回廊を歩む、劉備と趙雲からは、未だ緊張が抜けきっていない。
二人のぎこちない動きに耐えかねた黄夫人は、言い放つ。
「まったく、よっぽど若君の方が、腹が座ってますよ」
阿斗の手を引き、黄夫人は、男二人を残すかの勢いで歩んでいる。
「いや、黄夫人、あなたの方が、よっぽどです。あの物々しい中、しかも、初対面。それで、よくぞまあ、あのように」
劉備は、自分ではもて余すと言いたげに、はあ、と、ため息をついた。
「あら、その、物々しき中で、若君は母と呼ばねばならぬ、おなごと対面したのですよ」
そう言わなくともと、後ろからついて来ている趙雲は顔をしかめる。
と、その腕のなかで鳩が鳴いた。
「黄夫人、もう、逃がしてやりましょう」
阿斗が言う。
「若様?お飼いになるのでは?」
「あれは、黄夫人に言われて……」
阿斗は、訳がわからないと言った顔をしていた。
「さあさあ、鳩も窮屈そう。趙雲様、はよう!」
黄夫人が急かす。
若君まで使って、何を企んでいるのか──。そんな台詞が、喉まで出かかった趙雲だったが、言われた通り鳩を空へ放った。
自由になった嬉しさからか、鳩は、勢い良く羽ばたいて、高く高く、駆け上がるように飛んで行く。
「さあ、あの鳩は、どこまでいくのでしょうね。きっと、陸をあまねく進み、
黄夫人が、微笑んでいる。
劉備と趙雲は、慌てて、いまや黒点となっている鳩の姿を追った。
「……確かに、南へ」
「それは、つまり……」
劉備と、趙雲は、顔を見合わせるが、二人の面持ちは武将のそれになっていた。
「はい、こちらを」
「父上、阿斗が、見つけた時、鳩の足に付いていたのです。あれは、伝書鳩というものですね?ならば、住みかへ返してやらねばなりません」
阿斗の言葉と、黄夫人が差し出してきた革製の小さな筒に、劉備と趙雲は驚きを隠せなかった。
「若君?無事に南にある、呉の国の我が家へ、戻れるとよいですねぇ」
「そうですね。あのような、小さな体でそんなにも、遠くまで飛べるなんて!」
無邪気に語る、阿斗と黄夫人に、後押しされるかのよう、劉備は渡された筒を開け中身を確認した。
案の定、呉からの繋ぎだった。
ただ、劉備はどうだ。と、それだけが、書かれているのみで──。
「ふふふ、やはり、劉備様の寝首を取るつもりなのですね。あの武装侍女達は……」
「ああ、そうかもしれぬ。しかし、そうだろうか?」
「あら、劉備様、やっと、その気になられましたか。さっさと押し倒しておしまいなさい。さすれば、あのじゃじゃ馬も、おとなしくなることでしょう」
「な、何を!黄夫人!若君の前ですよ!」
あらまっと、趙雲に言われ、黄夫人は、袖で口元を押さえた。
「そ、そうだ、若君!馬、そう、私の白龍に、お乗せいたしましょう。黄夫人は、そ、そう、そう言いたかったのです」
しどろもどろになりながら、趙雲は、阿斗の手を取ると、その場を離れた。
「劉備様、荒馬ほど、手なずければ、情を見せるものです。どうか、お早く手をお打ちなされませ」
忠告のような、予言のような、黄夫人からの言葉を、劉備は黙って受け止めた。
その頃……。
劉備達が退出した孫朗の部屋では、皆、渋い顔をしている。
「恐らく、気づかれましたな」
「ああ」
「姫様、いかがなさいますか……」
さすがに、策は尽きたと、落胆を越えた恐怖にも近い面持ちを崩さない侍女達を見て、孫朗は、決意する。
「尚香に、なろう」
「姫様?」
「あの鳩が見つかってしまった以上、我らには、今以上、疑いの目がかかる、いや、命さえも危うい」
「……つまり」
「ああ、先手を打って、劉備を落とす。そもそも、兄上の勝手から決まった婚姻だが、こちらへ、入った以上、妻にならない訳にもいかまいて」
呉からの繋ぎ、伝書鳩が見つかった以上、孫朗は妻となり、劉備に取り入ると言い切った。
「諸葛亮もおる。さすがに、あやつも、主人、劉備には逆らえまい」
劉備さえ、手なずけてしまえば、こっちのものと、孫朗は、高らかに笑った。
「それにな、仮に、あの鳩を、嫡男が、手離さないなら……まさに、好都合ではないか?嫡男を可愛がれば、劉備も、こちらを信用するだろう」
そして……。そもそもの計画通りに運べる。
動揺しきる侍女達へ、孫朗は、きっと、顔を引き締め決意を見せた。
「そなたたちは、変わらず、着飾れ。そして、雑魚共を骨抜きにしろ。内側から、崩せ!」
女主が、勝負に出ると読み取った侍女達は大きく頷いた。
その頃、揺れる馬車の中で、黄夫人と趙雲が、顔を付き合わせていた。
「はあ、
「黄夫人、どうぞ、暫くのご辛抱を。御屋敷には、近づいておりますので」
ええ、と、言いながら、黄夫人は息を付く。
「さても、さても、あの、形相。趙雲様、ご覧になりまして?あなた様へ向けられた、まさに、針のむしろ状態のあれ」
「いやぁ、あの、チクチク感は、何故かと思いきや、例の鳩のせいでしたか」
「ええ、こちらに、バレたと、わかっていることでしょう。今頃、さらに、鬼のような形相になっておりますわよ」
「いやはや、なんとも、厄介な事に」
眉尻を下げて困りきる趙雲を見て、黄夫人は、くすくす笑った。
「今からそれでは、あの姫君とは、付き合えませんことよ」
「はい?」
「じゃじゃ馬ならしは、やはり、名馬、白龍を乗りこなす、あなた様しかおりません」
「はっ??」
「昼は、趙雲様、あなた様が。夜は、夫である劉備様が、乗りこなせば、問題ないのでは?」
黄夫人は、また、何か企んでいるのであろう。と、趙雲は察するが、少しばかり、明け透けで、立ち入った感のする言葉がひっかかった。
「……あの、昼は、私で、夜は……と、申しますと……」
「あら、何も、あなたに、あのじゃじゃ馬を抱け、なんて言ってませんよ。馬には、馬。乗馬のお相手でもして差し上げて、疲れさせなさい」
「あっ!つまり!」
「あら?睦言になると、察しがよろしいわね。やっぱり、あなた様も、男ってことね。劉備様も、これからは、お通いになるご様子。さすれば、少しでも、勢いを削いでおいた方がよろしいでしょう?」
趙雲は、孫朗と、武装侍女達の勢いを思い出す。
「はあ、まあ、あれでは、腰が引けてしまいます……ですが、そんなに、上手くいくものでしょうか?」
「向こうも、必死、きっと、折れてくるでしょう。色仕掛けという手を使って。あとは、軍師様が、なんとかしてくださるわよ」
見てごらんなさい。子犬が、うろうろしているわ。と言う黄夫人に、何事かと、趙雲が外を見てみると……。
孔明が、屋敷の門前で、出迎えているつもりなのか、落ちつきなく、うろうろしていた。
「あんなことしてる暇があるなら、出仕なさればよろしいのに。髭がなんだかんだと、すねちゃって、もう」
なんなんでしょうねぇー、と、黄夫人は、夫、孔明の姿に飽きれ果てた。