「あらまあ!なんて、凛々しいお姿なんでしょう!女の私でも惚れ惚れしてしまいますわねぇ!」
黄夫人は、孫夫人の姿にはしゃいだ。
「あ、尚香殿。今日の鍛練は、いかがでしたか?あー、その、黄夫人からの差し入れを。珍しい菓子だそうですよ」
平伏する侍女、何事かと不機嫌な孫夫人、被害にあった黄夫人、この、三つ巴をどうまとめるべきかと、劉備は顔をひきつらせながら言った。
「そうそう、実家から送られて来ましてね、なんでも、北方の国経由で取り寄せたものだとか。中に入っている、蜜が特別だと、なんだか、色々添え書きがありましたけど、良くわからない事ばかり書いていて。とにかく、美容によろしいらしく、ぜひ、孫夫人に。劉備様も惚れ直しますわよ」
「……北方……の?」
孫夫人は、つっと、眉をしかめた。
それは、つまり、敵国ではないか。
──そういえば、黄家を侮るなと兄王より、聞かされていたことを思い出す。そして、その昔、北、曹操の軍を、蜀と呉の連合軍で破った時に、裏では、黄家から多大な支援を受けていたのだと知らされていたことをも思い出していた。
地元の名士とは、様々な商いに出資して、財を増やして行く。相手は、商人であり、才能ある文士であり、自分の利になりえる者ならば、国、など関係ない。
武人ではないだけに、何処の国の誰とつき会おうが、反乱のおそれありと、目をつけられない範囲で、上手く繋がっていけるものなのだ。
やはり、最後は金の力。軍資金というものは、そうそう、簡単に手に入るものではない。そして、孫夫人の母国、呉が、黄家へ、たよる事も十分ありえる。
その、黄家の者が、前にいる。
この蜀の敵国ともいえる、国経由で、取り寄せた菓子とやらを持って──。
初めは、妙な女だと思っていたが、かの黄家の出であり、背後に孔明までいては、実に、分が悪い。
「あらまっ、お邪魔でしたわね。あとは、ご夫婦で召し上がれ。そうそう、決して、不埒な真似をした平伏している者たちには、与えてはなりませんよ」
まったく、ここをどこだと思っているのかしら、などと、ぐずぐずと、独り言を言いつつ、黄夫人は、劉備へ菓子を手渡すと、さっと立ち去ったのだった。
「尚香殿。あの方は、あーゆー方なので、あまり、お気にせずに、あー、それから、お前達も、そう、いつまでもかしこまらず」
と、平伏する侍女達へ、劉備は労ってやる。
「あっ、しかし……」
「ははは、大丈夫ですよ。本当に、怒り心頭なら、菓子ごとお帰りになりますからね。せっかくです。後で、皆で召し上がってください」
何事もなかったように笑う劉備は、孫夫人へ菓子を差し出した。
「い、いえ、あの、茶だ!お前達、何をしておる!茶の用意だろうっ!」
訪ねて来た劉備をもてなさぬかと、孫夫人は、激を飛ばした。
「どうぞ、部屋の中でおくつろぎください。私は、すぐに着替えてまいります」
断る訳にもいかず、劉備は、誘われるままにしたがっている。
どこか、ぎこちなさは見られたが、なんとか、夫婦として、やっているようだと、回廊の曲がり角から覗き見する、黄夫人の背後から、「今度は、なんですか?」と、声がかかった。
驚く黄夫人は、さらに、目を丸くした。
孔明だった。
それも、いかにも、という具合の妙なつけ髭をつけ……。
袖で、口元を隠しながら、ぶっと黄夫人は、夫の姿を笑った。
「袖で、隠さなくても。どうせ、可笑しいのでしょ!」
「だって、旦那様も、お分かりのはずでしょ?」
「まあ、ほどほど……なんとなく……少しだけ……は」
妻の指摘に、孔明は、渋々返事をした。
「では、屋敷へ戻りましょう」
「え?黄夫人?!」
「劉備様には、旦那様を休ませてくれと、断りを入れておりますから」
「や、休み!」
孔明が驚きの声を挙げたとたん、つけ髭が、ポトリと落ちた。
「はあー、旦那様。糊が甘かったのですわねぇー、やはり、屋敷へ戻れと言う暗示」
はあ、と、息をつき、孔明は妻に従った。
「ところで、黄夫人?耳飾りは、如何いたしました?何故、片方だけなのですか?」
「あー、どうやら、落としたようで。どこへ行ってしまったのでしょうねぇ」
うーん、これは、散々と、孔明は唸り、夫婦して、屋敷へ戻ったのだった。
そして、その道のりにて、二人は次の策を練った。
「見たところ、劉備様は、年の功を活かして、なんとか、孫夫人の手綱を取りつつありますね」
「ええ、旦那様、私もそう思いましたわ。そして、面白いことに、孫夫人ったら、体が鈍ると、こちらの兵に、鍛練だ、なんだと、ちょっかいをだして……」
妻の言葉に、孔明は、乗る馬車の中で身を乗り出した。
「ああ、狭いですって、旦那様」
「す、すみません、黄夫人。ですがね、今、なんと!」
「ご心配なく、趙雲様が、しっかりと、流れを見ておりますよ。呉のね」
孫夫人の自由気ままさが、いつか、敵となるであろう国の兵の動かし方、つまり、戦法を披露している。
そして、先陣を切るだろう、趙雲が、しっかりと、確認している。
向かい合って座る妻は、そう、言っている。
「いや、黄夫人、貴女って人は!お手柄ですよ」
「まあ!そうですか!ならば、新しい衣を仕立てて良いかしら?このところ、外に出かける事が多くて……」
「まあ、いいでしょう。でも、ほどほどに、ですよ?」
あー、では、耳飾りも良いかしら?片方だけになってしまって、使いものにならないですものーと、弾けている妻に、適当な相づちをうちつつ、孔明は思う。
孫夫人は、自分の行っている意味に、まだ、気がついていない。しかし、いずれ、お付きの侍女が止めにはいるだろう。それまでに、相手の戦法を盗めるだけ盗まなくては。
……だから、劉備様は、泳がせているのだろうか?
……しかし、仮に、こちらの思惑が、ばれてしまえば、あちらも、だまってはいないだろう。
そこで……。
まさか。
いや、そんなことは。
「次は、やはり、阿斗様ですわね」
「!!」
「……なにやら、後ろめたさを、感じました」
黄夫人が、真顔で言った。
「仮に、劉備様を狙っているならば、あの、どこか、ソワソワした感じ、あの空気は、ありえません」
自ら、鎧姿で動く度胸があるのに……。と、黄夫人は言葉を濁す。
「そうですか。やはり、初めから、阿斗様を……」
確証はない。しかし、女の勘は侮れない。それも、黄夫人が言うのならば、なおのこと。
兵を従える気性の持ち主が、首を取る相手を前にして、どこか落ち着かぬ、など、あり得ない。
従うふりをして、あくまでも、堂々と振る舞うはずだ。
「ああ、やはり、やっかいな話になってきましたか」
「そして、阿斗様も、孫夫人に懐いておいでで」
「いやはや、これはまた」
「あー、でも、旦那様、あくまでも、予感、ですから」
「その、貴方の予感ってものが、素晴らしく、当たってしまうのですよ……」
胸騒ぎを覚えつつ、孔明は、どうしたものかと考えあぐねた。