そして、拐われるように、私は夫と呼ぶべき男の屋敷へ向かった。
どうも話は通っているようで、私が勤めていた御屋敷は、私がいなくなろうと騒ぐことはなかった。いや、下働きの女一人居なくなっても、誰も気に止めることなどないのかもしれない。
「来てくれと、言ったは良いが、さほどの屋敷でもなく……」
と、道々、一緒に馬に乗る男は、しおらしく言った。一瞬にして、武将の厳しい顔つきから、子供のころと変わらない、少し、眉尻を下げる困り顔になった。
確か、私より、5、6歳上だったはず。ああ、体も他の子供より大きかった。年長だからか、本当に面倒みがよくて──。
くすり、と、笑った私に、男は、更に困った顔をした。
「何か、しでかしたか?」
「いいえ」
「そうか、それなら、よかった」
にこりと笑った男の顔は、昔、村で一緒だった、あの男の子と同じものだった。
「……あの、どうして、私を?」
「……迷惑だったか……」
「いえ」
「なら……よかった」
答えともいえない言葉しか互いに発する事ができず、そんな、私達を見越したように、乗る白馬が嘶く。
「ああ、これは、白龍。私の大切な相棒だ」
言って、男は白馬──、白龍に、話しかける。
「どうした?駆けたいのか?」
応じるように、ブルブルと、馬は鼻息を荒くした。
「だがな、ここは、
「私の事ならば、気にならさないでください。日が暮れてしまいます。駆けましょう。旦那様」
一瞬、間ができた。
「……旦那様とは……」
「いけませんでしたか?では、何とお呼びすれば?」
妻が夫を、旦那様と、呼ぶのは、当たり前と、私はつい声をかけてしまったが、思えば、おかしな始まりだった。名前を捨てろと、言われていたではないか。
それは──、奥方がおられ、私は、ただの、戯れの相手ということで……。
白馬に乗った貴公子が、私の前に現れるはずがない。何を、都合よく受け止めていたのだろう。
どうあれ、旦那様には違いはない。と、私が、覚悟を決めた時、頭上から、「そうか、そう呼ぶものか」と、感慨にふける声がした。
「なるほど……旦那様か。妻、いや、側にいる間柄でも、やはり、旦那様なのか」
「はい、旦那様ですから。どのようなかたちであれ、お受けした以上、旦那様です」
「……どのようなかたち?」
「私のような者が、世に名の通ったあなた様と、釣り合いがとれるはずもなく、ましてや、ご立派な武将ならば、奥方様、そして、側室様も……いらっしゃるものでしょう」
何故か、私は、臆することなく、胸のうちをさらけ出していた。それが、事実、そうゆうものだと、御屋敷勤めで、身に染みていたからかもしれない。
何しろ、御屋敷の旦那様は、金の力に任せ、やりたい放題。勤める女達は、泣き寝入りしてばかりだった。
私は、病気持ちだと、嘘をつき、かろうじて、旦那様から逃げ切っていた。ただ、尾ひれがついて、人に移る病だとか、話が独り歩きして、私は、厠の掃除など、人の嫌がる仕事を押し付けられていた。
「……一人前になって、それからだ、と、思い、がむしゃらに、私は勤めた。手柄を立てようと人一倍努力した。しかし、それが、あだになったかもしれない。家族を持てるようになったら……」
なにやら、言い含む男の気をまぎらわせようとしてか、白馬が、急に駆け出した。
「こ、こら、白龍!!」
男は、手綱をさばくが、馬は言うことを利かず、自由に駆けて行く。
「仕方ない。私につかまりなさい。屋敷に帰ってから、話をしよう」
言うが早いか、男は、自分の前に乗せている私に、抱き寄せるかのようしっかり腕を回してきた。
「しばらく、辛抱してくれ、じき、屋敷に着く」
私は、男の胸の中で頷いていた。
そして、同時に、男の鼓動も捕らえていた。高鳴っているものは、異常に早かった。
それは、私も同じで、まるで男のものが移ったかのようだった。
ふと、見上げた先には、愛馬に振り落とされまいと、手綱を握るひきしまった顔があった。
武将のものでもなく、幼馴染みのものでもなく、それは、紛れもなく家族を守る夫の顔──。
「趙雲様……」
私は、その名をつぶやいていた。