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名無き妻4話

私は、趙雲様の部屋に招き入れられている。


「何もない、殺風景な部屋だろう?だが、お前の部屋になるのだから、好きにすればよい」


「私の部屋……ですか?」


登城しても、視察に出ても、そして、戦に出ても、戻りは、いつになるかわからない。私の部屋も同然だと、言って、好きにするよう、言われた。


「ならば、小さな部屋でかまいません、私の部屋をくださいませ」


ここは、趙雲様の部屋。もし、私が、好きにしてしまったら……帰るところが、失くなってしまう。


そう言った私に、


「ああ、そうだな、しかし……ここは……」


と、歯切れの悪い言葉が返ってきた。


「二人の寝室でもあるのだ。お前の好きにしてよいのだよ」


ああ!と、私は小さく叫び、趙雲様と、腰を下ろしているのは寝台であったと思い出した。


一気に私の顔は火照った。これから、起こることに、私の胸は高鳴った。つい、うっかりしていたなどと、言えるわけもなく、ましてや、それではとも、言えるわけもない。


そんな、落ち着かない私へ、趙雲様は、すまない、と、言ったのだった。


「名を棄てろなどと、言って。しかし、訳があるのだよ。聞いてくれるか?」


そう、前置きをして、少しばかり、昔の話しを趙雲様は語り始めたのだった。


──お仕えする、劉備様が、北の曹操軍に、五千の兵で攻められた時の事、こちらには、勝ち目かなく、南方へ逃げることになった。


国の主である、劉備様には、生きていただかねばならない。その死は、即ち、国の滅亡となる。


となれば、民はどうなる?流浪のみんとなるか、勝者、曹操の奴婢どれいとなるか。


「劉備様は、ここから逃げれば、民を見捨てることになると、おっしゃられた。実に、あの方らしい、お言葉だったと思う。しかし、生き抜いて、国土の安寧を計って頂かねばならなかった」


そこまで言うと、趙雲様は、なぜか眉をひそめた。


「ところが、どうだ」


膝の上で拳をつくり、趙雲様は、何かを堪えているように見える。


混乱の中をわずか、数十騎の供をしたがえ、逃げ惑うことになった。それも、生き抜く為には、致し方なし。いや、それこそが、乱戦なのだから。


だが、その時、共に支えあってきたはずの、奥方と、跡継ぎである若君を置き去りにしたのだ。


「理由は、わからん」


趙雲様は、強い口調でおっしゃられた。


「女子供は、足手まといになります」


きっと、そうゆうことでしょうと、私が言う。


「たった、それだけのことでか?そもそも、足手まといになるとは、誰が決めた?しかも、見捨てたのは、正当なる、漢王朝の血を引く、劉備様のご嫡男。次世代の皇帝となるお方ぞ?」


趙雲様は、何かに逆らうよう答えられた。


──そうして。


たまらず、趙雲は救出に出たという。無事に、二人と遭遇できた趙雲は、そのまま保護して、皆と合流したのであるが、逃げる策を講じる事に集中している劉備達には、妻子の無事など目に入っていなかった。


何よりも、まだ、追っ手が来ると、自分達だけで、逃げようとしている有り様を見て、趙雲は怒りを覚えた。


「逃げて、命を守る事も、分かるが、この先の代を継ぐであろうお子を、そして、育て上げる役目をおう母君を、ぞんざいどころか、再び、見捨てようとした。私は、我慢ならず、民を見捨てるのは、忍びないと言われておきながら、自からの家族は、あっさりと見捨てられる。しかも、嫡男。この、お子が将来、あなた様が忍びないと感じた、民を守ることになるのではないのですか。それを、国のためと称して!」


そう、言って、逆らってしまったのだよ。仮にも、支える、いや、命をかけてお守りしなければならないお方に向けて。


と、趙雲様は、恥ずかしそうに言った。


「確かに、昔から、妻子は衣服のごとし、と言いますもの。殿方にとっては、新しい衣服に着替えれば良いだけの話、だったのでしょう」


「それで、お前は、よいのか?」


「……私も、足手まといには、なりたくありませんから……」


「同じく、見捨てられても、文句はないと?」


「……それは……」


私の頬を、つと、涙が流れた。


見捨てられたくはない。けれど、それで、もし、趙雲様のお命に危険が及ぶのならば……。私は、進んで……。


ゴツゴツとした、節太い指が私の頬を沿う。


「私は、嫌だ」


立派になって、お前を迎えに行こうと決めていた。そして、その時が来たと思えば、趙雲の妻であり、家族であるがゆえに、危険が及ぶかもしれぬ事を、知らしめられた。


「だから、共に生き延びる為にも、お前は、誰のものでもない、名も無きただの民であって欲しいのだ。されど、どうか、私の物だけでいて欲しい……。嘘偽りなく、そう想っている」


あっと、思った瞬間、私は、趙雲様の腕の中にいて、寝台に押し倒されていた。


そして、まるで、この方の志のように熱く燃えたぎる口づけを、受けたのだった。



こうして、私は、名も無きただの、使用人として、趙雲様の御屋敷を守ることになる。


そして、子供にも恵まれ、今は、三人目を身籠っていた。


折しも、南方征伐とやらで、趙雲様はご出陣されている。


何処で、どのような争いに参加しているかは、私には、詳しくは知らされず、私は、無事にお戻りなさるのを待つしかなかった。


なぜなら、あくまで、私は、ただの、使用人。そして、あの方の、名も無き妻であるのだから。


名も無き妻(了)

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