轟音が響き渡った。
突如として書斎は氷柱に包まれた。
「天よ、神よ、この告白を聞いていたでしょう!私は救われて然るべき!」
男は、彼の持ちうる全ての能力を解放した。積もり積もった怒りは、ただ凍らせるだけではない、万物を破壊するだけの力を持っていた。
書斎の壁はメリメリと音を立て、一瞬にして本が雪崩のように降ってきた。咄嗟に僕は机の下に身を隠した。それらは一瞬にして凍りついた床を滑るように流れてゆく。僕の頭上にある机も見事に凍りつき、おどろおどろしい姿へと変貌した。
「何を躊躇っておられるのです?悪がどちらなのかは一目瞭然でしょう!」
男は崩れゆく書斎の中で神に懇願した。その必死さは哀れなほど情けなく、数奇な男のこれまでの生を物語っていた。
その後ろで家中の凍りついた窓が割れる音が響き渡る。村中に破片が散乱し、外では悲鳴が木霊する。
事の真相を知った僕は、ただひたすらにこの男を殺めたかった。これでもかというほどに苦しめた挙句、地獄へと陥れたかった。
全身が震え上がり、沸き立つほどの憤怒の念にかられていた。男の背後から能力を放とうと構えた。
もう全ては整っている。あとは解放するのみ。けれど、できなかった。真っ直ぐ男の背中を捉えたまま、抱えきれぬ怒りを放ちながら、立ち尽くすことしかできなかった。この男を恐れたからではない。
ここに来てもなお、僕は人間でありたいと強く願ってしまったのだ。愚かだろうか。君は愚かと笑うだろうか。あれほど愛した君を殺められてもなお、男の罪を背負わされてもなお、お前は自分の身の在り方をそこに願うのかと。
こうして自問している間にも、男の能力は暴走してゆく。それは留まるところを知らない。全身から放たれた力は、いつしか我々の周りを囲む壁を葬り去り、数千冊もの本は村に降り注ぎ、ただの板に立つ男二人が外界にむき出しになった。
僕は初めてこの村を見下ろした。男が作り上げたこの村を。我々と同じ能力を持っているにも関わらず、この惨状に恐れ慄き逃げ惑うヒト々。自分の作り上げた楽園の有様に目もくれず、ひたすら神に懇願する男。
今ここで僕が能力を放ったらどうなる?僕の存在を忘れたかの如く、祈りを続ける男に能力を浴びせ、全身を凍らせた挙句、階下へと突き落として地獄を見せることは簡単だろう。
しかしそれは人間のすべきことではない。そして今この男を貶めたところで、君が帰ってくるわけではないのだ。ただ自分の罪をまた一つ、増やすだけのこと。
であれば僕のすべきことはただ一つ。この場を去ることだ。何もせず、ただ姿を消すことだ。男にとって僕は邪魔者でしかない。そして想いを募らせた挙句、君を殺めた。だからこそ僕はこの場を立ち去るべきなのだ。今度こそ完全に姿を消すのだ。ここは僕のいる場所ではない。
僕は家を出た。男が作り上げた完璧なはずの桃源郷は、見るも無惨な姿へと変貌していた。村中の家は見事に凍りつき、そこには氷柱の館が並んでいた。道という道はあの白い石畳の路面を消し去り、艶やかに照り輝いていた。
中心に据えられた見事なまでの噴水は、水を放ったままその動きを止めた。針のように尖った姿は、神秘的であると同時に、男の憎悪を表しているようだった。その村の様子は、かつて僕が愛し壊した、あの小さな町を彷彿とさせた。
僕は罪に問われて然るべき存在だ。能力に囚われるあまり君を救いだすこともできず、町を凍らせ、人々を死へと追いやり、恐怖へ陥れた過去は決して消えない。収容所へ帰ろう。今度こそ息を潜めて、ひっそりと生きるのだ。
誰の人生も傷つけず、誰の記憶も奪うことなく。そうして僕はくるりと振り返り、最後に村を見渡そうとした。
が、そこには鬼の形相をして迫ってくる男がいた。男は僕を逃すまいと、氷の上を這うようにしてこちらへ迫ってくる。殺気立った男は完全に化け物でしかなかった。もう人間でもなければ、ヒトでもない。風に靡くテールコートが、男をより悪魔へと仕立て上げているようだった。
このまま立ち去るか、立ち向かうか。そこにはもう村人の気配はない。皆、館の方へと逃げていったようだ。この村に思い残すことはない。男に立ち向かうなど、これ以上愚かな真似を重ねる訳にはいかない。このまま立ち去ろう。それで良いのだ。
目の前に壁がある。僕はその壁に全神経を集中させた。人間でありたいと強く願いながら。氷の壁はじわりじわりと大きくなっていった。それはとても分厚く、高く、果てしないものに成長した。とても登って越えられるような壁ではない。
殺気立った男の前に、泣き喚く小さな子どもがいた。男は道すがら辺り構わず万物を凍らせては破壊していった。村の者らは男に気づかれぬよう、気配を消し、物音を立てずに村から去っていった。
そこに取り残された一人の幼子。誰の子とも知らぬその幼子は、そこに座り込んで泣きじゃくっていた。静まり返った村の中で響き渡る泣き声。当然のように簡単に男の標的となった。僕は人間でありたい。能力に侵された化け物ではなく、人間でありたいのだ———。
幼子の前に大きな氷の壁がある。それは幼子と僕を守った。全てを破壊しようと迫る男。決して手は下さない。この能力はそのためのものではない。こうして人間として生きるためのものだ。そう言い聞かせ、男への憎悪を全て注ぎ込み、この壁を破壊されぬよう、全神経を壁へ走らせた。
男の力はそれはもう計り知れず増幅し、僕の壁は幾度となく壊された。それでも僕は幼子を抱えたまま、繰り返し壁を作り出した。この能力の最大限の力で持って、この幼子を守らんとした。
これで何が救われるわけでもない。かつて僕が犯した罪がなくなるわけでもない。君が救われるわけでもない。それでも今僕がすべきことは、この男に手を下すことではない。目の前で苦しんでいる幼子を守り抜くことだ。
どれほどの時間が経っただろうか。幼子の泣く声が止んだ。母親が帰ってきた。幼子を返し、二人がその場を立ち去るまで僕は壁を作り続けた。
この頃には僕の力はほとんど残っていなかった。男の力によって滑るように村を追い出された僕は、彼の館の前まで追い詰められていた。
我々の放つ力によって館も完全に凍りついていた。男の破壊力は凄まじく、原型こそ留めているものの、ゴシック調の豪華絢爛な装飾が、鈍い音を立てながら辺りに転がり落ちてくる。青々しく生えそろっていた草原は、破壊されゆく装飾の重さに耐えきれず、あちらこちらで地面がめり込み、土が掘り返されていた。けれどそれまでもが凍りついてしまった今、そこはもう氷野でしかなかった。
僕は背後に耳を澄ませた。鋭い僕の聴力は幼子と母親の足音が消えてゆくのをしっかりと捉えた。
照り輝く氷の雨が降り注ぐ。僕の壁がついに壊れた。僕は能力を放つのをやめた。ただ真っ直ぐに男を見つめ、全ての力を使い切った僕はその場に崩れ落ちるように倒れた。
その後、男がどうなったのかはわからない。けれど、僕の作り出した氷の雨に飲まれていく様子を、それでもなお神に懇願している様子を、最後に見たような気がした。