったから、手入れをするということが、何を意味するのか、すぐにわかった。


やはり、空が気になる。


雨が降ってしまえば、書物は台無し。何か、仲達に言われれば、その時は、その時のことだと、思い、春華は、腰を上げた。


ところが、屋敷が騒がしい。表側へ、向かおうと、皆、気もそぞろだった。


部屋から出て、回廊伝いに歩んでいる春華を見ても、ご機嫌伺いをするわけでもなく、足早に、表側へ向かっていた。


おそらく、来客、それも、上客が訪ねて来たのだろう。


春華は、慌ただしく動く屋敷の様子にそう思った。それならば、本当は、自分が筆頭になり、動かなければならないのに、と、お飾りの妻以下の立場に苛立ちを覚えた。


自分が、まだ、成人していないからなのか、主人である、仲達の命であるのか、表も、裏にも、関われないのは、なぜなのか。


空は、ますます、どんよりとして、鈍色の雲が広がって行く。


まるで、春華の気持ちを代弁するかのように。


頬に、冷たいものが当たっ気がした。


身を乗り出して、空の具合を確めてみる。


案の定、雨が降り始めたようで、ぽつりぽつりと、雨が落ちてくる。


春華は、あの裏庭へ向け走った。はしたないことをしているのは、分かっていたが、今は、皆、表側へ気が向いている。


もし、春華へ注意する者が現れたなら、だって、と、子供ぶれば良いだけだ。


そして、春華は、息を飲む。


仲達がいる。


慌てふためき、むしろの上から、書物を軒下へ、移している。


あいたたー、と、痛がる事もなく、機敏に、雨から蔵書を守ろうと動いている。


「……だ、旦那様」


か細い声がする。


春華は、はっとした。下女に見られた。この、光景を。


雨の気配に、下働きの下女が洗い物を、取り込みに来た。


裏方の下っぱ、春華とそう変わらない年頃の娘が、命じられたまま、裏庭へやって来たのだ。


あっ、と、仲達が、声を発した。


「旦那様!」


春華は、思わず、仲達の背後へ飛び付き、その体を思い切り押した。


わあっ、と、互いに声を立てながら、仲達は、何か察したのか、足がもつれたふりをして、そのまま、書物を庇うかのように、崩れこんだ。


「あー、もう、無理だ。やはり、無理だ」


「え、ええ、旦那様、ご自分で、お動きになられるなんて、無茶です」


「ああ、そうだ、そうだな。できると思ったが、無理だ。無理だ」


「さあ、書物は、私が取り入れます」


ああ、そうしてくれ。と、言いながらも、仲達は、倒れたまま、ピクリとも動かない。


「あー、困ったわ、そこのあなた、一緒に旦那様を、お起こしするのを、手伝ってちょうだい」


春華は、立ちすくむ下女に向かって命じた。


下女は、何事か、まだ、理解出来ないといった顔で、立ち尽くしたままだった。


「おーや、これは、お困りのようですなぁ。起き上がれないとは、また、なんたる、無様な格好で……」


見慣れない男が、雨に濡れないように、用心深く軒下に立っている。


「──雨あしは強くなり始めるし、下女には、見られてしまうし、そして、招かねざる客人は、立っているし……」


「なんと!母上、それは!」


「父上は、やはり、仮病だったと!」


「でも、なんで、雨に濡れるようなことをするかなぁ」


ふふふ、と、春華は、息子達へ向けて笑った。


「書物が、気になったみたいね。人を呼んでも、皆、表側へ回ってたのでしょう。だから、ご自分で、裏庭へ行かれたみたい」


「えー、なんだか、ツメが甘いよなあ、結局、バレちゃったじゃないですか?」


「うん、榦の言う通りだ」


「母上、下女は……それに、そうだ!見慣れない男!」


話の続きを、息子達に急かされて、春華は、ハイハイと、朗らかに返事をした。

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