孔明の命に、戸惑う趙雲へ、黄夫人が、口添えした。
「少し、言葉足らずのようですね、趙雲様、
「黄夫人、これは、戦の話です。口を挟むのは、控えて頂けますか」
珍しく、孔明が妻を叱咤する。
「申し訳ございません、前庭でしたので、私も、うっかりしておりました」
言って、頭を下げると、黄夫人は屋敷の中へと姿を消した。
「あ、あの、失礼ながら……」
恐る恐る言葉を発する趙雲に、
「ああ、夫婦の決め事ですから」
と、孔明はいい放ち、後で機嫌を取っておきますと、なぜか、付け加えた。
結局、そうなるのかと、ふっと、笑みを浮かべる趙雲に、孔明は、緊迫しているのではないのですか?と、不機嫌に言った。
「とにかく、趙雲、あなたは、国境を守ることを、考えなさい。……確か……長江辺りの国境に、張飛殿が、駐屯されていたはずです。まず、張飛殿の所へ、お行きなさい。猛者が二人いれば、大丈夫でしょう」
つまり、残りの兵は、ここを守る事に専念させ、もしんばの劉備からの援軍要請に控えさせる。
国境は、張飛が伴っている兵で、守りきれ、と、いうことかと、趙雲は理解した。
先に長江を封鎖しておけば、呉も、おいそれと手はだせないはず。孫夫人を迎えに来たと、そのまま、進軍してくる予定なのだろうから──。
「孫夫人が、こちらの封鎖より、先に、呉の船に乗ってしまえば、どうにもなりません。お帰り頂くのは、結構。ですが、それは、お一人で。決して、阿斗様まで、連れ去られないように」
阿斗の姿が見えないと、侍女に告げられ、嫌な予感がした趙雲は
、もしやと、孫夫人の部屋へ向かった。
部屋は、もぬけの殻だった。
勝手に出立した事、阿斗の事と、重なっていることに、孫夫人が、阿斗を連れ去ったのではないかと思った趙雲は、孔明の指示を受けに来たのだった。
が、落ち着いた今、状況を見てみると、劉備といい、孔明といい、薄々、こうなることに勘づいていたのではなかろうかと、趙雲は思う。いつもの事とはいえ、余りにも、手際が良すぎた。
「さあ、何をしておるのです。白龍の、昼は千里を駆ける力をお借りなさい!朗報を待っておりますよ」
趙雲へ発破をかけた孔明は、さてと、私には、これから、厄介な仕事が。黄夫人は、ご機嫌を直してくださいますかねぇ。と、肩を落として、屋敷の中へ向かった。
こうして、皆が、策を動かしている頃、平原を、国境へむけて進む列があった。
武装した女達が操る騎馬に守られる、一台の馬車の中には、孫夫人と、古参の侍女、そして、阿斗が乗っていた。
「阿斗よ、休みなく進んでいるが、疲れてはないか?」
「尚香様、阿斗は、大丈夫です。それより、あと、どのくらいで、船に、乗れるのでしょう?」
向かい合って座る幼子は、尚香達の事を疑う訳でもなく、嬉しげに答えている。
──宿下がりをするのじゃが、船の迎えが来る。阿斗や、お前も、船を見とうないか?多少ならば、乗ってもよいぞ。
などと、本当に、子供だましの様な事を言い、尚香は、阿斗を連れ出したのだった。
しかし……なんとも言えない、胸の苦しさが、尚香を襲っている。
この様なことを、自分は、行ってよいのだろうか……と。
「あと、少しですよ。もう少し、辛抱なされたら、それは、それは、大きく立派な船をご覧になれますよ」
古参の侍女は、阿斗の機嫌を取り続けている。
その姿も、尚香の気分を苛立たせた。
始めから、こうすると、確かに取り決めていた。
今の世が、どのような状態なのか、尚香にも分かっている。
しかし──。
この様な策を使ってまで……。
「おや、尚香様?いかがなされました?」
侍女が、物言いたげに、射るような視線を送って来た。