そして、孔明の屋敷では──。
「あら?」
「あら?って、黄夫人?私、どうなっているのです?大丈夫なのですか?」
「……ええ、おそらく、大丈夫。ああ、動かないでくださいまし」
「おそらく、って?!おい、趙雲、本当のところは、どうなのだ?!」
パチンと、
「ですから、旦那様、動かないでって、言ったのに」
「か、鏡を!嫌な予感が、するのですけれど!」
もう、うるさいお人ね、と、鋏を持つ孔明の妻──、黄夫人は、控える侍女に、鏡を持って来るよう言いつけた。
「櫛でとかせば、なんとかなりますよ。そもそも、バッサリやられてたのですから、今更、どう、整えろと言うのです?あら?趙雲様?お茶のおかわりは?お茶受けに干し杏子は、お好みじゃなかったかしら?」
夫人は、側に腰かける趙雲を見る。
「あ、あの、黄夫人、好みの問題ではなくてですね、その、なぜ、侍女が、この様に私の側に……」
はい、あーん、と、侍女が、趙雲へ向けて、干し杏子を差し出していた。
「まっ、ひとつの、おもてなし、というところかしら?」
ふふふ、と、夫人は、笑う。ついで、趙雲を囲むように控える侍女達も笑った。
「なんというか、私には、もったいない、もてなしで……」
ふうと、息を付くと、趙雲は、額に滲む汗を手のひらでぬぐった。
それを見た、侍女が、袖で拭おうと体を近づけるが、趙雲は、慌てて身を反らし、
「さても、黄夫人の様に、あちら様も、お心得が備わっておられれば……この様な事にもならなかったものを」
と、一人ごちた。
「あらまっ、そんなに手が、かかるお方なの?あっ!」
「あっ!って、あっ!って、仰いましたよね!おい!鏡は、まだか!」
孔明が叫んだ。
一瞬にして、凍り付いた場の雰囲気と、恐る恐る差し出される鏡に、孔明は、半ば、事を悟ったが、しかし、自分の姿を見なければと、鏡を覗きこんだところ……。
「黄夫人!こ、これ!!ほとんど、顎髭がないですよ!!」
「だってね、こちらを整えれば、あちらが長く、そして、整えたところ、今度は、反対側が……」
妻の言い訳に、孔明は叫んでいた。
「おい!趙雲!!!どう思う!!!」
「……はあ、いささか、涼しいお顔になられたかと……」
「涼しいとは!」
「ええ、まあ、なんというか、その、犬のような、その様な感じかと……」
趙雲の例えに、皆、わっと笑った。
「まあ!本当に!丸顔の子犬みたい!」
黄夫人は、妙にはしゃいでいる。
「孔明様、黄夫人も、お喜びですし、ここは……」
「ここはって、お前、これ、これですよ!これで、登城できますか!!」
「では、お剃りになられる?どうせ。すぐ、伸びるでしょう?」
鏡を置くと、孔明は、ああと、嘆きのような息をつく。
「あの、私は、これにて」
場に居辛くなった趙雲は、城へ戻らなければと、慌てて席を立った。
「あら?逃げるのですか?あの姫君からも」
黄夫人が差し向ける、挑戦的な視線に趙雲は、前にいるのは名軍師の上を行く、機知に富んだ者であったと思い出す。