人間になった僕はあの収容所ではなく、人間の病院へと搬送された。そこで数日余の深い眠りについていた僕は、夢の中で再び海の中に還り、これまでのヒトとしての時を反芻していた。
初めてあの天井を見た日から絶望に暮れた日々を過ごし、愛する町を、我が家を離れ、あの街へ向かった日のことを。君に出会い、甘く苦い日々を過ごし、君を、我が家を、町を失った日のことを。そして男と向かった村での新たな日々を。
そして自分の一生がどれほど愚かであったかを改めて思い知った。この果てしなく長い人生に課せられた数ある選択を、僕はことごとく誤ったのかもしれない。ヒトであることに囚われ、翻弄され、人間という在り方に情けないほど無様にしがみついたのだ。それは僕が僕であることを失わせ、多くの判断を鈍らせた。全てを失い、それでもなお人間でありたいと願う僕に残されたのは、他でもない人間という皮だけだったのだ。
病院での生活はそれは退屈なもので、時折看護師が部屋に入ってきてなにやら確認したり、食事を運んできたり、外の景色を見ましょうと言って病院の庭まで車椅子を押しに来たりするわけだが、何とも味気ない。
老爺になり、すっかり身動きも取れなくなってしまった僕は、ただ一人、ベッドに横たわる以外、できることがなかった。
僕は男と違って自分と血の繋がる者を誰一人知らない。もちろん逆も然り。かつての家族は遥か遠い過去にこの世を去っている。であるからこそ、この部屋に誰かが訪ねに来るわけでもない。
ただ一人、看守がやって来た。
彼が僕に全てを語ってくれた。あの日店の前で見つけたのも、尋問を続けたのも、館の前で見つけてくれたのもこの者だ。変わらず彼は寡黙で、ただ黙って僕の横に置かれた丸椅子に腰掛けていた。
途中、我々はそこに流れるテレビのニュースに気を逸らされた。そこには海の中に育つ氷柱、海底生物の屍が映っていた。
"人類初、ブライニクルの撮影に成功"
流れる映像は、僕があの日追われた死の指そのものであった。
撮影者は氷点下二度の海の中、五時間ほどかけて撮影したという。この現象に人間らは
このとき初めて我々は、自分たちの能力が自然によって起こされた事象であったことを知った。突然変異を起こし、ヒトになったのではない。この世界であらゆる自然現象が起こり得るように、地球上に生息する一つの生物として、人という生物がその対象に選ばれた、ただそれだけだ。
このとき看守の顔に一筋の影が落ちたように思えた。それはほんの一瞬のことで、次の瞬間にはいつもの無表情に戻っていた。彼はこの映像を見て、何を感じたのか。自分の生を反芻したのだろうか。この瞬間まで得体の知れない何者かである自分を受け入れ、多くのヒトの生を見てきたこの男が、初めて自分の正体を知ったのだ。我々は得体の知れないヒトではない、『ブライニクラー』であると。
テレビは次のニュースを映し出した。何事もなかったかのように。僕と看守は互いに顔を合わせることなく、ただじっとその画面を見つめていた。
そして最後に彼はこう告げた。
「お前の記憶を消さねばならない」
意外にも僕は彼の言葉を淡々と受け止めた。そうか、人間に戻ったということはそういうことか。他の人間がそうであるように、僕もまたヒト、いや、ブライニクラーの記憶を持ってはならない存在になったのだ。
そして彼は続けてこうも告げた。
「次の月曜まで待つ。それまでに後始末をするがいい」
後始末。この身に始末をつけろということか。ブライニクラーに別れを告げ、この百六十六年間の記憶を抹消するために。
これが僕に課せられた最後の選択。人間に戻る準備はできている。けれど、このまま全てを忘れてしまってよいものだろうか。人間に戻った先に残された人生は決して長くはない。そこに僕が生きた証は残るだろうか。君と過ごした日々は残るだろうか。そうして今になって僕は気づくのだ。この日々を決して失ってはならないと。誰の記憶に残るでもない、惨めと蔑まれるやもしれぬこの老いぼれを、ただ黙りの中に閉じ込めてしまうにはあまりに虚しい。僕の記憶から消えてしまえば、それは夥しい数の人々の喧騒の中で儚く散ってしまう。
僕は看護師に頼み、一冊のノートと一本のペンを買ってきてもらった。僕に残されたのは七日間。この時間に全てを捧げよう。かつての自分の愚かさに恥を知り、そして再びこの世界に愚かさを示す。科学の証明を望むでもない、我々を知らしめるわけでもない。密かに霧のような世界で、最期の時が来るまで書き続けるのだ。
この愚かで、情けない男の人生を。一人の女性を愛し、守り抜けなかった男の生涯を。
そうして初めのページにこう記した。
『ブルー・ブライニクルの回想録』
親愛なる君へ
これから僕もそちらへ行く。そうしたら今度は何にも縛られず、自由な時を過ごそう。共に過ごそう。大きなクリスマスツリーを飾って。
—了—