──今より名を棄ててくれ。お前は、私とは、一切関係のない女だ。たまたま、共にいるだけなのだ。
そう言って、男は、熱を帯びた瞳を私に向けてきた。
なんと、奇妙な告白だろうと私は思った。いや、告白、とも、その時は、あまりの事で、気がついていなかったかもしれない。
男は、自分を覚えているか、今は趙雲と名乗っているのだと言った。
趙雲と言えば、学の無い私でも知っている。幾ばくか、名の通った武人では……。あの、趙雲様が……。
確かに、今の世を見れば、名を棄てろというこの男の言い分も分かる気がする。
これは、敵に私が人質として取られない様、自分の妻であると知られない為の配慮なのた。
私を、心から守ろうとしている証しをこの男なりに示してくれているのだろうか。
しかし、何故今頃、現れたのだろう。
「日が暮れてしまう……来てもらえまいか」
言う男──、趙雲の指先は、かすかに震えていた。
そうして、天に昇る日輪は、頭上で輝き、夕暮れの兆など伺えない。
ああ、この人は……。
人よりも、頭一つ抜きん出た上背に、幾度となく死線を掻い潜ってきたのだろうと思わせる、がっしりとした武人らしい体躯。恐れをなすだろう見掛けとは裏腹に、精一杯人を気にかける心配りは、昔と、変わらない。
子供の頃、共に遊んだあの男の子。私が、転ぶと、大丈夫だ、大丈夫だと、頭を撫でてくれたあの男の子は、今、震えるほど、私のことを……。自惚れかもしれないけれど、この人は、本当に私のことを……。
照れ隠しなのか、男は連れている馬を見た。素人の私でも分かる程、手入れのゆきとどいた立派な白馬だった。