劉備は、正妻である孫夫人と、その部屋で向き合って座っていた。
「いや、部屋の設えは、こちらで選んだものですから、どうぞ、お好きにして頂いてよろしいのですよ。お国で使われていたものを運ばれても構いません」
劉備は、新妻へおべっかを使うが、取り囲む様に控える武装侍女達の姿に押されていた。
さすがに、部屋の中で、槍を持たれていては気分も落ち着かない。
「いえ、これで結構……」
孫夫人こと、孫朗は、口ごもり、こちらも落ち着かない様子を見せていた。
劉備には、呉の姫、そして、親子程の歳の差という気まずさがあり、孫朗には、蜀に嫁いだ、そして、兄、孫権の言い付けを実行しなければならない、という
政略結婚の始まりへ、どう、踏み込んで行くか。面会を重ねて行くしかないのだろうと、場には諦めのような沈黙が流れている。
それではと、劉備は、後ろに控える趙雲へ退室の合図を送りつつ、孫朗含め、皆へ笑顔を向けて席を立とうとした。
その時。
「尚香と、お呼びください!」
孫朗が叫ぶ。
胸のつかえを吐き出すかのように、そして、なぜか、劉備を睨み付け、黙していた新妻は、いきなり声をあげたのだ。
「しょうこう……様ですか」
余りの勢いに、席から立ち上がりかけたままの姿勢で、劉備は答えた。
「く、国では、そう、呼ばれておりました。特に、母が、気に入って!」
理由の様なものを、訴えかけてくるが、また、それも、非常に勢いがあり、劉備は、中腰のまま妻の変貌具合に仰天するのだった。
「ならば、劉備様、そうお呼びになられれば?このように、うら若き姫君を、孫夫人、と、お呼びするのは味気ないものですよ? 」
固まりきる劉備を、ほぐすかのように女人の声が割って入ってくる。
「まあ、尚香様だなんて、可愛らしいお名前。でも、私どもは、やはり、孫夫人とお呼びすべきですわよねぇ」
控えていた趙雲が、いきなり入ってこられますかと、言いたげに顔をしかめた。
せっかく、気まずい部屋から、退出できる機会を乱入してきた女──、黄夫人に邪魔立てされたのだから。
しかも、孫朗の顔つきは、非常に険くなっており、黄夫人を何者だとばかりに睨み付けている。
「あらまあまあ、お邪魔いたしまして、ですがね、若君が劉備様がお帰りと聞いて、是非にと言われましては……」
このところ、周辺の州へ、視察ごとで、小競り合いを押さえに劉備達は出向いていた。
そして、脅威となりえそうな土地には、お目付け役として、信頼できる古株の武将、関羽と張飛を各々置いてきた。
劉備は、久方ぶりの帰還だったのだ。
「ですよね、若君?」
黄夫人は、いつの間にか連れて来た、嫡男、阿斗を、父である劉備の前へ押し出した。
「おや?阿斗や?それは?」
「はい、父上、庭で捕らえた鳩でございます」
幼子は、逃げられてはならぬと、両手でしっかり、掴まえている。
「うん、そうか。しかし、人慣れしているなぁ。何処かで飼われていたのかもしれない」
「あらー、若君は、すっかり気に入って、お部屋で飼いたいと、さっきまで、ただをこね……」
ははは、と、笑いながら、劉備は、我が子へ歩み寄ると、
「飼うと良い、しっかり、世話はできるか?」
と、阿斗の頭を撫でた。
「では、逃げないように、趙雲様へ、お渡しなされませ」
お願いできますか、と、黄夫人に促され、鳩を受け取った趙雲だったが、周囲の侍女達の視線がやけに刺さる。
そして、顔つきが、一斉に変わった事に、趙雲は違和感を覚えた。
「では、若君参りましょうか……ああ!そうでした!」
なんと言う失態。劉備様申し訳ございませんことで、と、どこか、芝居がかった黄夫人の態度に、趙雲へ向けられていた視線が、一斉に移った。
その筆頭と言えるのが、孫朗で、苦虫を噛み潰すかのような、なんとも恨めしげな顔をしている。
「ああ、私ったら!そうそう、若様を!」
「おお、そうだ!」
劉備も、うっかりしていたと、孫朗に詫びつつ、嫡男、阿斗を紹介した。
「さっ、御正室の孫夫人ですよ、若様?」
はにかむ、阿斗へ、あいさつするように黄夫人は言うが、先に孫朗が動く。
「あいわかった。阿斗殿、よろしく頼む。して、その、おなご、そちは何者じゃ」
怪訝に、しかし、挑発的な声色で、孫朗は、黄夫人へ問いただした。
「あ、私ですか?ただの、通りすがりの侍女ですわ。少し、古株ですけど。たまたま、若様をお連れして差し上げただけ、孫夫人には、ご機嫌麗しゅう。いえ、尚香様でしたかしら?」
「どちらでも、良いっ!」
言って、孫朗は、くっと、息を吐く。
「あら、恐ろしや。劉備様の御前ですのに!」
いや、恐ろしいのは、二人共だと、劉備、趙雲は、顔を見合わせ、退出するぞと、合図し合う。
「そうだ、趙雲!鳩を!」
「ああ、そうでした!若君、後で、鳥かごに入れて、お部屋までお持ちいたします」
男二人は、逃げ口上を見つけ出し、そそくさと、戸口へ向かった。その後を追うように、さあさあ、若様、と、黄夫人が、したり顔で続く──。
賑やかに去る一同を、孫朗含め侍女達は、黙って見送るしかなかった。